真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「隣の女房 濡れた白い太股」(1998/製作・配給:新東宝映画/脚本・監督:深町章/企画:福俵満/撮影:飯岡聖英/照明:多摩三郎/編集:酒井正次/助監督:佐藤吏/録音:シネキャビン/スチール:津田一郎/現像:東映化学/出演:村上ゆう・相沢知美・麻生みゅう・樹かず・久保新二)。
 開巻モノローグで自ら絶倫を誇る黒井新一(久保)は妻のマンk・・・・もとい満子“ミツコ”(村上)を朝つぱらから強引に抱きながら、旺盛どころでは片付かぬ性欲が治まることはまるでない。そんな風でこの夫婦に子供の居ないのが、頗る不思議であるのは劇中に於いて触れられはするものの綺麗に通り過ぎ、近所に住む共働きの部下夫婦・赤川、次郎ならぬ四郎(樹)の細君・サセコ(相沢)にも心中秘かに食指を伸ばしつつ、黒井は満子が度重なる同窓会とやらで家を空けるその夜に訪ねて来る予定の、義理の妹・みわ(麻生)に下心をときめかせる。ところで、どうでも最早構はないが、サセコなどといふ名前は、一体漢字でどう書かせるつもりなのか、佐瀬子?親は何をトチ狂つてゐやがつたのか。ところでところで、赤川夫婦揃つての鮮やかではない茶髪には、どんな勤め人なのかと首も傾げざるを得ない。等々と野暮な与太はさて措き、借金を頼み込むも姉に完全却下される、当該シークエンスに限つては十全な前振りも経た上で、首尾よく黒井と、みわ二人きりの夜。若い肉体をポップに狙ふ黒井と、実は五十万もの金が入用なみわの思惑とが愉快かつ熾烈に交錯する件に、ここまでは娯楽映画としての充実を予感させもしたのだが。
 嫁の居ぬ間に嫁の妹と命の洗濯、だなどといふイベントから、一般的には容易に予想し得る緊迫感もさして漂はせない一夜明け。みわが金が手に入つた旨を彼氏(一切登場せず)に電話で嬉々と報告するカットまで差し挿んでおいて、肝心の五十万に関しては清々しく何処吹く風と、呆れるほど鮮やかに正しく等閑視して済ましてのける辺りには、正直逆の意味で凄い勇気―直截には、蛮勇である―だと驚かされた。斯様な次第で、流石に一本の物語としての満足な求心力を保ち得なくなつた展開は、以降は仕方なく一昨日から明後日へと流れて行くばかり。黒井が巡らせるルーズな姦計を軸とした、連れ込みにて既にオトしたサセコとの、赤川宅不倫ミッション。対みわ戦同様クロスカウンターを成立させるべく、もう一つの不貞が用意されもするまではいいにせよ、下手に伏線が丁寧過ぎる分、オチといふ起爆装置が早々に地表に露出してしまつた感は強い。よくいへば、安定感ともいへるのかも知れないが。兎も角強度不足の起承転結を、尺の満了に合はせ「アシャアシャアシャ」と久保新二独特の口跡によるしたり笑ひで締め括るフィニッシュには、そもそもこれで万事締まつてゐるのかといふ疑問が激しく残る。尤も、開巻から全篇を休みなく走り倒す、久保新二一流のアドリブ台詞と顔芸の際限ない数々数々を前にするに、そもそも今作は深町章の脚本・監督による劇映画といふよりは、御存知稀代のエンターテイナー久保新二こと久保チンに支配された、コント映画としての色彩を見るのが、より適当であるのかも知れない。さう捉へた時、端的には自堕落な、始終に対する物足りなさが幾分以上に緩和されもするのか。今作が十二月公開の1998年最終作、即ち1999年の正月映画である点を踏まへるならば、ある意味賑々しいともいへ、村上ゆう×相沢知美×麻生みゅうといふ、芝居の出来る二番手ばかりを集めたやうな女優三本柱の微妙な面子まで含め、矢張り如何なものかと思へなくもない。

 朝食時、澄ました顔で食事を摂る満子を前に、至らぬ妄想に人間の限界まで鼻の下を伸ばした黒井が、「鼻の下伸び過ぎた・・・・」と自らの手で人中を慌てて元に戻すギャグには、どんなメソッドなのかと感動的に笑つた。一方、黒井が赤川を自宅での夕餉に誘ふ線路際の件。黒井が大袈裟によろめいてみせるのは、素面で面喰つてゐるやうに見える相沢知美のリアクションをみるに、あれは恐らく、久保チンが普通に蹴躓いたのではなからうか。


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 「いんらん家族計画 発情母娘」(2003/製作・配給:新東宝映画/監督:深町章/脚本:岡輝男/企画:福俵満/撮影:長谷川卓也/編集:酒井正次/助監督:佐藤吏/録音:シネキャビン/スチール:津田一郎/現像:東映ラボ・テック/出演:麻白・里見瑤子・風間今日子・岡田智宏・丘尚輝・高橋剛)を、プロジェク太上映の地元駅前ロマンにて、「発情家族 母と娘の性題《セックス》」と改題された2007年新版、ではなく、2008年にインターフィルムよりリリースされたDVD題、「制服美少女 はじめての発情期」として観戦したものである。中身は全く、新東宝のカンパニー・ロゴで始まるところからピンクそのまんまなのだが。
 女子高生の吉田ひまわり(麻白)は両親と折合が悪く、彼氏の浅川明彦(高橋)を伴なひプチ家出中。ところが母親から心配するメールが届くや、それまで付き合はせた明彦のことは無体に放置、そゝくさと帰宅する。ところがところが、その日はひまわり十八歳の誕生日だといふのに、父・祐一(岡田)も母・和代(里美)も共にそのことはさて措き小言をいふばかり。不貞腐れたひまわりが二階の自室にこもつてゐると、プレゼントのケーキを持参した明彦が果敢に窓から来訪。感激ついでに、ひまわりは体を許す。とはいへ、そのやうな無防備な情熱が通らう相談にもなく、部屋を訪ねた祐一にポップに発覚。当然のことながら再度更に叱られたひまわりは、夜の闇も押し再び家を飛び出す。森の中、「生まれて来るんぢやなかつた」といぢけるひまわりの前に、「そんなこと、いふもんぢやないよ」と諭す謎の青年(丘)が現れる。そのシチュエーションで見知らぬ男と遭遇した場合、十八の女の子ならば十中八九脊髄反射で警戒しようところだが、その点については清々しく等閑視したまゝに展開は進行。決してひまわりが祐一や和代から望まれずにこの世に生を受けた訳ではない旨を示すために、三十年前に遡り当時高校生の父母が出会つたところから、ひまわり誕生までをトレースする時間旅行に、丘尚輝はひまわりを誘(いざな)ふ。在りし日の祐一と和代は、老けメイクを離脱した岡田智宏と里見瑤子がスムーズに兼務。里見瑤子は兎も角、岡田智宏はどんなに派手に白髪メッシュを頭に入れてみたところで、劇中現在時制の老け役が画期的にサマにはならない。よくいへば若いのだが、歳の取り方の未だ見えぬ男でもある。
 とかく難しい年頃の少女が、恋に落ち結ばれた双親が自身の出生に喜ぶ様子を目撃することにより、前を向いて心を開く。m@stervision大哥の記述を臆面もなくなぞるのも気が咎めぬでは勿論ないが、ちんまりとしたファンタジー系ジュブナイルのやうな、それでゐて成人指定ホームドラマである。容易に予想し得る丘尚輝の正体も含め大筋の全ては予定された調和の中に納まり、その限りに於いては芸を欠くと悪し様にいふならばいつていへなくもないが、同時に爽やかに心温まる、素直な素直な娯楽映画である。そんな中特筆すべきは、さりげなく麗しいピンク映画固有の文法。現在の吉田家は、元々は和代(旧姓鈴木)の実家であつた。三十年前、祐一は和彦のことを実はどうかういへた筋合にもなく、全く同様に夜間に窓から和代の部屋に忍び込む。そのままオッ始まる初めての性交、親のさういふ姿を見るもんぢやないね、と丘尚輝はひまわりを連れ退場しておきながら、その後の一部始終を観客にはキッチリ見せる。更に感動したのは、最早機能美とすらいへよう、三番手濡れ場要員を担ふ風間今日子投入のメカニズム。ここで整理しておくと、麻白の絡みの相手は彼氏役の高橋剛が、里見瑤子に関しては夫役の岡田智宏が務める、そこまではいい。問題なのが、娘が父母の来し方を辿るといふ物語に際しては、普通に考へれば第三の女が登場する余地は存在しない。激越に開き直つて完全に木に竹を接ぐにしても、今度は風間今日子の相手方たる、俳優の残り枠が矢張り存在しない。いつそ百合の花を咲かせてみせるには、和代の造形は果てしなく遠い。それならば一体全体、今作がこの難題を、如何に解決したのかといふと。ビギナーズ・ラックなのかそれともバッド・ラックなのか、最初に結ばれた夜に子を授かりつつ、和代は初産を流産する。その後二人は結婚した七年後、和代は祐一に、改めて子作りを求める。もののそれから二年、夫婦は子宝に恵まれない。自身は診察を受け何の異常もなかつた和代は、祐一にも検査を勧める。斯くいふ次第で風間今日子はといふと、来院したはいいが、エロ本片手に検査サンプルの精液採取に悪戦苦闘する祐一のために、当初は爆乳パイズリで一肌のつもりが、最終的には二肌三肌どころではなく一通り脱いでしまふ羽目になる看護婦・竹下恭子。挙句に一度は祐一が中に出してしまつたゆゑ、二回戦にすら突入するといふシークエンスの底はよくよく顧みなくとも抜け切つてはゐるが、風間今日子持ち前の頑丈な安定感が、ルーズな無理も意外と綺麗に通す。しかもひまわりが目出度く生まれた暁には病院庭にて、出張先から走つて文字通り駆けつけた祐一と大仕事を終へ出迎へた和代の傍らで、恭子が生まれたばかりの赤子を優しく抱くショットも用意される。ここに際しての、一旦は派手に弾けさせた飛び道具のさりげない回収ぶりが、重ねてなほのこと麗しい。一見他愛も工夫もないやうにも見える一方で、その陰に慎ましやかに流れる実直な論理と技術とに、温かくと同時に胸を熱くさせられる一作である。

 ところで今作ならではの機軸が明後日に火を噴くのが、駅で電車を待つ和代に、祐一が一目惚れする出会ひのシークエンス。矢沢永吉に憧れロック・スターを夢見る祐一が、文庫本に目を落としホームに立つ和代の背後から、あらうことかツイスト・ダンスで体を左右に激しくスイングさせながら接近するなどといふ、微笑ましくも甚だしい離れ業を披露してのける。先にも触れたやうに老け役はてんで形にならない反面、この出鱈目なアプローチは、それでも岡田智宏十八番のメソッドといへるのではなからうか。


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 「熟女淫行マニア」(1997今度こそ『変態熟女 裏わざ表わざ』の2010年旧作改題版/製作:国映・新東宝映画/配給:新東宝映画/脚本・監督:深町章/企画:朝倉大介/撮影:千葉幸男・池宮直弘/照明:伊和手健/助監督:広瀬寛巳/編集:酒井正次/協力:セメントマッチ/出演:しのざきさとみ・相沢知美・林由美香・森山龍二・池島ゆたか)。
 東京での生活に疲れた教師の池上(池島)は、教職は休職した上で、過去に捨てたといふか一方的に逃げた女を追ひ、山梨県甲州市は大菩薩山麓の田舎町に流れて来る。即ち、要は御馴染み水上荘映画といふ寸法である。池上にとつて二十年ぶりともなる当地が、故郷なのか単なるかつての赴任地に過ぎないのかは、特に明示されない。池上は早速、当時直截にいへば手をつけた元教へ子の綾子(しのざき)と再会する。高校時代に両親を同時に事故で亡くした綾子は二人暮らしにしては大き過ぎる実家―が、いはずと知れた水上荘―に、現在は家族ではない加代(相沢)と同居してゐた。至極スムーズに綾子との関係を再燃させた池上を、矢張り元教へ子で今は父親の石材工場を継いだ横山(森山)も歓待、身の振り先のない恩師を快く自身の会社の顧問に迎へる。初めて見たが、森山龍二といふ人はメガネを外した方が幾分ハンサムだ。頑強な眼鏡至上主義者としては、単に壮絶なミス・チョイスに過ぎないやうにも思ひたいが。林由美香は、横山行きつけの囲炉裏が売りの居酒屋女将、兼情婦のミユキ。この居酒屋も、店名の特定にまでは未だ至らないが地味にサブ頻出の物件ではある。ひとまづ、順風に新生活をスタートさせたかに見えた池上ではあつたが、昼間の水上荘が無人なのか鍵が閉ざされがちなことと、絶頂に達した綾子が漏らす「タロー」といふ聞き覚えのない男の名前とに猜疑を募らせる。
 とりあへず作劇の軸が通つたところで、以降は展開上の目立つた手数にも欠き、中盤清々しく中弛む感は否めない。この期に改めて気が付くと、この物語の薄さといふ特徴は、深町章映画にしばしば見られるものではなからうか。池上先生と女学生の綾子との回想もさしたる深まりを見せないばかりか、よくよく考へてみると、鍵を半分握る「タロー」との間に齟齬も生じさせなくもない。この点に関しては、当時の綾子は、未だ女の悦びを完全には知らなかつたのだ、といふ回避の方便もなくはなからうが。とはいへ、唐突ともいへるクライマックスの謎明かしに際し、一旦は濡れ場要員をわざわざ尺の繋ぎに再登板させたものかと早とちりさせかけた、ミユキと横山の二開戦を発端に配する構成の妙は、林由美香が初登場時に何気なく撒く「女は寂し過ぎると、色情狂になるんだつて」といふ伏線も当然に踏まへて、一見全くさりげなくもピンク映画として実は実に秀逸。煌くやうに可憐な相沢知美が、終に辿り着かれた真相の露見を前に零す涙も頗る叙情的に、稲尾実から数へて二百作を優に超える深町章のキャリアは流石に伊達ではないと唸らされる、決して殊更に前に出てくることはないままに地味な秀作である。

 反面、よくいへば最早瑣末には囚はれぬとでもいふことなのか、ところどころで微笑ましく花開く綻びは側面的なヒット・ポイント。「タローのお宿」来訪時の符丁として、超有名ドッグ・フードの商標が堂々と実名登場する大らかさも兎も角、綾子とは百合の花も咲かせる、加代の自慰シーン。手動のボカシが堪へきれなくでもなつたのか純粋に頃合を見誤つたか、必要ない時点あるいはアングルから、フレーム内にウロウロと入り込む粗相は爆発的に可笑しい。これでそのまま完成品で御座いと通してしまへるといふのも、何と麗しき世界よ。


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 「パイズリ修道院 私を、懺悔して!」(1995『巨乳修道院』の2006年旧作改題版/製作:旦々舎/提供:Xces Film/監督:浜野佐知/脚本:山崎邦紀/撮影:稲吉雅志・小山田勝治/照明:秋山和夫・新井豊/音楽:藪中博章/助監督:高田宝重/制作:鈴木静夫/ヘアメイク:斉藤秀子/スチール:岡崎一隆/出演:森川まりこ・青木こずえ・桃川麻理子・平賀勘一・杉本まこと・リョウ)。出演者中、リョウはポスターには栗原リョウ。マイナー・チェンジながら、リョウ・栗原良・ジョージ川崎・相原涼二に続く未知なる五つ目の名義かと心ときめかせたものだが、単なる、ポスター上のフライング―直截にはエクセスが仕出かした―に過ぎないやうだ。
 開巻即座に轟く、「ウルトラQカップ 124cm」の特大スーパー。完全に予告の感覚だが、これでも本篇である。流石にQカップといふのは為にする方便のやうだが、日本で初めて成功したプランパー女優とされる森川まりこが闇雲に誇る、肉の爆弾ともいふべき巨大な二つの正しく肉弾が、透明の板にオッパイを押しつけるギミックを多用し画面も何もかも―最終的には映画そのものをも―木端微塵にせん勢ひで暴れ狂ふ。バスト・サイズが124cmは兎も角として、この人乳輪の直径も何cmあるんだ?20といふと言ひ過ぎであるやも知れぬが、15は堅いやうに思へる。率直なところ、その筋の属性は最大出力全速後進で持ち合はせぬこともあり、興奮するだのしないだのといふよりも、寧ろ奇怪な衝撃に打ちのめされた感が、個人的には兎にも角にも強い。勃つ勃たないでいへば、俺には無理だ。
 さういふ、何故か修道女姿の森川まりこは、沢野正樹(リョウ)が繰り返し見る悪夢のヴィジョン。沢野は押し潰されるかのやうな圧迫感を覚える、巨乳恐怖症のサラリーマンであつた。ある日沢野は、電車で隣に座つた平賀勘一が、無造作極まりなく拡げる洋物の巨乳雑誌に戦慄する。非常識の火に油を注ぎ、逃げた沢野を追ひ駆けて来た古井義雄(平賀)は、その名も「巨乳崇拝クラブ」主幹。あまりにも清々しい、直球勝負ぶりが実に鮮やかだ。巨大な世話でしかない啓発の使命感に明々後日に燃える古井は、巨乳を激しく忌避する沢野を自宅に招く。すると森川まりこほどではないにせよ、矢張り巨乳の持ち主である古井の細君・リカ(桃川)が、いきなり扇情的な赤いシースルーのネグリジェ姿で登場。とここで、jmdbのデータによるとリカ役の桃川麻理子は、鈴木敬晴の「本番夫婦 新婚VS熟年」(1993)第一話に登場する桃川麻里子と同一人物であるとされる。が、気の所為かメイクの為せる技か、体型は似通つてもゐるものの、顔はまるで別人に、しかも今作の桃川麻理子の方が、二年後であるにも関らず随分と若く見えることは此は如何に。話を戻して、「巨乳崇拝クラブ」は、巨乳は皆で共有するなどといふ、いふならば原始乱婚制に近い大らかな性観念を旨としてゐるとやらのことで、古井はリカを気軽に沢井に宛がふ。さうしたところが沢井も沢井で、案外と普通にリカと致してしまふ辺りが、どうにも展開に背骨が通らない躓き処ではある。さうかうしながらも、相変らず沢野が何故か修道女姿の巨“大”乳女のイメージに苛まれる中、個人で主催する「聖書熱烈読書会」の訪問員として、布施志摩子(森川)が沢野宅を訪れる。トラウマそのままの巨乳に驚いた沢野は、ひとまづ志摩子を紹介し、古井を驚喜させる。その際に古井が「巨乳崇拝クラブ」を誤魔化したサークル名が、「グレート・マザー崇拝会」。ある意味、いつてゐることが嘘ではないのだが。
 正攻法の甘い色男を煌かせる杉本まことは、「巨乳崇拝クラブ」会員・松田秀夫。夫の性的な偏向に悩む松田の妻・夏美を演ずるのは、a.k.a.村上ゆうこと青木こずえ。御存知の通り青木こずえのスレンダー微乳あるいは美乳に対し松田は催さず、愛情はある反面夫婦生活はままならなかつた。そんな松田に踏ん切りをつけさせるべく、古井は自身が先に頂戴した志摩子を引き合はせる。
 ウルトラQカップ124cmの怪物性に流石の浜野佐知も屈したか、平素の女性主義がまるで影を潜めた、その意味に於いても珍作。最終的に圧迫感から開放された沢井が、志摩子との3Pに古井と共に突入するに至るクライマックスは、主人公の克服と成熟とを描いた物語、と捉へるならばある意味娯楽映画の着地点として十全といつていへなくもない。尤も画期的に箆棒なのが、爆裂する修道女の木に竹を接ぎ具合。古井と松田を連破した志摩子に、沢井はシスター服を着て貰つた上で、終に辿り着き得た過去の忌まはしい出来事を告白する。それは幼少期に、端的にいへば巨乳女から性的悪戯を受けたといふもの。当時そのことを親にも相談出来なかつた沢井少年―回想パートは一人称カメラで押し通し、子役は登場せず―は事件を意識の奥底に押し隠し、正体不明の恐怖だけが残された。ここで森川まりこのウルトラQカップ124cmばりに特大問題は、記憶の中に呼び戻された当の痴女(森川まりこの二役)の格好が、青い帽子に黄色いノースリーブのワンピースなどといふ、全くの平服であること。一体全体、

 何処から修道女は湧いて来たんだ!

 山邦紀のことだから何某かの、先立つモチーフが存在するのやも知れぬが、そのやうなものは逆の意味で潔く、劇中欠片も匂はされすらしない。新旧タイトルに即して整理すると、パイズリはある。そしてさうなると当然の前提条件として、巨乳もある。懺悔は沢井の告白が似た形を採ると見做すことが出来、修道院はさて措き、修道女は登場する。但し、女が修道女である必然性が唸りを挙げて見当たらない。薮から棒どころか長大な ICBMが飛び出して来たが如き、無闇な破壊力が炸裂する、最早珍作などといふ生易しい範疇には納まりきらない一作である。


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 「恥づかしい検診 興奮OL」(1993『失神OL 婦人科検診2』の2010年旧作改題版/製作:旦々舎/提供:Xces Film/監督:浜野佐知/脚本:山崎邦紀/撮影:稲吉雅志・小山田勝治/照明:秋山和夫・宮田倫史/音楽:藪中博章/編集:㈲フィルム・クラフト/助監督:森山茂雄/制作:鈴木静夫/ヘアメイク:斉藤秀子/スチール:佐藤初太郎/録音:ニューメグロスタジオ/現像:東映化学/出演:西野美緒・森山美麗・斎藤桃華・久須美欽一・ジャンク斎藤・芳田正浩・栗原良)。
 三星商事京都支社に勤めるOLの水原奈都子(西野)は、有給を使ひ東京に向かつた―はんなりとした京都弁を駆使する西野美緒は、現に京都出身―上で、著名な婦人科医の熊木慎二(久須美)を訪ねる。熊木が発表した、性行為と予知能力との相関関係に関する仮説に興味を持つての上京だつた。上司の加東次郎(栗原)と不倫状態にある奈都子はある時から、絶頂に達すると失神しその瞬間に、次にセックスする男のイメージを見るやうになつてゐた。誰かしらの幻覚を見ようが見まいが、当の性交は手篭めにでもされない限り、当人の気持ちひとつに関る事柄でもあるやうにも思へて仕方のない疑問はひとまづさて措き、予見通り本社から京都支社に転勤して来た吉岡弘(芳田)と関係を持つた奈都子が幻視した次なる男といふのが、実はほかでもない熊木であつた。奈都子の奇想天外な相談を受けた、熊木は意外にも特段驚くでなく。奈都子と同様熊木の患者に、矢張り絶頂時にこの人の場合は翌日の天気を予知ししかも的中させる、佐伯靖子(斎藤)がゐた。靖子の膣内には、通常人には見当たらない位置に突起が認められ、熊木はそれをGスポットならぬ、予知のYスポットと仮称した。予知するからYスポット、時々山﨑邦紀といふ人は、頭がいゝのかさうでもないどころでなくさうではないのか、よく判らなくなる。そもそも、GスポットのGが独人産婦人科医のエルンスト・グレーフェンベルクの名に由来するのに因むならば、こゝは発見者の名を冠して、Kスポットとならうところである。横道から話を引き戻すと、奈都子にも、Yスポットではないかと推定される突起物は確認された。一方、欠片の背徳も香らせずに熊木と男女の中にある看護婦の紀野恵(森山)は、吉岡との一戦に際し熊木を見たといふ奈都子の証言そのものを、抱かれたいがための方便であると一蹴する。
 抑揚を欠いた展開の鍵を握るジャンク斎藤は、東京までわざわざ追ひ駆けて来た吉岡との再会も経て、遂に治療研究目的と称した熊木と致した奈都子が予知する更なる男・辰巳雅夫。東京の雑踏の中奈都子と遭遇した辰巳は、辰巳も辰巳で射精の瞬間次にセックスする女のイマジンを見る体質の持ち主で、それのみか奈都子を幻視してゐた。とかいふシークエンス自体は、頗るロマンティックなものなのだが。ところで、すごすごと京都に尻尾を巻いた吉岡からYスポットの情報を聞きつけた加東は、セックス予知の商業利用を思ひたち俄然暗躍する。
 望まぬ力に悩む、異能力者同士のラブ・ストーリー。といふと、最終的には互ひに平穏な幸福を求め自らその奇特なスペックを手放す着地点まで含め、綺麗なSF映画のやうな物語ではありながら。致命的に今作の足を引くのは、清々しい変哲のなさが煌かないジャンク斎藤の、ある意味猛然としたレス・ザン・魅力。ヒロインが終に巡り逢ふ運命の男として、一本の劇映画を背負はせよう相談には、逆立ちしたとて果てしなく途方もなく何処までも遠い。とかいふ次第で、機能不全の本題に代り前面に果敢に飛び込んで来るのが、火を噴く企業戦士栗原良の明後日な皮算用。確定的な気象予測をビジネス化出来れば、巨額の利益を生む筈だと踏んだ加東は靖子に接触。既にその時点で、残念ながら靖子のYスポットが消滅してゐるのは熊木の診察も受けた上で確認済みであるにも関らず、そもそも奈都子を開発したのは自分だなどと、加東は頓珍漢な俺様自慢を振り回し事に及ぶ。まんまとエクスタシーまで導いたはいいものの、悦んだだけで案の定予知能力はケロッと喪つてゐた靖子に対し、持ち前の闇雲な重厚感を炸裂させ栗原良が激しく落胆するカットが、爆発的に下らなくて笑かせる。大体が、よしんば加東の事業計画が実用化の運びに辿り着いたにせよ、その暁には天気予報の度に、靖子は情交しなくてはならない羽目になる。よくよく顧みるに、頑丈に商業性とも両立する稀有なアクロバットを披露する、浜野佐知の頑強な女性主義。並びに山﨑邦紀の狂ひ咲く変幻怪異と、その奥底で全てを統べる明晰な論理。といふこれまで顕示的な理解に加へ、このドライな馬鹿馬鹿しさといふ奴も、旦々舎の主力装備に改めて数へ得るのではなからうか。ピンク映画といふカテゴリーからも当然主砲として期待されるべき、旦々一流の重量級の煽情性といふ面に於いては、森山美麗と斎藤桃華は何れかが二番手でもう他方が三番手、といふ区別に形式的なビリング以外にはさしたる違ひも感じさせず、等しく半ば通り過ぎられる反面、俳優部総嘗めの四冠を麗しく達成する主演女優の西野美緒に関しては、整つた美貌も悩ましく熟れたオッパイも、お腹一杯に堪能させて呉れる。

 一点釈然としないのが、熊木がYスポット研究の過程で、類似する現象ではないかと所謂デジャ・ヴュを持ち出す件。行為当時に発現する既視感と全く事前に予知するYスポットとでは、根本的に異なる現象であるやうに直感的には思へるのだけれど。


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 「夜の痴漢病棟 ナースの尻」(1994『新・産婦人科診察室』の2004年旧作改題版/製作:新映企画株式会社/提供:Xces Film/監督:新田栄/脚本:岡輝男/企画:伊能竜/撮影:千葉幸男/照明:渡波洋行/編集:酒井正次/助監督:国沢実・広瀬寛巳/撮影助手:新川二郎/照明助手:下別府浩/音楽:レインボーサウンド/効果:時田グループ/出演:片桐かほる・草原すみれ・本田ゆき・山科薫・岡竜太郎・久須美欽一)。企画の伊能竜は向井寛の変名。
 小出産婦人科医院、院長いはく神聖な筈の診察室。診察台の上では、当の小出隆夫(久須美)が、恋人の佐藤由利(草原)とお熱くお盛んな真最中。その様子に、勤務三年の看護婦・花田しのぶ(片桐)は臍を曲げる。微かに尖らせた口元を右に歪めてみせるのが、片桐かほるが多用するメソッドであるやうだ。しのぶは看護学生時代に講師として薫陶を受けた際の熱意と誠意に惹かれ、小出の医院に勤務することを選んでゐた。事後、そんなしのぶの視線に触れた小出はこの期に反省する素振りを見せもするものの、事の最中の久須美欽一はといふと、まあ手放しで楽しんでゐるやうにしか見えはしない。そんな小出産婦人科を、女子高生の島崎舞衣(本田)が訪れる。部活動の最中に弾みで破れてしまつた処女膜を、再生して欲しいとのこと。そもそもその日は既に診察時間外ですらあるのだが、未成年にさういふ治療は行はないことにしてゐる方針を一旦さて措き、小出は麻衣の将来も鑑み早速施術。麻酔を打つ描写すらスッ飛ばした上、新田栄映画頻出の膣内模型―といふほど、精巧なものでもないが―も持ち出し、体内に溶け抜糸の必要のない糸でチョイチョイと縫い合はせる。然し診察台で女と致すは女子高生に処女膜再生手術を施すは、小出の信条は曲げる為にあるのか。その場で治療費をキャッシュで支払つた麻衣は、しのぶが驚くほど多額の現金を持ち歩いてゐた。ところが何のことはない、純情ぶつた麻衣の正体は援助交際の常習犯で、処女に大金を払ふといふ上客の情報を掴み、とうの昔に捨てた膜を再生したものであつたのだ。煌くらしさで低劣な好色漢をそれはその限りに於いて好演する山科薫は、まんまと驚喜する麻衣の間抜けな客・大川友三。麻衣の補導に伴ひ事実を知り落胆する小出の前に、今度はほかでもない由利が、あらうことか由利も処女膜再生手術を求め現れる。
 事前には、てつきり岡輝男が丘尚輝の以前に使用してゐた役者名義かと推測した岡竜太郎は、名家の御曹司・綾小路尚輝。因みに岡竜太郎を簡単に説明すると、偉大なる将軍様の量産型のやうなルックスである。小出のことなど何処吹く風と、由利は尚輝との玉の輿を何時の間にか首尾よくゲットする。とはいへ綾小路家は嫁は処女しか認めないとかいふ事情で、由利は臆面もなく小出を頼つて来たものだつた。
 方便はどうあれ、処女膜再生手術といふ特異なギミックを二度繰り返す時点で、問答無用に大絶賛無頓着なのか、それとも従来の映画文法に果敢な挑戦を試みた、実は戦闘的な意欲作なのか。あまりのネガティブな衝撃に判断に苦しみさへするあんまりな作劇かと、一度は早とちりさせられもした。ところが由利術中の極々さりげない一応医学的な伏線を軸に、小出の暴力的な悪戯心が時限式に火を噴く展開は、それはそれとして一旦鮮やかではある。尤も以降、そんなこんなで、否直截には“そんなこんなで”とでもしかいひやうのない自堕落な勢ひに物語を任せ、麻衣と由利の二件に懲りた小出と、しのぶが終にといふか何となくといふか兎も角結ばれ、締めの濡れ場を相変らず診察台の上で披露するのがフィニッシュ。だなどといふ映画の生温かい肌触りは、これこそが新田栄の仕事といふに別の意味で相応しい一作。比較的粒の揃つた女優三本柱の中に、破壊力迸る人間凶器が居ないだけで、まだしもマシな部類に入る、とでも最早自分を言ひ聞かせるべきか。これで不思議なことに、全体的な据わりは意外と悪くないので、案外腹を立てることも呆れることもなく、普通のテンションで観てゐられもしないことはないのだが。単に、小生の病がいよいよ膏肓に入つただけのやうな気もするが、この何とも絶妙な匙加減が、案外新田栄といふ映画作家に際するにあつて、鍵を秘かに握るポイントとなるのかも知れない。
 もう一箇所よくよく振り返つてみると実は特筆すべきは、悪びれることもなく乏しいロケーション。しのぶと小出は院内から半歩も外科医、もとい外界に出づることはなく、大川が舞衣を買ふのと、綾小路が由利と初夜に挑むのは、誤魔化さうといふ意図すら殆ど窺へない清々しく同じ物件である。せめて各ファースト・カットのカメラ位置を大きく変へてあれば、受ける印象も変つたのではなからうか。そもそも建物外景といつた、繋ぎの屋外ショットひとつなかつたやうにうろ覚える。

 どうも全体像が未だよく見えないが、別に各作の連関はまるで強固ではないままに、産婦人科医・小出を主人公とするシリーズがあるらしい。これまで感想を書いてある中では、「官能病院 性感帯診察」(1994/小出役は清水大敬)・「本番淫欲妻 -つぼ責め-」(1997)が挙げられる、いづれ全貌を掴みたい。


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 「痴漢バス バックが大好き」(昭和62『痴漢バス バックもオーライ』の2010年旧作改題版/製作:Stone River/配給:新東宝映画/監督:石川欣/脚本:アーサーシモン/撮影:富田伸二/照明:佐藤才輔/編集:菊池純一/助監督:岩永敏明/撮影助手:佐久間栄一・池田恭二・林誠/照明助手:金子高士/監督助手:遠藤聖一/音楽:池田淳一/スチール:田中欣一/録音:ニューメグロスタジオ/現像:東映化学/出演:後藤康史・菊次朗・石部金吉・源関加州・石上ひさ子・浅川れい子・長谷川かおり)。出演者中、源関加州―誰かの変名でないかとは思へるのだが、アーサーシモンも―は本篇クレジットのみ、菊次朗がポスターには本多菊次朗。
 「ナンシー」、「23歳.風俗嬢」、「住所.不定」etcetc・・・・。今で判り易く譬へるとプロダクションI.Gのカンパニー・ロゴに似た字体によるキャプションが、クレジット含め全篇を通して折々を彩る。スタイリッシュであるのは確かにさうなのだが、正直クレジットとして字数が増えると些か読み辛い。ナンシー(長谷川)とキャシー(石上)は、田代まさしと平賀勘一を足して二で割つたやうなヴィジュアルの店長兼運転手・沢田(源関)が回す、“新宿名物”痴漢バスの風俗嬢。因みに実際の車輌はマイクロバスである痴漢バスのシステムは、まづ三千円で乗車券を購入。走行中の車内で女に痴漢のレベルを軽やかに超えたダイナミックなプレイを楽しみ、その先まで致したければ、更に五千円を支払ひ特別乗車券。後に収益を改善する目的で、二万円でいはゆる店外デートの特別寝台券が導入される。特別乗車券込みで八千円までの安さで、何故に客が集まらないのか。因みに降車時には、申し出れば任意の場所で降りられる。ある日仕事を終へたナンシーとキャシーは、二人でホストクラブに遊びに行き、ヒロシ(菊次朗)を持ち帰る。ホストの名前がヒロシかよといふツッコミは、現在の視点で過去を裁断するものだ。出演者クレジットは一切ないものの、痴漢バス乗客とその他ホスト要員とで、そこそこの人数が見切れもする。どちらがその夜ヒロシと寝るかジャンケンで決する格好になるが、ナンシーは後出しでわざと負ける。ヒロシは女と二人きりになると、映画監督志望を騙る手口のスケコマシだつた。因みに口から出任せのプロットは、マッド・マックス風の主人公が、歌舞伎町で風俗嬢を皆殺しにするだなどといふもの。確かに、金が嵩みさうではある。翌日、平素から遅刻がちのキャシーは未だ現れない痴漢バスにナンシーが乗ると、一人の男が勝手に入り込んでゐた。トレンチ姿の生真面目さうな男はフライング客ではなく、刑事の藤原(後藤)。藤原はナンシーに衝撃的な事件を伝へる、キャシーが、自宅で何者かに惨殺されたといふのだ。遺体の状況から犯人は昨晩痴漢バスに乗車―この点に関しては、ホストクラブに繰り出す前に伏線が落とされる―した、無闇な指輪を嵌めた無作法な客に違ひないと踏んだナンシーの言を受け、藤原は客を装ひ痴漢バスに潜入し張り込みを開始する。
 浅川れい子は、欠員を補充すべく痴漢バスに加はる新しい女。源氏名を欠片の頓着もなくキャシーと名づける沢田の無神経さに、ナンシーは静かに心を冷えさせる。単なる濡れ場三番手に止(とど)まらず、ヒロシに入れ揚げるそこそこのドラマも用意される。
 当時Zoom up映画祭の監督賞・作品賞・主演女優賞・助演男優賞―これは後藤康史が獲つたのか、それとも石部金吉なのか―などを舐めたとの評判は伊達ではない、ソリッドかつメランコリックな都会映画の秀作。痴漢プレイに興ずるでもなく、見るから不自然な藤原は痴漢バスに乗り続けるが、ナンシーは知つてゐた。キャシー殺害事件の捜査は、早々に打ち切られてゐたことを。自分達のやうな人間が殺されたところで、世の中は何とも思つちやゐない。ナンシーは藤原に、包み隠さない苛立ちをぶつける。ナンシーに北海道の実家と、夫から捜索願が出てゐるところまでは掴んでゐたが、藤原は知らなかつた。親に殴られ家出したナンシーが、ノーパン喫茶の客と結婚したはいいものの、浮気が発覚し殴られて再び家出。新たに暮らし始めた次の男には、次の男にも浮気された挙句またしても暴力を受け、今はシティホテル暮らしをしながら痴漢バスに乗つてゐる仕方のない来し方を。深夜の公園、藤原と二人のナンシーは、急に嘔吐する。父親は誰だか判らないまゝに、ナンシーは妊娠してゐた。子供は始末し自分と一緒になるやう申し出る藤原に対し、ナンシーは激しく反発する、随分と冷たいことをいふぢやないか。自分は受け容れられても、お腹の子供は受け容れられないのかと。予め人の優しさも幸せも拒むかのやうに、世間の片隅に顧みられるでなく生きる痩せ我慢がいぢらしいヒロインの姿を、だけれども精一杯粋に、気障に描いてみせるダンディズム溢れる一作。ナンシーの他方、女に冷たく裏切られ、心歪めた異常者を熱演する、石部金吉こと清水大敬も激しく意外にも猛烈に素晴らしい。ダンス教室の惨劇を独白する件は、ためにする誇張ではなく涙なくして観てゐられない、ダメ人間の琴線を直撃する名シークエンス。最終的には無体にブチ殺される去就込みで、清水大敬のベスト・アクト候補に推したい。刑事がその存在に気づく、サスペンスとしての煌きを経て、キャシー殺害犯に捕獲・拉致されたナンシーは、藤原の追跡を儚く望み「ヘンゼルとグレーテル」よろしく、特別寝台券を道々に落として行く。そこに被せられるキャプション、「小さな紙きれが ナンシーの命」、ロマンティックすぎるぜ!痴漢バス自体は、純粋に殺人者と被害者の女が偶さか交錯するいはば点に過ぎず、その限りに於いては、たとへば起承転結を磐石に痴漢電車の車中で完結させる難事に成功した類の、頑丈かつ麗しいピンク映画には、一段劣るといへば劣らなくもない。然れども苦さとキレの際立つ、成人指定を差し引いても矢張り“大人の映画”といへよう。襟を正すとよくいふが、観終つた後、思はず襟を立ててみたくなる、背は少し屈めて。
 ところで今作、「痴漢バス ラブホテル直行便」との新題で、1991年に一度旧作改題済みでもある。ではあるが瑣末な野暮をいふと、ラブホテルに入るのは、ヒロシを伴つた初代二代目ともの、何れも仕事終りのキャシーと、藤原と喧嘩別れした後に、衝動的に男―もしかすると、こちらが源関加州?―を拾つたナンシーのみ。即ち劇中にあつて、痴漢バスとラブホテルとが直結してゐる訳では必ずしもない。それならば、原題と今新題に花咲く“バック”はどうなのかといふ話になると、これが案外と、まるで適当につけられた訳でもない。本筋には清々しく影響しない繋ぎの絡みではあれ、疣痔を押し込んで治してやつたところ、快感を覚えた二代目キャシーにナンシーが困惑する件に、恐らく焦点を当ててのタイトルであらう。

 一箇所穴が目立つのが、ナンシーは二代目キャシーともヒロシの店に遊びに行き、矢張り店外三人デート後、あつさりとヒロシを二代目に渡す。そのまゝ二人と別れたナンシーと、ナンシーに惚れ始めた藤原が再会する件。この場合、若干の齟齬も感じさせるが初代キャシー殺しの目星をヒロシにつけ、二代目を大胆に囮としたと捉へるのが、素直な娯楽映画の文法でもあるまいか。未だ四人ともフレームに納まるカットで藤原が捜し求めたナンシーと遭遇する偶然は、あまりにも無造作に思へる。


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 「義父相姦 半熟乳むさぼる」(2010/製作:多呂プロ/提供:オーピー映画/監督・出演:荒木太郎/脚本:荒木太郎・三上紗恵子/撮影・照明:飯岡聖英/編集:酒井正次/助監督:金沢勇大・三上紗恵子/撮影・照明助手:宇野寛之・宮原かおり/音楽:宮川透/ポスター:本田あきら/録音:シネキャビン/現像:東映ラボテック/タイミング:安斎公一/協力:静活・佐藤選人/出演:早乙女ルイ・佐々木基子・淡島小鞠・岡田智宏・那波隆史・吉岡睦雄・小林節彦・太田始・平川直大・安東純也・遠藤一樹・岸本大作・杉岡祐一・杉岡祐介・鈴木克実・正守和宏・増田幸生・水口暢康・美濃瓢吾・依田耕太郎)。出演者中、安東純也以降は本篇クレジットのみ。それと公開題の“半熟乳”といふのは、ひとつの発明に違ひない、オーピー担当者の功を称へたい。
 オーピー映画と多呂プロのカンパニー・ロゴに続き、“協力 静活”をいきなり打ち意表を突いた矢継ぎ早に、“映画の力を信じる人へ”と主演者各人の声と字幕とによつて、開巻早々堂々と謳ひ上げる。到頭ヤキが完全に回つたのか、荒木太郎は清水大敬病を発病したらしい。
 ストーカー客・柳井光男(荒木)に追はれたデリヘル嬢―源氏名:きらり―の緒方紀子(早乙女)は、苦し紛れに逃げ込んだエレベーターで成人映画館・静岡小劇場支配人の眞壁浩(岡田)に匿はれ、辛くも一難を逃れる。そのまゝ小屋に足を踏み入れた紀子は、「R-18でポスターも派手だけど」、「35mmで撮影して仕上げも35mmでした、ちやんと映画なんだよ」云々なる浩の力説も受け、勿論初めてのピンク映画を観てみることに。こゝで無粋を我慢しないと、稼業はともあれ文化的には堅気の女の子に、35mm―いふまでもなく、フィルム幅である―だとかいふたところでまづ話は通らないよね。静岡は余程穏やかな土地柄なのか、至らぬ客から脅(おびや)かされるでなくピンク―時前に浩が「いゝ映画なんだけどね」、と不入りを嘆きながらポスターを示す上映作は、小川隆史のデビュー作「社宅妻 ねつとり不倫漬け」(2009)、当サイトはその意見には与さない―を楽しんだ紀子ではあつたが、帰宅するや心を閉ざし可愛らしい表情を曇らせる。殺風景な部屋では義父の譲(那波)が、独り紀子の帰りを待つてゐた。紀子実母(一切登場せず)の再婚相手で元教師の譲は、義理の娘と関係を持つたのが発覚し教職と妻を失ふ。以来譲が家事はするものの基本引きこもつた上、家計は紀子が風俗で支へなほかつ各地を転々とする、絵に描いたやうに閉塞的かつ絶望的な生活を送つてゐた。
 生硬な岡田智宏とは対照的にライトな俗物を好演する小林節彦は、ピンクよりも一般映画やAVの方が好きな、身内とはいへ浩にとつては邪教徒に近しくもある映写技師、兼モギリ。何気なく対立する二人の姿が、そこはかとなく故福岡オークラを彷彿とさせなくもないのは内緒である。吉岡睦雄は、浩とは大学の同期で、荒木太郎映画らしくエキセントリックで生活感を欠落させた部屋に同居する詩人の百地透。佐々木基子は矢張り二人の同期で、大学に残り今や教授となつた―些かスピード出世過ぎやしないか?―大家英子。ピンク映画に対し年寄り相手の芸能退廃懐古主義と激越な攻撃を加へ、一流企業を退社し、何時倒れても不思議ではない小屋の支配人にナイーブに納まる浩に発破をかける鋭角の反面、決定した英国留学を引き留めて欲しくて元カレをわざわざ呼び出す、しをらしさも見せる。短い出番ながら佐々木基子貫禄の芝居が、その振り幅を綺麗に形成らしめる。淡島小鞠は、浩の妹・英子。デコといふ徒名をつけられるほどには、決して額が大きくはない。後に百地との結婚を藪から棒に発表し、兄を驚かせる。劇中三十歳の誕生日を迎へる淡島小鞠が、流石に幾分歳もとつて来た。極私的な嗜好としては、俄然これからだが。太田始と平川直大以下、本クレのみ部は静岡小劇場観客要員。加へて見知つた顔に、ドンキー宮川(=宮川透)も何時も通りのイイ感じで見切れる。平川直大などは持ち前の突破力を悪用され、紀子に向かひ「入り口はエロでも、出口は感動!」なんて何と恥づかしい台詞も吐かさせられる。
 「人妻がうづく夜に ~身悶え淫水~」(2008/脚本:三上紗恵子・荒木太郎)以来二年ぶり、未見の「ふしだら慕情 白肌を舐める舌」(2007/脚本:吉行由実)を恐らく第七弾と推定すると、全国小屋ロケ行脚御当地映画シリーズ多分記念の第十弾となる。静活の協力を仰ぎ静岡ロケを敢行するのは、第一弾「ポリス」(2001/脚本:吉行由実/薔薇族映画につき未見)、第六弾「桃色仁義 姐御の白い肌」(2006/脚本:三上紗恵子・荒木太郎)、第八弾の「悶々不倫 教へ子は四十路妻」(2008/脚本:吉行由実)に連なり四本目を数へる。と、手短に沿革を踏まへたところで。截然とトップ・スピードで筆を滑らせてのけるが、ほかでもない荒木太郎その人が、別に“映画の力を信じ”てはゐないのではなからうか。あるいはより正確には、自らの演出力ないしは創作力といふべきやも知れぬ。映画の力とやらを信じてゐるならば、浩と英子の確執なり映写技師との軋轢に、あくまで物語の中で落とし前をつける方策を摸索するのが、映画作家としての正攻法といふものなのではないか。ピンク映画を擁護する、もしくは己が立ち位置を表明せんとする気負ひも素面の一個人の態度と思へば酌めなくもないが、出し抜けに“映画の力を信じる人へ”だなどと、そのまゝの形のメッセージをプリミティブどころではない稚拙さで振り回し、以降も折に触れ口を変へ延々と教条台詞を垂れ流すでは、凡そ劇映画としててんでサマにはならない。ピンクを観に来たつもりが、まさか啓蒙映画を見せられる羽目にならうとは、と小屋の暗がりの中頭を抱へつつ呆然とした。こんな暴投が平然と三本立ての中に投げ込まれて来るよくいへば多様性が、良きにつけ悪しきにつけピンク映画の特色といへるのかも知れないけれど。かつて心中を決意した祖父母が、孫の下の名前をその名から採つたものだといふ―ところで何故孫なのか、祖夫婦には娘しか生まれて来なかつたのか?―稲垣浩の娯楽映画に触れ思ひ直し、その結果今の自分もある。とかいふ勿体ぶつたエピソードを披露した上で、浩は映画とは―即ち―生きることだと、紀子に対し大見得を切る。ならば問ふが、映写技師との衝突に際し浩に語らせたやうに、プログラム・ピクチャー最後の牙城にして然れども風前の灯のピンク映画が、もしも仮に万が一終に潰へたその時、荒木太郎は自身の近作と同様、三上紗恵子と情死でもしてみせるおつもりか。恐らくそのやうな破目にはなるまいし、無論望みもしない。挙句に二作前の「いんび変態若妻の悶え」(2009/脚本:三上紗恵子・荒木太郎/原作:太宰治)に続かなくともよいのに引き続き、またしても荒木太郎は致命的に仕出かす。譲と静岡を離れる紀子との別離に手を拱(こまね)くばかりの浩を、百地はカッコよく叱咤する、「彼女を追はないで何が映画だ!?」、「映画の意味がないだろ!」。吉岡睦雄の声の張りが、珍しく正方向に作用する。ひとつ注釈を要するのは、前段に浩と紀子は、互ひを映画と称する正直訳の判らない感情のぶつけ方をする。百地に背中を押された浩は紀子を追ひ駆け、二人は固く結ばれる。そこまでは幾分洗練度の低さも窺はせども、その分逆に胸に迫るものもある。根本的に問題なのが、こゝで荒木太郎はそのまゝ一息に早乙女ルイと岡田智宏の、エモーショナルな情交で映画を麗しく畳み込みはせずに、紀子と浩の前に、婚約者役の吉岡睦雄に介錯させる、それまで未消化であつた三番手・淡島小鞠の濡れ場を選りに選つて一番大事な勘所に差し挿んでしまふのである。これが木端微塵の設計ミスでなくして、果たして何なのか。展開の円滑な進行を、妨げるといふかブッ手切る弊しか見当たらない。英子と百地の絡みなんぞ、余所に以前に幾らでも放り込みやうがあつた筈だ。主人公とヒロインの恋路が目出度く成就したところで、どうしてそこから主人公の妹と、同居人のセックスを見せられなければならないのだ、理解に苦しむどころの騒ぎではない。浩は映写技師に、ピンク映画と一般映画といふ区別の無用を説く。そしてそれは、元来荒木太郎の持論でもある。それはそれとしてひとつの見識であるにせよ、結果的にピンク映画固有の文法を蔑ろにするでは話にならん。満足なピンク映画には成り損ね、かといつて斯様な女の裸は嬉しいが要は説教と辛気臭い、水準未満の商業映画に仲間に入れて呉れと頼み込まれても、一般映画も対応に窮するであらう。生半可に前に出ようとした分、却つて隙だらけ穴だらけになつてしまつた。ある意味判り易く、自身の惰弱さが如実に作品に反映された結果と見るならば、全く以てネガティブな意味での作家主義の成果といへる、ピンクでなければ一般でもない、正しく荒木太郎映画とでもしかいひやうのない一作である。先に触れた、平川直大に宛がはれた珍台詞、ですらない出来の悪いスローガンを捩つていふならば、入り口は剥き出しの思ひ入れ、出口は何処(いづこ)へも開けぬ袋小路。重ねて意地悪をいふと、荒木太郎の頗る未熟なピンク愛だか映画愛だかの出汁にその名を持ち出された稲垣浩も、泉下でさぞかし苦笑を禁じ得ないにさうゐない。
 この際なので何処までも、どの際だ。重ねた意地悪に更に重ねて、下衆の勘繰りもブレンドしてみると。浩が紀子に滔々とピンク映画擁護論を揮ふ中に、“差別された映画”なる際どい文言がサラリと混ざり込む。ピンク映画と一般映画との区別の無用を説きながら、同時にピンクが“差別されてゐる”とするならば、実はそこに透けて見えて来るのは、当事者にしてピンクを一般映画よりも低きに見る、荒木太郎の屈折した引け目なのではなからうか。なればこそ、殊更に二者の同一を喧伝せねば気が済まないといふ寸法である。因みにシネフィルではないピンクスの小生は、ピンクと一般映画との峻別を、形式的な便宜としても、実質的な観戦態勢としても、何れも問題なく採用する。ピンク映画特有の論理、もしくは力学を基に一作一作に当たらんとする姿勢を、追ひ求める見果てぬ遠い遠い目標に設定してゐるからである。その上で、ピンクが一般映画より劣つてゐるとは特に思はなく、最低保証されてある女の裸と、たとへどんなに詰まらなくとも六十分経てば終つて呉れる規格以外には、ピンクの一般に対する優位を主張するつもりも別にない。ピンク映画であらうと一般映画であらうと、邦画にせよ洋画にせよハリウッド超大作にせよ、全てのカテゴリーはスタージョンの黙示の前には等価であると見做す。即ち、百本に一本の映画に辿り着くには、残り九十九本のゴミの山も走破するしかないとする認識である。
 甚だ困るのが、今作といひ竹洞哲也の「超スケベ民宿 極楽ハメ三昧」といひカワノゴウシの「珍・監禁逃亡」といひ、どうしてこの期に及んで2010年は斯くも、何れ劣るとも勝らないワースト候補に事欠かないのか。頼むから欠いてゐて欲しい、まだしも清水大敬が可愛く映る。

 気を取り直して最後に、ディテールに関して一件。百地と浩の部屋にベタベタ大書されるほか、百地や英子の台詞の端々にフィーチャーされるのは、我等がジュリーこと沢田研二のシングル曲タイトルの数々。確認出来ただけで発表順に、「君をのせて」・「許されない愛」・「あなただけでいゝ」・「死んでもいゝ」・「危険なふたり」・「胸いつぱいの悲しみ」・「おまへがパラダイス」・「おまへにチェックイン」・「きめてやる今夜」・「太陽のひとりごと」・「あんじやうやりや」等々。荒木太郎か三上紗恵子のどちらかがファンなのか、何でまたこゝに来てのジュリーなのかは、皆目見当もつかない。

 後注<   英子のニックネーム“デコ”は、額も兎も角2010年末に死去した昭和の大女優・高峰秀子に由来するものとみて、まづ間違ひなからう


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 「こほろぎ嬢」(2006/製作:株式会社旦々舎/監督:浜野佐知/脚本:山邦紀/special thanks:吉行理恵/企画:鈴木佐知子/原作:尾崎翠『歩行』・『地下室アントンの一夜』・『こほろぎ嬢』/撮影:小山田勝治/照明:津田道典/音楽:吉岡しげ美/美術:塩田仁/録音:福田伸/編集:金子尚樹/助監督:酒井長生/制作:横江宏樹/ヘアメイク:馬場明子/タイトル題字:住川英明/ポスターデザイン:横山味地子/撮影助手:大江泰介・北原岳志/照明助手:入山美里、他一名/制作部応援:小山悟・広瀬寛巳/協力:シネオカメラ株式会社・報映産業株式会社・有限会社シネキャビン、他/後援:鳥取県・倉吉市・岩美町・若桜町・米子市・鳥取市/助成:鳥取県支援事業/協力:鈴木静夫・中満誠治・柳東史、他個人名多数/出演:石井あす香、鳥居しのぶ、大方斐紗子、外波山文明、宝井誠明、野依康生、平岡典子、イアン・ムーア、デルチャ・M・ガブリエラ、リカヤ・スプナー、ジョナサン・ヘッド、片桐夕子、吉行和子)。
 町子(石井)が祖母(大方)と二人で暮らす小野家に、精神病患者のフィールド・ワークで全国を渡り歩く、心理学者の幸田当八(野依)が三日間逗留する。町子は自身の運動不足も解消がてら、幸田にも紹介した引きこもり詩人・土田九作(室井)の下に、頭の病には甘いものが効くだとか妙な開明性を発揮した祖母の勧めで御萩を届けに行く。途中町子は九作の姉(吉行)が嫁いだ動物学者・松木(外波山)邸に立ち寄り、姉が直した破れズボンと、実物を知らずに詩を書く九作に松木が渡してやれといふ、オタマジャクシとを新たに託(ことづ)かる。実物を前にするや書けなくなる九作は、実証主義者を“ポカリ”とやるべく松木の研究室に鼻息荒く乗り込む一方、実は成人後の町子の姿との、こほろぎ嬢(鳥居)登場。こほろぎ嬢が図書館で見付け胸ときめかせる書物の中では、英国神秘詩人のウィリアム・シャープ(イアン・ムーア)が、自身の脳内に生み出した恋人のフィオナ・マクロード(デルチャ・M・ガブリエラ)と逢瀬を交す。最終的に“地下室アントン”に、対峙する九作と松木に加へ幸田、そしてこほろぎ嬢が勢揃ひする。
 リカヤ・スプナーとジョナサン・ヘッドは、フィオナに会はせろと詰め寄る、シャープ友人。ポジション的には、何れかが黄金の暁教団のメンバーでもある、詩人・劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツに相当するか。往年のロマンポルノ女優片桐夕子は、図書館食堂にて台詞もなく悪戦苦闘する、産婆試験受験者。浜野組初参戦のビッグ・ネームを、相当贅沢な使ひ方をしてみせる。出演者中ただ一人現地調達された平岡典子は、図書館売店のパンの売り子・山根嬢。華は感じさせないが、綺麗な顔をしてゐる。
 1998年の第一弾「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」(憚りながら未見)、2001 年の第二弾「百合祭」に続き一作跨いで、目下第四弾となる「百合子、ダスヴィダーニヤ」を鋭意制作中の浜野佐知にとつて、何れも自主製作の一般映画第三作である。いきなり話を本丸たるべき本作の中身からは逸らせると、自身の女流監督として世界最強ともいふべき膨大なキャリアは一切等閑視し、六本の田中絹代を日本最多本数であるとか称した、1997年の東京国際女性映画祭にあつての薄ら惚けた発言に対し憤慨した浜野佐知は、一般映画で世間に殴り込む腹を固める。いよいよ一戦交へんとする並々ならぬ気迫と、そもそも当時それを下支へた作家としての充実とが反映されてか、エクセスを主戦場に例年滅茶苦茶な本数を量産してゐた1990年代中盤が、堂々と筆を滑らせてのけるが現在は円熟期に当たる女帝の最高潮ではなからうかと、私見では秘かにでもなく目するところである。円熟期とはいへども、他の監督と比較すれば勝負にならないほどの轟音を、未だ奏で続けてもゐるのだが。話を戻すと今作は、近年再評価が進む尾崎翠の小説家生活晩年の短篇、『歩行』・『地下室アントンの一夜』・『こほろぎ嬢』の三作を、連作として統合した上での映像化を図つた意欲作である。尤も、予めお断り申し上げておくと、例によつてピンク映画に首まで浸かるしか能のない小生は、尾崎翠は清々しく未読。原作つきの作品も、それはそれとして純然たる別個の映画単品として取り扱ふといふアプローチを物臭の免罪符に、以下加速して筆禍を唸らせる。
 筋金入りのラディカルなフェミニストにして、同時に頑丈な娯楽映画のアルチザン。といふこれまでの平板な浜野佐知像を期待して観てゐると、自由奔放といへば聞こえもいいが、直截には手前勝手に撮り過ぎたといふ印象が兎にも角にも強い。コミュニケーション不全の者同士がある意味苛烈な応酬に明け暮れる、構成としての抑揚も欠いた一幕一幕の羅列に正直をいへば、決死で睡魔と居心地の頗る悪い上映会会場環境とに抗ひながら、ひたすら堪へてゐたものである。オーラスの地下室から大宇宙への正しく超大飛躍と、「ハロー、木星」といふこほろぎ嬢の声に触れ漸く、内向する精神に―のみ―保たれる強靭な飛翔力といふ主モチーフと、裏八十年代のアングラ歌謡にも似たコンセプトには確かに触れ得、両面に於いての、尾崎翠の先駆性―逆からいふと、実は我々の現代が、別に進歩してゐる訳でもないことの証左ともいへよう―も認められる。ものの端的な感触としては、センス・オブ・ワンダーの一点突破で勝負するには、演出部俳優部双方とも些か脆弱ではなからうか。意図的に外連を排した展開に付き合ひ続ける苦行を観客に要求する作り手の潔癖が、果たして実際の結果として何処まで通るものかも甚だ疑問である。自主映画なのだから出資者にも観客にも媚び諂(へつら)ふことなく、思ふがままに好きなやうにやり散らかしても構はない、などといふのは単なる為にはならぬ方便に過ぎまい。如何程か制約の存する環境下にあつた方が、時に却つて自由になれることも、力強くあれることもある。さういふ一般論を、改めて想起させられた一作ではある。この、何某かの枷に屈せんとする文字通りの反発力は、依然頑強に闘ひ続ける浜野佐知が、当然に有してゐる装備の筈でもあるのだが。

 実も蓋も自ら無くし手の内を明かすが、劇中登場人物に即していふと、九作あるいはこほろぎ嬢の世界に、あくまで松木の方法論で挑んだ負け戦である。そもそも娯楽映画ぢやねえんだからよといふ誹りならば、甘んじて受けよう。ところで開巻即座に途方に暮れたことだが、平素ピンクに慣れ親しんでゐると、一般映画の間のまあ長いこと長いこと。佐藤寿保の「名前のない女たち」を観た折にも、同じ眩めきを覚えた。主戦場のピンクならば八幡から小倉に流して、計五本立ての五時間をどうにか戦へる反面、一般映画の百分に、もう俺の体は耐へられないのか。


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 「三十・四十・五十路妻 熟れて喰べごろ」(2002『貪る年増たち サセ頃・シ盛り・ゴザ掻き』の2010年旧作改題版/製作:フィルム・ハウス/提供:Xces Film/監督・脚本:佐倉萌/企画:稲山悌二/プロデューサー:伍代俊介/撮影:長谷川卓也/編集:フィルムクラフト/助監督:竹洞哲也/照明:ガッツ/録音:シネキャビン/製作担当:真弓学/監督助手:今村昌平・村田夏希/撮影助手:小宮由紀夫/照明助手:藤森玄一郎・丸山和志/音楽スタジオ:アトリエソノーロ/スチール:本田あきら/タイトル:道川昭/現像:東映ラボ・テック/メイク:パルティール/協力:スナック タピール・アダルトショップM'S/出演:松川怜未・佐々木基子・小川真実・風間今日子・鷲亮子・横須賀正一・相沢知美・若宮弥咲・石動三六・柳東史・三浦景虎・KISYUE・兵頭未来洋・岩田有司・梅田壮志・千葉誠樹・谷畑聡・森羅万象)。出演者中、中盤を支配する風間今日子から梅田壮志までは本篇クレジットのみ。
 ラブホテルの一室、森羅万象が出会ひ系で知り合つた松川怜未を手慣れた様子で悠然と弄びながら、携帯で女遊び仲間とお前も来ないか云々と連絡を取り合ふ。「あの薬は止めとけよ、体に悪いぞ」などといふ恐ろしい台詞―しかも森羅万象にハマることハマること―が鈍く光る、一体何のどんな薬なのか。
 結婚四年目三十路妻の怜子(松川)は、濃厚に浮気をしてゐると思しき夫・慎一(千葉)とは擦れ違ひの日々を送る。怜子はアサミとかいふらしい相手の女の正体を突き止めるべく、同じ出会ひ系に潜入したはいいものの、自身もその道に長けた杉山(森羅)との関係に溺れて行く。ここで主演女優の松川怜未、髪を上げると下ろすとで容姿の吉凶は劇的に左右される―断然アップにした方が吉―と同時に、首から下はベースとしては理想的な肉づきの上に膨らむべきところは見事に悩ましく膨らんだ、感動的なまでに抜群のスタイルを誇る。そんな妻から心を離し、四十路OL・麻美(佐々木)によろめいてみせる慎一の気持ちが激しく理解に苦しむ点は、旦那に不倫される女房をヒロインに据ゑたピンク映画にとつて、正しく諸刃の剣といへよう。奔放に男漁りに励む五十路女・リカ(小川)の姿を適宜挿み込みつつ、攻撃力の高い濡れ場濡れ場を連ねに連ねた末に、杉山は麻美を会員制乱交バー「Olivia」へと誘(いざな)ふ。
 前年にしのざきさとみ・小川真実との共同監督によるオムニバスの一篇(『人妻不倫痴態 義母・未亡人・不倫妻』第三話)、といふ形で監督デビューした佐倉萌の長篇第二作にして、現時点に於ける最終作でもある。全篇を貫く、充実した煽情性もさて措き驚かされたのは、佐倉萌といふ人は余程顔が利くのか、あまりにも潤沢な「Olivia」店内要員。出演者中、風間今日子から梅田壮志までの内、店の人間役の横須賀正一と、先に登場するリカ劇中初陣相手(不明)以外は―恐らく― 全員が乱交参加者。しかもその中には脱いで絡みもこなす女優が少なくとも―佐倉萌も、1カット見切れてゐたやうな気がするが―三人、更に柳東史はゐるは兵頭未来洋はゐるはで、貧しい筈のプロダクションを完全にものともしない豪華さを披露する。他方物語本体はといふと、正直なところ終盤に至つてガラガラと粗雑に瓦解する。「Olivia」にて怜子を迎撃した、杉山の弟分の色男・司(谷畑)が、“三十年前は”二十一だなどと犯罪的に齢を偽り男を釣るリカに捕獲される。まあこの件の、小川真実の悪びれなさぶりは絶品。我が身に降りかゝつた厄災であつたならば、冗談ではないが。杉山も交へ、半ば仕方ない勢ひでリカが「Olivia」戦線に加齢n・・もとい華麗に参戦する一方、買物袋を提げた怜子も、ぼんやりと吸ひ寄せられるかの如くそのまゝ無造作に「Olivia」再突入。以降がそもそも尺自体が不足気味なのもあり、フィニッシュとして以前に完成には遠い。定石通りに役者が揃ふまではいいとして、お約束の“衝撃の対面”は、熟(こな)れないカットの繋ぎの間から宜しくない。振り逃げるラスト・ショットもインパクトあるいは余韻を残すといふよりは、ブツ切られた印象の方が上回る。如何にもエクセスらしい重量級のエロ映画として存分に走つてゐただけに、最後の最後の締めの甘さに、惜しさを強く残す一作ではある。

 ところで七ヶ月前の長篇第一作「いぢめる熟女たち 淫乱調教」(主演:鷲亮子)も、順番は前後して今新版の四ヶ月後に、「貪欲な人妻たち うずうずする」なるどうにも不安定な新題にて旧作改題されてゐる、そちらも網を張りたい。もう一つところで今新題について、怜子は兎も角麻美とリカに関しては実は、既婚者である旨の明示的な描写がある訳ではない。


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 「通夜の喪服妻 僧侶にもてあそばれて・・・」(1998『色情僧侶 喪服狩り』の2010年旧作改題版/製作:フィルム・ハウス/提供:Xces Film/監督・脚本:坂本太/企画:稲山悌二/プロデューサー:伍代俊介/撮影:創優和/照明:小野弘文/編集:金子尚樹/助監督:加藤義一/製作担当:真弓学/録音:シネキャビン/現像:東映化学/監督助手:竹洞哲也/照明助手:平井元/ヘアメイク:松本貴恵子/スチール:本田あきら/出演:藤崎加奈子・扇まや・村上ゆう・中野耕・山本清彦・久須美欽一)。
 開巻、半端に華美なラブホテルの一室での、主演女優の藤崎加奈子と、山本清彦の濡れ場。いよいよ挿入といふ段になると、女は拒む、生殺すにもほどがある。藤崎加奈子が首から下はまあまあ綺麗な体をしてゐるのだが、唇から下がまあ長い。宮部流活花家元の夫(遺影すら登場せず)を一年前に亡くした霞(藤崎)は、気晴らしに店内に花を活ける手伝ひもする、友人の藤原里美(扇)が営むクラブで知り合つた山崎和夫(山本)から求婚されつつ、未だ気持ちの整理をつけられずに保留する。一方、互ひに特別な感情も懐てゐた霞の義弟で警察官の隆一は、兄の没後間もなく行方不明となつてゐた。その悲嘆に暮れる隆一の婚約者・前田涼子(村上)は、道端で擦れ違つた萬念寺住職・黒岩巌鉄(久須美)から、数打つた下手な鉄砲に恋人の喪失を偶々言ひ当てられると同時に、心を絡め取られる。ところで今回、安普請も仕方のないピンク映画にしては頗る珍しく、久須美欽一の右こめかみから頬にかけて、右目をも塞ぐ醜い肉腫の特殊メイクが、そこそこのクオリティで施されてゐる。巌鉄の弟子・巌隆(中野)が門前に立つ萬念寺を、里美が訪れる。こちらはピンクらしい晴れやかな世間の狭さを誇るのか誇れないのか、霞同様夫に先立たれた里美は以来不感症に悩み、巌鉄の焚く如何にも怪しげな香と肉棒説法との、完全な虜となつてゐた。ところでのちに、里美が霞の矢張り不感症を指摘してみせる件は、同境遇ならではの明察といふよりは、山崎が口を滑らせたのかと勘繰る方が、余程話は通り易からう。話を戻して、吸ひ寄せられるかの如く萬念寺を訪ねてみた涼子は驚愕する、頭を丸めた巌隆―巌鉄は剃髪せず―こそが、姿を消した隆一であつたからだ。騒ぐ涼子を小部屋に連れ込み、ひとまづ抱いておとなしくさせた隆一は、事情はあくまで秘したまゝ霞への口止めと、以後一切萬念寺には近付かないやう厳命する。
 ぷちラスプーチンばりの怪僧、卑劣な結婚詐欺師。二人の後家と、婚約者の不在に苦しむ可憐な青木こずえ。そして道ならぬ恋情に焦がれなくもない、忙しいアンダーカバー。バラエティに富み過ぎる面々が目まぐるしく交錯する、ジッェト・コースターなメロもといエロ・サスペンス。とでもいへば、聞こえはいいものの。流石に所詮は高々六十分で勇猛果敢に拡げた大風呂敷が手に余つたか、力と尺とを尽きさせた坂本太は、物語が混乱を来たしはしない以上、ある意味十全な交通整理と同時に、空前の無茶も仕出かす。再会に乗じて部屋まで上がり込んだ、巌鉄の涼子撃墜後の数カットで霞を萬念寺に放り込む光速展開に驚かされ、更には締めの濡れ場明けの正しく僅かワン・カットで、物語を強引どころでなく無理矢理にエンド・マークにまで押し込む超光速展開には度肝を抜かれた。葱を背負つた鴨たる、霞がいきなり土地屋敷の権利書を持参する本来ならば相当無造作なツッコミ処さへ、まるで可愛らしく思へてしまふくらゐ。中盤までは何気なく充実した坂本太の舵捌きがさりげなく光り、上手く転べば娯楽映画の秀作たり得てゐたやも知れない可能性を窺はせた反面、終盤蛮勇も通り越した荒技が豪然と火を噴く、チャーミングな無謀もしくは無体作である。ある意味衝撃的といふか、別の意味でのインパクトならば無闇に猛り狂ふ。

 枝葉で繋ぎのシークエンスながら、そこはかとなく心温まる描写に感心させられたのは、巌鉄と里美の情事に際し、巌隆は体よく所払ひされる。そもそも本気で仏門に入つた訳でもないゆゑ至極自然に、巌隆改め隆一が容易に想起される肉欲に悶々と悶える件の、人間的な素直さが微笑ましい。そんな里美と巌鉄の絡みは、窓の外には渓流が流れる、妙なロケーションを誇る部屋にて撮影される。清々しく、寺とは全く別物件であるのはいふまでもあるまい。


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 「女囚房 獣のやうに激しく!」(1999/製作:フィルムハウス/提供:Xces Film/監督:勝利一/脚本:国見岳志/企画:稲山悌二/プロデューサー:伍代俊介/撮影:佐賀宗/撮影助手:西村友宏/照明:多摩三郎/照明助手:ゴンリ/助監督:高田亮・古賀正敏・村上宣敬/製作担当:真弓学/メイク:パルティール/スチール:本田あきら/編集:金子尚樹 ㈲フィルムクラフト/タイトル:道川昭/録音:シネキャビン/現像:東映化学/出演:かとうみゆき・里見瑶子・佐々木基子・篠原さゆり・扇まや・山内健嗣・熊本輝生・岡田謙一郎・坂本大地)。今更ながら脚本の国見岳志は、勝利一の変名。当然ではあれ、知らないことがまだまだ多い。
 とある山荘、散乱する札束に頬擦りしつつ、一組の男女が情痴に戯れる。傍らには物騒にも、口径のデカい回転式拳銃が。女は元都市銀行行員の藤浦智江(かとう)、男はヤクザ者のスケコマシ・島本功一(山内)。智江は島本の手引きで、十億もの金を横領してゐた。山荘の表にセダンが停まり、サングラス姿の男四人が銃を手に降り立つ。ビジュアル的には矢張りヤクザにしか見えない四人は明石三郎(岡田)率ゐる刑事で、部下の田中(熊本)が令状も提示し山荘に踏み込む。恐らく、後に登場するその他刑務官も兼務してゐるのではないかと思しき、残り二名は不明。何故この隠れ家の場所が警察に発覚したのか激しく腑に落ちぬも、島本は無造作に発砲し応戦。短いすつたもんだの末に、男を庇はうと智江は明石を刺し、その隙に乗じて島本は逃げる。乳も放り出したまゝ逮捕、その後の過程は割愛し囚人番号259番をつけられ収監された智江は、刑務所所長・山神勤(坂本)の面前、刑務官改め女鬼看守・北原栗子(扇)からあまりにもスムーズな勢ひで、身体検査と称して全裸にヒン剥かれる。智江が放り込まれた房には、詐欺罪で前科六班の囚人番号210番・石田辰子(佐々木)と、売春と万引きで前科四犯の、カットによつて囚人番号が229番と222番とを揺れ動く根岸カオリ(篠原)がゐた。勿論娯楽などない刑務所にあつて、夜な夜な百合に耽る辰子とカオリを智江は嫌悪し、当然二人はそれが面白くない。終始安普請を悪びれるでない今作にあつて、三人限りの牢に名主もへつたくれもないやうな気もしないではないが、兎も角佐々木基子が三年後の加藤義一デビュー作「牝監房 汚された人妻」に於いて再び牢名主役を演ずる旨を、さりげない沿革として採り上げておきたい。話を戻して、斯くなる次第で展開が女囚映画のフォーマットをひとまづ一通り擦(なぞ)る一方、智江が隠したとされる三億の金の在り処を巡つて、困窮を訴へる割には服装の華美な妹・いずみ(里見)や山神、山神とは男女の仲にもある栗子に加へ、出所をちらつかせられた辰子とカオリらもそれぞれ暗躍する。
 突出した部分は欠片も見当たらないと同時に大袈裟に破綻する訳でもない、最大限度によくいへばオーソッドクスな女囚サスペンス。殊更新味も感じさせない物語が一応滞りなく進行する反面、そこかしこで花開く微笑ましい綻びがチャーミングな一作ではある。生意気な新入りに、辰子とカオリは挨拶代りに前科の数を誇る。至極全うにその底の抜け具合を指摘する智江に対し、カオリが「そ、それもさうだけど・・・・///」と素直に狼狽する珍台詞は妙に可愛らしくて可笑しい。公開当時m@stervision大哥が大いに難じてをられる、立会ひの刑務官もゐる面会室で、いずみがのうのうと三億の件を切り出す無神経さはここではさて措き、都合二度の内二度目の面会シーン。展開の鍵を握る重要アイテムの筈であるネックレスの、地表に露出した起爆装置ともいふべき無防備な底の浅いも通り越した上げ底ぶりには、清々しいまでの頓着のなさに寧ろ感動した。あちらこちらの躓きで一切合財を全否定するや否やは落とした木戸銭を形とした各々の自由として、ある意味といふか逆の意味で、これ見よがしなまでに明確なツッコミ処は、それはそれで明後日にポップであるとさへいふのは、幾ら何でも映画に対して甘過ぎるであらうか。三億円といふいはば切り札を塀の中にあつても握る智江が、栗子との優位劣位を逆転させるドラマなどは、素面で劇映画として買へるやうな気もしないではないのだが。


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 「変態夫婦の過激愛」(昭和63『過激!!変態夫婦』の2010年旧作改題版/製作:《株》オフィス・ボーダー/配給:新東宝映画/脚本・監督:細山智明/撮影:志賀葉一/照明:吉角荘介/編集:金子尚樹/音楽:長田陽・黒井基晴・魔人スタジオ/助監督:鬼頭理三・小笠原直樹/監督助手:古谷英治・田村良夫/撮影助手:中松俊裕/照明助手:清野俊博/スチール:田中欣一/製作進行:八田恒平/録音:ニューメグロスタジオ/現像:東映化学/協力:田中欣一写真事務所・ホテル レイ・ジェムズホール/出演:池島ゆたか・清水大敬・三沢亜也・橋本杏子・海音寺まりな・山本竜二・村瀬光一・森田豊・ドクター南雲・鴎街人・津田まさごろ・斉藤姉・斉藤妹・いわぶちりこ)。撮影の志賀葉一は、現:清水正二。出演者中、鴎街人は本篇クレジットのみ、どう読めばいいのか判らない。
 収拾がつかなくなる前に先に触れておくと、今作は1991年にも「過激!!変態性生活」とかいふ一歩間違へれば何処が変つてゐるのかよく判らない新題で、既に一度旧作改題済みでもある。
 長年の友人であるが同僚ではない、サラリーマンの影田(池島)と立川(清水)は夜の街を飲み歩いた末に、影田の居室へと向かふ。とはいへそこは戸建でなければ集合住宅ですらない、ラブホテルの一室。影田は同性の愛人を連れ込んだ妻・ノリコ(橋本)に自宅を追ひ出され、現在は元部下で、父親の死後ラブホテルを継いだ山本(山本)の厚意に甘え、カッコよくいへばホテル住まひをしてゐた。世間は狭いといふかやゝこしいといふか、ノリコの女・ミキ(海音寺)は、立川の妹でもあつた。友人の相談と、妹の顔を見がてら影田家を訪ねた立川に、ノリコはそもそも自分が百合に走つた原因は、影田が山本と関係を持つてゐたからであるなだどといふ、アクティブに入り組んだ事実を伝へる。もしくは交錯する筈の線が平行になつたのだから、逆にシンプルともいへるのか。いへないな、矢張り。立川は妻・マリコ(三沢)との夫婦生活に際しては、新婚当初より一貫して家庭内ソープ・プレイを楽しんでゐた。ここで主演女優の三沢亜也とは、かつては篠崎里美・三沢あや等々幾つもの名前を使ひ分けてゐたとの現在しのざきさとみの、出発点は雑誌モデルのデビュー名義である。二十年以上前につき―当年御歳二十五歳―当然ともいへようが、煌くやうに若くて感動する。因みに『PINK HOLIC』誌のインタビューによると、御当人はあと三年は続けたいとの、壮z・・もとい頼もしい抱負も持つてをられるやうである。そして今回新版ポスターに見られる、“三沢亜也《しのざきさとみ》”なる親切表記は麗しい。話を戻して、外回りの最中にサボッてソープランド「Q」に入つた影田は、現れた白衣姿のソープ嬢が、マリコであつたのに驚く。マリコは海外先物取引に捕まり貯金を溶かしたため、当然立川には内緒の上かうして働いてゐるとの身から出た錆。互ひに四の五の逡巡しながらも、最終的に影田は普通にマリコを抱く。一方泣きの電話を受け立川が再び影田家に向かつてみたところ、心を離したのかほかに男でも出来たのか、ミキが家を出て行つたといふ。相談を受けに度々影田家を訪れる内に、元来浮気だとかさういふ面倒なお痛はしない信条の立川は、何とはなしにノリコとの距離を近付けてみたりする。
 エンド・クレジットが懇切に紹介して呉れるゆゑ助かつた、初見の名前が多いその他配役を登場順にトレースしておくと、森田豊は、「Q」の表に立つガールならぬバニーボーイ。細山智明の変名である鴎街人は、二度目の影田家訪問からの帰途立川が目撃する、妹の新恋人。暗く遠く、夜のロングでワン・カット抜かれるのみ。斉藤姉妹は、マリコをセンターに据ゑ横一列に並んだ、五人の客待ちソープ嬢をパンで舐めるショットの火蓋を切る、画面向かつて左二人のOLとスチュワーデス。いわぶちりこは右から二番目のセーラ服で、津田まさごろは一番右、語彙の貧しさが面目ないが小洒落たカフェの店員風の制服を着た女。マリコ以外は、全員清々しくチェンジ対象でもある。といふか、店に行つてこの人らが出て来たらあり得ない、といつた方がより率直な気持ちには近い。ドクター南雲は、また影田から指名されたらどうしようかと困惑するマリコを別の意味で当惑させる、得体の知れない変な客。村瀬光一は、衣装もロケーションも全く突飛な、マリコも騙された海外先物取引「ハッピー商会」被害者救済の会のサムライ。この中から、津田まさごろはマリコ勇退後看護婦の跡目を継ぎ、影田を落胆させるといふオチのもう一仕事も任せられる。一体「Q」は、如何なる出たとこ勝負の指名システムを採用してゐるのか。
 池島ゆたかが自身の出演作の中でも代表作として挙げ大絶賛し、片隅の世評も概ね高い一作ではある。尤も個人的には、臆面もない節穴ぶりを堂々とひけらかすと、前衛だか実験だか知らないが、終始頓珍漢な演出と意匠とに全篇が貫かれた挙句に、騒動を無事潜り抜けたマリコ―と立川―やノリコ―とミキ―が軟着陸を果たす反面、影田は独り宙ぶらりんに放り投げられたまゝ雰囲気で畳まれてしまふ物語は、何がそんなに面白いのかサッパリ判らなかつた。判らなかつたではてんで感想にはなりはしないが、実際にまるで判らなかつたので、最早ここは正直に手も足も出ないと諸手を挙げつつ開き直る。全体的な統合力は感じられないものの、諸々のギミックは個別には決して映画的、あるいは印象的に機能してゐなくもない。ここは技能の優劣以外に、基本的なバジェット差も窺へぬでない全般的なグレードの開きも明確で、同じく変則的なばかりの娯楽映画未満といへども、荒木太郎作よりは余程素面で充実させて見させる。とはいへ一箇所決定的に看過し得なく、根本的に過(あやま)てる独善は猛然と頂けない。何だかんだと結局事に及んだ、影田とマリコの最初の濡れ場。カメラは頑なに手前の提灯を捉へ、池島ゆたかはまあ兎も角として折角の三沢亜也の輝かしい裸身が、ピントの遥か後方に霞む。これは偏狭では決してない、基本中の基本の大前提であるつもりでゐるが、女の裸を見せるのが、まづ第一義的にピンク映画の仕事なのではなからうか。それを果たさずして、何が作家性か、何が表現か。度し難い虚妄、斯様なものを有難がるくらゐならば、極論すればピンクである必要がない。商業でも非商業でも構はぬ、一般か、それとも自主映画でも観てゐればよろしい。小生は、ピンク映画愛好の士といふ意味のピンクスである、シネフィルの血なんぞいつそ要らん。

 まゝよこの際だ、勢ひに任せ筆の滑りを拗らせるか。大得意の、特大筆禍を仕出かす。細山智明の新版に取り組んでゐた筈が何故か、ピンクもピンクスも、ミスターピンクも撃つ。よくよく気がついてみると、作風の近似といふ訳では全力で全くないが、昨今池島ゆたかが、三上紗恵子と心中する以前の荒木太郎化して来てゐるやうな気がする。それは、偏向したマニアどころかシンパ連中に担ぎ上げられた、全方位的に決してためにはならぬ神輿と化して来てゐるのではないか。もしくは、裸映画の王様は、裸ぢやないかといふ意に於いてである。自ら先頭に立ち且つ観客とも積極的に交流し、沈降する業界をどうにか牽引して行かうとする、池島ゆたかの熱く誠実な姿勢に対しては勿論敬服するに吝かではないが、いふならばそれはそれ、これはこれである。あくまで平静な評価としては、演技者としても演出家としても大根であるとするのが、これまでに憚ることなく表にして来た池島ゆたかに対する当サイトの概評である。当然、異論は受けつける。ひとまづその上で話を進めると、あたかもその監督作が傑作揃ひであるかのやうな、道理を曲げた過大な評価は、内からは何処(いづこ)へも開けず、外からは自閉した、あるいは自家中毒と見做されても仕方がないものではあるまいか。
 お手間を取らせて申し訳ないが、池島ゆたか作個々の感想に関しては、こちらをお読み頂ければ幸である、収拾がつくとかつかないどころの騒ぎぢやなくなつたな。


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 「喪失《妹》告白 恥ぢらひの震へ」(2010/製作:オフィス吉行/提供:オーピー映画/監督・脚本:吉行由実/撮影:下元哲/編集:鵜飼邦彦/録音:シネキャビン/助監督:江尻大/監督助手:加藤学/撮影助手:浅倉茉里子/照明助手:榎本靖/スチール:津田一郎/音響効果:山田案山子/現像:東映ラボ・テック/協力:羽賀香織、マイケル・アーノルド/出演:延山未来・真咲南朋・吉行由実・高木高一郎・井尻鯛・千葉尚之・樹カズ)。
 六年前の高校時代に両親を亡くし、現在は実家―の津田スタ―に一人住まひのOL・未来(延山)は、ベランダで英会話の学習用テープを聴いてゐたところ“virgin”といふ単語に一々律儀に催すと、家の中に駆け込み自慰に耽る。まるで、一昔前の中学生のやうなフットワークを感じさせる未来は、未だ処女であつた。生前のスナップ写真に見切れる母親は、後の展開と厳密には齟齬も生じさせぬでもない吉行由実。父親役の、隣の壮年の男は不明。未来には会社の先輩兼彼氏の明(千葉)が居たが、いよいよといふ段になるとそこそこまで経過しておきながら、いざ明の男性自身を前にするに未来は泣き出してしまひ、当然当該関係にとつても初めての性行為は未遂に終る。五年前、寝込んだ未来に風邪の塗付薬を優しく塗つて呉れた、互ひに満更でもない兄・慶介(樹)は、露にした妹の胸に―寒いだろ、それ―指を這はすと、やをら一物を取り出す。ところがそこで初めて見る男のモノに衝撃を受けた未来は矢張り泣き出し、その一件を機に慶介は家を出てゐた。そんな折、首から上は抜かれないDV彼氏(井尻)に怪我を負はされた、友人でAV女優の夏子(真咲)が、未来の家に避難して来る。慶介と瓜二つのAV男優と共演した経験があるといふ夏子は、その男優・大高(樹カズの二役)の出演作を未来に見せる。美しい瞳を輝かせた未来は、大高を相手としての処女喪失を決意、夏子に誘(いざな)はれ上京する。菓子を片手にAVに見入る延山未来のショットが、妙な強度でツボにはまる。
 改めて濡れ場もある女優三番手の吉行由実は、監督もこなす大高と喪服プレイを撮影中の、AV女優・あすか。二番手といはいへ真咲南朋との間に、裸については然程の比重の差を感じさせない。大高・あすかと三人でタバコを吸ふシークエンスに登場する高木高一郎は、AVプロデューサー。どうしても、必要な役にも別に思へないが。
 離れ離れの兄と生き写しのAV男優などといふ、頗る豪気なギミックも持ち出しての、妹のロスト・バージン物語。何はともあれ、冴島奈緒へのネグレクトが祟つた前作「アラフォー離婚妻 くはへて失神」(2009)にあつてはガッチガチにぎこちなく見えた延山未来が、前々作主演の上加Amuと同様二度目の現場で勝手も掴んだのか、見違へるやうにキラッキラと、且つ伸びやかに輝く。もしかすると白人の血も混ざつてゐるのか、色白で整つた顔立ちが正しくお人形さんのやうな延山未来が、ニコニコと微笑み、ワクワクと胸を高鳴らせ、ドキドキと恥ぢらふ様は、とりあへず劇映画としての仔細はさて措き、それぞれのカット単体で胸を鷲掴む決定力を有してゐる。といふのも反面、時に可愛く時に綺麗に、即ち延山未来を美しく捉へることに全精力を注ぎ込み過ぎたのか、物語本筋は、案外以上にガラガラである、あるいは以下か。未来がひとまづ大高の下に辿り着くまではいいとして、あすかも参戦させ、カメラさへ回した大高が何故か破瓜を散らしてみせない強大な疑問に関して、カットの変り際に乗じて通り過ぎると一応エクスキューズとして大高と夏子のシャワー・シーンを差し挿むものの、ほぼそのまゝで済ませてのける荒技にも驚かされたが、一見他愛もない夢オチに偽装しながらも、藪から棒に帰宅した慶介と、チャッカリ未来が無事念願叶ひ事を致す唐突なハッピー・エンドに対しては、これで腹が立たないのが不思議ですらある。未来と慶介が実は血は繋がつてゐないといふ秘密に際しても、一体その事実を、未来に教へたのは誰なのかといふ点まで含めて、都合のいい木に竹を接ぎぶりがさりげなく爆裂する。あるいは、よくよく勘繰るならばそれはオーピー・レイティングを回避するための、苦し紛れは承知の上での苦肉の策であつたのか。尤も、さういふ無粋はさて措けといはんばかりに、主演女優の魅力に心奪はれて完結するのも、幸運な映画の幸福のひとつといへよう。率直なところ劇映画としては結構本格的にへべれけでもあるのだが、延山未来をキレイにキレイに、主人公憧れの樹カズをカッコよくカッコよく撮り上げることだけに専念したポートレイト映画だと割り切つてしまへば、却つてそつちの方が戦へなくもない。延山未来の美的なエモーションは我々の腰から下といふよりは、寧ろ胸から上を撃ち抜く種類のものにも思へ、そもそも舵を取るのが吉行由実であるのを踏まへると、異性のみならず同性の心の琴線に触れる効果も十二分に期待出来るのではなからうか。さうなると、昨今大都市圏にて発生してゐなくもない、対女性客用装備としても、有効に機能し得るやも知れぬ一作である。

 井尻鯛(=江尻大)は大高組の撮影現場では、劇中初めて顔を出しての助監督も兼任。偶さか今回気がついたのでこの期に与太を吹くが、ピンク版「サザエさん」―絶対そんなの撮れねえだろ、などといふ潤ひを欠いたツッコミは禁止だ―を製作する場合、カツオくんはメガネを外した井尻鯛で行けると思ふ、フネは小川真実。そこから先は、横道の際限がなくなるゆゑまた改めて考へる。

 以下は再見に際しての付記< 両親の生前スナップ、父親役は下元哲


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 「人妻教師 レイプ揉みしごく」(2010/制作:《有》大敬オフィス/提供:オーピー映画/出演・制作・脚本・監督:清水大敬/撮影:井上明夫/照明:小川満/音楽:サウンド・チィーバー/美術:大海昇造/編集:酒井正次/録音:シネ・キャビン/助監督:関谷和樹/撮影助手:河戸浩一郎/照明助手:八木徹/演出助手:後鳥羽上皇/スチール:佐藤初男/タイトル:道川昭/衣裳:MIKIレンタル衣裳/小道具:石部金吉/車輌部:花椿桜子/協力:劇団ザ・スラップスティックス、明治大学演劇学専攻OB会/出演:艶堂しほり・桜田さくら・扇まや・なかみつせいじ・山科薫・吉野正裕・土門丈・筋肉満太郎・生方哲・周磨要・中村勝則・吉崎洋二・太田春泥・林与志士・鎌田一利・田黒武男)。
 定時制高校教諭の艶堂しほり(彼女自身)は、煮詰まつた作家の夫・義弘(なかみつ)の晩御飯の支度を済ませると、凡そ教師らしからぬ扇情的な下着も露な着替へを披露した上で出勤する。しほりの学級には、中卒で重病の母を抱へ、なほかつ絶賛校則に触れるキャバクラでアルバイトしてゐたりもする三重苦学生の真咲美紀(桜田)、制服もないといふのに何故かこの期に詰襟の学生服で通学する、国立大学法学部への進学を希望する吉野健児(吉野)らが居た。出演者中、文化祭でのクラス演目にグレン・ミラーの楽曲演奏を提案する台詞も与へられる土門丈と、クレジット上明らかに一線を画される生方哲以降は、平然と筆を滑らせてのけるが商業映画の片隅を飾るには貧相どころの騒ぎでは済まない、オッサンだらけのその他生徒達。主にファンを中心に掻き集められた面子で、ピンク映画にエキストラに割く袖など0.7分もなからうことなど重々承知してゐるつもりではあるが、ここは矢張り、超えられなくともそれでも超えて行かねば、その先が開けては来ない壁に違ひあるまい、截然と難ずるが全く画になつてゐない。話を戻して、授業を開始し板書するゆゑ教師が背を向けるなり中座した美紀を、しほりは気にかける。バイト先の、明美(扇)がママを務める店の常連客でもある教頭の種村(山科)は、校則違反による退学を盾に、美紀に肉体関係を強要してゐた。だからといつて、選りにも選つて熱血女教師の授業中に、これ見よがしに事を致さねばならぬ相談にはないのだが。斯くいふ次第で、とかく無造作で不自然な一作ではある。用心棒(筋肉)を伴なひわざわざ来校した明美に種村が無防備に語つた、学校の運営資金を着服しその金で明美の店等で遊んでゐるとの会話を立ち聞きしてしまつた美紀は、しほりに報告する。一旦は種村の告発も思ひ立つたしほりではあつたが、後に美紀や吉野を種村らからの手から守るために、握つた経理帳簿を利用する戦略に方針転換する。それはそれとして、しほりの申し出に従ひ、義弘は自信作を新栄出版―それはよもや新田栄の名前から採つたのか?―編集者の、春山(清水)の下へ持ち込むことを決意する。春山はかつて処女作を出版して呉れはしたものの、その後には義弘の原稿を盗用し、自身の名義で出版してゐた。一方、種村はしほりらを纏めて始末するべく、しほりを強姦し、それを吉野の仕業にする杜撰な姦計を巡らせる。ところでビリングは女優三番手とはいへ、よもや扇まやは脱がないだらうと踏んでゐたところ、対種村戦に於いて肛門性交といふ形で、尻だけならば見せる。ある意味、さういふ回避の方策は、秀逸であるといへなくもない。
 前々作より六年ぶりのまさかの前作「愛人熟女 肉隷従縄責め」(2008)から、更に二年ぶりとはいへ概ねコンスタントな次作といつて語弊もなからう清水大敬の最新作はとりあへず、終始主人公以外の登場人物の多くが、狂騒的かつ闇雲に喚き散らし倒す、ことは最低限ない。それは要は、甚だしいマイナスが、若干ゼロに近づいたといふだけの話でしかないのだが。尤も、春山に力ない対決を挑んだ義弘は、何が何だか釈然としない遣り取りの末に、それでも何が何だかまるで共感不能な勢ひで打ちひしがれると、大量の錠剤をアルコールで服薬し自死する。その一件を機に純文学編集者から風俗ライターへと画期的に格下げされた春山が、逆恨みの末に種村一派に加はつたほかは諸々の要素が、清々しく脈略もないまゝに正しく羅列されるばかり。結局何となく右往左往した展開が、その内にやれやれと尺を尽きる。間違つても望んでゐる訳ではないが清水大敬らしいアクの強ささへ感じさせない、最早別の意味で輝かしいまでにぼんやりぼんやりした漫然作である。そもそも、経理書類の処遇を軸とした種村ら悪党の顛末が、一切通り過ぎて済まされる辺りはネガとポジとが反転した地平で感動的だ。黙つて観てゐれば―寝落ちなかつた場合―消極的にくたびれるばかりのところだが、時勢にも思ひを馳せるに、改めて何でこんな代物を撮らせてゐるのかと、そこから薮蛇な腹も立ちかねない。

 そんな中、唯一明後日に気を吐くのは吉野。“ボクの好きなポエムです”と称して都合二度振り回す一節が、「涙は人間が作る、世界で一番小さな湖」。この煌かなくどうしやうもないダサさは、確かに清水大敬の仕事ではある。


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