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真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ヨコハマメリー」(2005/企画・製作:人人フィルム/監督・構成:中村高寛/出演:永登元次郎・五大路子、他)。
 顔は白粉で文字通り真つ白に厚塗りし、身に纏ふのはヒラヒラの沢山付いたお人形さんのやうなドレス。年齢も本名も初めから定かではないが、腰の折れた老婆にしてなほ、現役の街娼として横浜の街に立つ伝説の娼婦“ハマのメリーさん”。戦後五十年、横浜の街に立ち続けた一人の女は、1995年冬、不意に姿を消す。
 もう一度、メリーさんの前で歌ひたい。末期癌に侵されつつ、執念にも似た特別な感情でメリーさんの姿を捜し求めるシャンソン歌手・永登元次郎(2004年逝去)。今作は永登を始めとする、メリーさんゆかりの人々へのインタビューによつて綴られたドキュメンタリーである。単に一人の街娼であることを超え、ひとつの喪はれた風景を、ひとつの通り過ぎられた歴史すらをも体現するに至つた女の物語である。
 世間が未知なる、そして無知なるAIDSウイルスに過剰に反応してゐた頃。既に老婆ではありながら、街娼であるメリーさんは勝手にAIDS患者のレッテルを貼られ、出入りするカフェーや美容院では、他の客からの排斥の対象となつてゐた。カフェーはメリーさん専用のコーヒーカップを用意することで対応したが、メリーさんが通つてゐた美容院は、終にメリーさんに来店を拒否した。
 メリーさんが常時も白粉を買つてゐた化粧品店の女主人は、メリーさんとのその頃の思ひ出を語つた。ある日デパートでメリーさんを見掛けたのでお茶にでも誘つてみたところ、シッシッとあつちに行けとでも言はんばかりに冷たくあしらはれた。帰宅後、店では普通に会話もするのに今日はどうしてあんなに邪険にされなくてはならないのだらう、と夫に愚痴をこぼしたところ、夫からはお前は世間を知らない、と怒られたといふ。他の人目もあるところで自分と仲良くしてゐては、女主人も街娼の仲間かと世間からは思はれてしまふ。だからこそその場では邪険にしたのだ、といふのである。ストレートに泣ける。はみ出し者の、やさぐれた心遣ひに胸が打たれる。この件を観るだけでも、今作は絶対に必見である、と言ひたいところではあつたのだが。

 フィルムで撮れ。

 キネコの安さが一目瞭然の、呆ける焦点。滲む色合。少し強い光は無様に白トビする。品の無い画面に、正確にいふと品の無い画質に、伝説の偽りのない美しさに素直に浸ることを最後まで妨げられた。
 伝説の娼婦とはいふものの、メリーさんは要は<年老いたホームレス>に過ぎないこと等も語られつつ、ヨコハマメリーの伝説は今作を以て完結する。といつてメリーさんの死が語られるといつた訳では決してないが、ヨコハマメリーの伝説は完全に終了する。かつて時空を超えて飛翔した伝説はロマンの翼を失ひ、現実の地べたの上に着地する。ただそれは、決して悲しいことではない。その着地は暖かく穏やかで、一人の人間の人生としてはこれで全く良かつたらう、と思はれるものであつたからである。

 ラストシーン。現実に着地してなほ、伝説は美しさを放つ、ところだつたのに。何が人人フィルムだ。人人テープに改名しろ。伝説への敬意が足りぬ。


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 「ウルトラヴァイオレット」(2006/米/監督・脚本:カート・ウィマー/出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ、キャメロン・ブライト、ニック・チンランド、ウィリアム・フィクトナー、他)。
 21世紀末、軍の研究課程に於いて全く新種のウイルスが発見される。このウイルスに感染した人間は、知能、身体能力が共に驚異的に発達し、超人間“ファージ”と呼ばれた。ファージの高過ぎる能力に恐れを抱いた人間政府はファージの撲滅を開始、僅かに生き残つたファージは地下に潜り武装組織として先鋭化、両者の間で苛烈な戦闘が繰り広げられてゐた。
 ファージを根絶する最終兵器が開発されたとの報に、ファージは最強の戦士を送り込む。彼女の名前はヴァイオレット(ミラ)。感染者の夫と身篭つてゐた胎児とを人間政府に奪はれたヴァイオレットの人生には、最早復讐の二文字しか残されてゐなかつた。死闘の末、最終兵器の強奪に成功するヴァイオレット。秘密のベールに隠された兵器の正体は、九歳の少年・シックス(キャメロン・ブライト)であつた。人間への憎悪と、全てを復讐に捧げた今となつても矢張り残されてゐた母性との狭間で、ヴァイオレットは逡巡する。
 三ヶ月早く公開されたアメリカからも兎も角、後に詳しく触れるが兎に角芳しい評判を殆ど全く耳にしない映画である。カート・ウィマーの前作「リベリオン」(2002/主演:クリスチャン・ベール)に関しては、アメリカでは矢張りサッパリであつたが、少なくとも日本ではそれなりに好意的に迎へられてもゐたやうな記憶もあるのだが、今作は洋の東西を問はず、それこそケチョンケチョンの感がある。
 確かに私も、「ウルトラヴァイオレット」がよく出来た映画であると申すつもりは全くない。素晴らしい映画であるだなどと、口が裂けても言へない。だが然し。臆面も無く言ふが、私はこの映画が大好きである。大絶賛は断じてしないけれども、大満足である。「ウルトラヴァイオレット」には私に大好きであると言はしめるサムシングがある・・・のか、それとも彼我の映画の観方に何か本質的な差異があるいはあるのか、そのことを確かめに、二回観に行つたものである。果たして、答へは見付かつた。
 ケチョンケチョンの中身は、大体以下のとおりである。全部挙げて行けばそれこそキリが無いので、大まかなところで止める。曰く、最終兵器を強奪して逃走するヴァイオレットの、重力を自在に操作してビルの壁面を走行するバイクと攻撃ヘリとのチェイス・シーン(主に)のCGが、ゲーム画面以下にショボい。曰く、SF的世界観が殆ど全く蔑ろにされたまま、お話が安易な「グロリア」ものに収束してしまつてゐる。大体、凡そは吸血鬼のやうな存在である、らしいファージの基本設定は何処に行つたのだ(設定の中では、ファージは高ポテンシャルの代償に、血液中の赤血球がウイルスに侵食されてしまひ、定期的に血液を補給しなければならず、感染後十二年の生命、らしい>この辺りは本当に等閑にされてしまつてゐる)。曰く、ただでさへ安易な「グロリア」ものの中で、更に三十分鋏を入れられてゐるからかどうかは兎も角(公開尺は87分)、人間ドラマがハチャメチャ。序に下線部に関しては、他に四次元ポケットの要領で武器が無限に都合よく出て来る、次元圧縮テクノロジーなるトンデモ・ギミックも全篇を通して登場する。これは画面的にはカッコいいが。
 確かに、これらの指摘はどれも全くその通りである。全く異論を差し挟む余地は無い。ただその上で、私が思ふのは。私はこれまでも、往々にしてさういふ映画の観方をして来たやうな気も改めてみるとして来るが、今回初めて、意識的に明確に言葉にした形で認識するに至つた。必ずしも須くさういふ態度を取るべきである、だなどとは決して申すつもりはないが、かういふ映画は、あそこが駄目だここも駄目だ、といつた風ないはゆる減点法、を以てして観るべきではないのでなからうか。
 かういふ映画といふのは、「ウルトラヴァイオレット」はSF映画でもなければアクション映画でもない。勿論感動ドラマの類では更に一層ない。それでは何なのかといふと、「ウルトラヴァイオレット」は、ガン=カタ映画である
 一応改めて御説明するが、ガン=カタとは、「リベリオン」に於いてカート・ウィマーが考案した架空の戦闘術で、最も基本的には、二挺拳銃の操射法である。説明原理としては、第三次世界大戦までの銃撃戦の戦闘データを統計学的に分析。敵の撃つて来た銃弾の射線を回避し、(ガン=カタ)使用者の発射する銃弾を確実に命中させる為の動作体系である。拳銃の他に、刀剣や何でもいいから打撃物を用ゐる場合もある。西洋から生まれた銃の技術と、剣道、功夫といつた東洋武術とを融合させた無敵の「型」であるとされる。判り易く大雑把に、実際にガン=カタが使用されてゐる状況を説明すると、使用者が細かいカット割りで囲まれた多数の敵の中をクルクルと、あるいはヒラヒラと舞ひでも踊るかのやうに移動する。すると敵の攻撃は使用者には何故か(全く)当たらず、一方敵はバタバタと次々に倒されて行く。最後ガン=カタ使用者が締めのポーズを決めると、周囲は哀れ死体の山、といふ寸法である。「リベリオン」以降多くのジャンル、数々の作品に如実な影響を与へた、アクション映画に於ける決定的かつ画期的な新機軸である。
 今作に於いては、勿論ヴァイオレットがガン=カタを使用する。カート・ウィマーが、ガン=カタの出て来ない映画なんぞ撮る筈がない、と信じたい。尤も、ヴァイオレットだけではなく、卓越した身体能力を活かしてファージは皆ガン=カタを使用するやうでもあるが。最も明示的にガン=カタを使用し、なほかつ最強の使ひ手はヴァイオレットである。
 クリスチャン・ベールのガン=カタと、ミラ・ジョヴォヴィッチのガン=カタ。力強さの面で劣つてしまふのは当然である。アクション面では「ウルトラヴァイオレット」は「リベリオン」よりも後退してゐる、と論じる人もあるが、私は必ずしもさうは思はない。といふか、そもそもがさういふ立論は間違つてゐる。繰り返すが、「ウルトラヴァイオレット」はアクション映画ではない。ガン=カタ映画である。ならばガン=カタ面の上では「ウルトラヴァイオレット」はどうなのか。今ここで「リベリオン」を同じく銀幕で再見してみた場合に、果たして何れに優劣をつけるのかは自分の中でも全く見当がつかないが、「ウルトラヴァイオレット」のガン=カタは些かも見劣りはしない。確かに、表面的な力強さやあくまでフィクションの中での説得力、といつた面に注目するならば、クリスチャン・ベールのガン=カタの方が優れてもゐるのかも知れない。が元より、改めてわざわざ断るまでもなく、ガン=カタとは何程かの実効性が云々される類の代物では全くなく、決定的かつ画期的な、アクション・シークエンスに於ける新しい記号である。その上でミラのガン=カタは、美しい。兎に角美しい。文字通り、流れるやうな麗しさである。ミラのファイトシーンは全部で九シーンあるが、中でもクライマックスの、敵の本部の資料室でのガン=カタ・シーンが最も素晴らしい。蔵書室のやうな部屋で、カッコいい衣装とサブマシンガンの、弾倉に更に刀が付いた武器をキメたヴァイオレットが、数十人の重武装の兵の間を華麗に舞ひ、目にも留まらぬ電撃で鮮やかに撃ち倒して行く。
 公式サイトやインタビューでの、私はどれだけこの映画の撮影に際して訓練して来ました、といつた発言の類ほど当てにならぬものもないが、そこはそれ。「バイオハザード2」では、誰しもがCGだと思ひ込んでゐたビルの壁面を走り降りて来るシーンに於いて、実は実際にワイヤーに吊られて壁面を走つてゐたミラ姐さんである。余計な格好をつけずにしつかりスタントも使用しつつも、ミラも十分に動く。誰とは言はないがシャーリーズ・セロソのやうなナメた真似はせずに、少なくともガン=カタ映画として全く遜色が無い程度には十分に動いて呉れる。加へて、ヴァイオレットが次から次へとファッション・ショウの如き感覚で変へるカッコいい衣装が、どれも似合ふこと似合ふこと。トップモデル出身は伊達ではない。ミラ・ジョヴォヴィッチ最強のウェポンである。最早百点満点としか言ひやうがない。少なくとも個人的には。
 先に述べた、かういふ映画は減点法で観るべきではない、といふのはさういふ意味である。ガン=カタ映画として、とりあへずガン=カタは満点だ。それならばそれでいいではないか。さういふ態度も、時にアリではないかと考へる次第である。そこから先の瑣末がそれでも気になるのならば、そもそもがカート・ウィマーの映画なんぞ観に来る方が間違つてゐる。ただカート・ウィマー、一本の物語を全うに整合させることが出来ないといふ致命的な弱点を抱へつつも、それでも要所要所では、キチンとエモーションを描かうとする志向性と、真つ直ぐな感性とを有することだけは感じる。

 どうでもいいが、ウィキペディアのガン=カタの項で、映画のオマージュ作の中に「ウルトラヴァイオレット」が含まれてゐるのは如何なものか。考案者の撮つた、文字通りの本家だぞ。


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 「デス・トランス」(2005/監督:下村勇二/脚本:加藤淳也・藤田真一・千葉誠治・下村勇二/アクション監督:坂口拓/衣装・キャラクターデザイン・オリジナルコミック:武内香菜/出演:坂口拓・須賀貴臣・剣太郎セガール・竹内ゆう紀・藤田陽子、他)。
 ゴスな空気(あくまで本来のゴシック様式ではない)が流れる、銃と刀とが同居する何時かの時代の何処かの国。東の寺に数百の僧兵と呪術とによつて守られた、全ての願ひ事を叶へて呉れるといはれる伝説の棺。その棺を、たつた一人で強奪した男、“棺の男”グレイヴ(坂口)。グレイヴは棺を引き摺り、魔物が棲むといはれる西の禁断の森へと向かふ。同じく棺を狙ふ、基本ガンマン(刀も抜くが)のシド(剣セガ)、棺に隠された秘密を知る謎の女剣士・ユーリ(竹内)、ただ一人寺の外に出てゐた為生き残り、今際の間際の大僧正から“神壊刀”を譲り受け棺奪還の命を受けた僧、見習のリュウエン(須賀)らも交へ、伝説の棺を巡る死闘がスタートする。
 要は、世界の命運を握るアイテムを巡り何処かの森の中で人外な強者共がエンドレスな死闘を繰り広げる、といふプロットは下村、坂口共の出世作、「VERSUS」(2000/監督:北村龍一)と全く同一である。設定とキャラクターとの紹介を手短に済ませると、さつさと暴走アクション。済ませない内から過剰アクション。何はともあれ延々アクション。ところでそんな(いい意味で)底抜けアクション映画に、脚本で四人も名前を連ねてゐるのは何の冗談だ?関根和美が時にさういふマジックを仕掛けもするが。
 口が裂けても素晴らしい、だとか良く出来てゐる、だなどと申すつもりはないが、面白かつた。滅法面白かつた。箍の外れ切つた予告篇を観て「ウヒョー♪何だこれ !?絶対観たい!」、とバンザイした知能の発育の不自由な観客の期待に応へて更に火に油を注ぐ、正しくエクストリームな映画である。
 人並み外れた強さを誇る、“棺の男”クレイヴを演ずる坂口拓の強さは、譬へてみるならば不良マンガに出て来るケンカ番長。兎に角殴る。相手より一発でも多く殴る。相手が倒れるまで殴る。倒れても殴る。とりあへず殴る。兎に角走る。相手よりも速く走る。逃げる相手を追ふのに追ひ抜いてしまつては意味が無いのだが、それでも相手を追ひ抜いて走る。捕まへることよりも、どちらの足がより速いのか、そつちの方が最早重要だ。とりあへず走る。差した刀も抜かずに、鞘のままブルンブルン振り回す。金属バットか棍棒とでも勘違ひしてゐるかのやうに、鞘のままの刀でボコンボコン殴る。
 なにせ番長だから型は出鱈目だし、台詞を喋らせてみると坂口拓は何時まで経つてもちつとも上手くならないのだが、見得を切らせると一流。ここぞ、といふ場面でキッチリ映画全体の色を自在に操る辺りは、スターといふには少々心許ないが、ヒーローたるには十分な貫禄である。これまでは好きな俳優は誰かと問はれれば、日本人では小沢仁志の馬鹿の一点張りで通して来たが、これからは坂口拓の名前も挙げよう。ピンク勢だと、「淫行タクシー ひわいな女たち」の土門こと町田正則、宮あおいの「初恋」で一般映画にも殴り込む若手ナンバーワンの松浦祐也、御存知なかみつせいじ・・・キリが無くなるので止める。
 謎の女剣士・ユーリを演ずる竹内ゆう紀も、特技は殺陣(@公式サイトより)といふのは何処まで鵜呑みにしてよいものやら判らないが、十二分に健闘してゐた。気孔なのか何なのか、刀を合はせたところから体勢を一切変へずに相手だけを弾け飛ばす技は、飛ばされてゐる方が上手いのだ、といつてしまへばそれまでかも知れないが、ちやんとユーリが強く見えた。当たり前のことを言つてゐるやうに思はれるかも知れないが、アクション演出に於いて“強く見える”といふことは案外と難しい、実は重要なポイントである。
 ザコキャラ相手以外には、剣太郎セガールが殆ど使ひ物にならなかつたのは残念。須賀貴臣を一貫してヘタレとして描いたのは正解。
 トンファー型銃、何処からそんな大きな物出して来たんだ !?な組み立て式バズーカ砲、等々ツッコミ上等なカッチョ良いアクション用ギミックは満載を通り越して過積載。クレイヴがトンファー型銃を使用する二人の忍び(?)と戦ふシーンは、完全に相方に当たつてゐる以前にクレイヴも全く避けてゐるやうには見えないのだが(それは矢張りガン=カタ !?)、これでいいのだ!映画に於いて最も必要なもの、それはエモーション。それ以外はひとまづさて措く。細かいことをガタガタいふな、黙つて震へろ。作り手の鮮やかな潔さに、こちらも謹んで心を差し出す。
 西の禁断の森で数百のゾンビ(?)軍団に囲まれたクレイヴが、「キリが無え、抜くか・・・」、とそれまで鞘のまま殴る棒としてしか使はなかつた刀(?)を遂に抜くシーンはウルトラ必見。今年公開される全てのアクション映画の中で、最も重要なショット・・、かなあ?>知らねえよ>>いや、きつとさうだ。さうに違ひない。震へる。
 終に伝説の棺が開くラスト、それまではあくまで何処まで遠くに行かうとも「VERSUS」の延長線上にしかなかつた映画が、急に様相をガラリと変へる。更に加速した「阿修羅城の瞳」、あるいは極彩色の「デュエリスト」。ところでそれは褒めてゐるのか?まあ、さういふ細かいことは言ひない。予告を観て、「これは !?」、あるいは「これだ!」と思はれた諸兄は必見である。

 水曜日のレディース・デーに観に行つた、といふこともあるのかも知れないが、外連全開のアクションはつちやけ映画にも関はらず、私以外の十人前後の客は、何故だか全員女だつた。あれは何か、主題歌を担当したDir en greyの客の腐女子か?といふか野郎共は何をしてゐる。女に観せておく映画ではないぞ。


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初恋  


 「初恋」(2006/監督:塙幸成/脚本:塙幸成・市川はるみ・鴨川哲郎/原作:中原みすず/主題歌:元ちとせ『青のレクイエム』/出演:宮あおい・小出恵介・宮将・小嶺麗奈・柄本佑・青木崇高・松浦祐也・藤村俊二、他)。
 昭和43年12月10日、日本信託銀行(現:三菱UFJ信託銀行)国分寺支店から東京芝浦電気府中工場に工場従業員へのボーナスとして現金輸送車で輸送中の現金三億円が、白バイ警官に偽装した何者かによつて強奪された、いはゆる府中三億円強奪事件。昭和50年公訴時効が、昭和63年に民事時効すらもが既に成立したこの事件は、日本犯罪史上最大のミステリーと呼ばれてゐる。今作は府中三億円強奪事件の実行犯は、当時18歳の女子高生であつた、とする中原みすずの同名小説の映画化である。初めにお断りしておく。私は原作小説は全く素通りしてゐる。以下はその限りに於いて述べるものである。
 兎にも角にも予告篇がヤバい。正確にいふとヤバかつた。草むらの中に停めた黒塗りの現金輸送車を前に、背中を見せて立つ偽白バイ警官。予告篇の締め括り、ヘルメットを脱ぎ頭を左右に振ると、纏めてあつた豊かな黒髪が零れる。そこに被るモノローグ、“あなたとなら、時代を変へられると信じてゐた”。少女は、初恋の相手と時代を変へる為に、三億円を強奪したのだ。そんな物語に、心がときめかない訳がない。震へない筈がない。
 内向的で孤独な少女、みすず(宮あおい)。幼い頃、兄だけを連れて出て行つた母親に捨てられたみすずは、叔母夫婦の家に引き取られてゐた。とはいへ叔母家族とも打ち解けず、学校にもみすずの居場所は無かつた。
 ある日学校帰りのみすずの前に、幼い頃離れ離れになつて以来の兄・亮(宮将@宮あおいの実兄)が不意に現れる。俺は此処に居る、と渡されたマッチを頼りにジャズ喫茶・Bを訪れるみすず。初めて足を踏み入れる夜の街、退廃的な店内の雰囲気にみすずはすつかり呑まれてしまふ。亮の仲間の一人で、仲間の輪からは離れて独りランボーの詩集に目を落としてゐた東大生・岸(小出)が、冷たく言い放つ。「子供が何の用だ」。みすずはおどおどと、然し決然と言ひ返す、「大人になんか、なりたくない」。
 みすずはBに居付くやうになる。時代は荒れてゐた。ある日、仲間の一人・ヤス(松浦)がデモの最中機動隊員から暴行を受け、半身不随の重傷を負ふ。敗北感に打ちのめされる仲間達。そんな中岸は、かねてから温めてゐた計画にみすずを誘ふ。三億円を強奪する、当然当惑するみすず。岸は言ふ、「お前が必要なんだ」。その一言に、みすずは心を動かされる。“あなたとなら、時代を変へられると信じてゐた”。少女は信じたのだ。
 結論からいふ。場内は賑つてゐた。今時の観客にはこの程度でも十分満足出来るのかも知れないが、個人的には全く不満であつた。宮あおいは、今回も宮あおいが内包してゐる筈のエモーションに見合ふ演出力には巡り会へなかつた。「ギミーヘブン」の、何かの間違ひのやうなラスト五分(だけ)は除く。常時ものいひ方をすると、相変はらず1980年代以降のラインのこちら側で安穏と手をこまねいてゐる映画であつた。何で塙幸成はかくもエモーショナルなプロットを手にしてゐながら、ずつとギアをニュートラルに入れ放しで映画を撮るのか。塙幸成がニュートラルぶりを最も露呈するのは、正に三億円強奪の実行シーン。降り頻る雨に阻まれ、みすずは計画されてゐたスケジュールを超過する。間に合はない。みすずは天を仰ぐ。何だよ、結局変へられないのかよ・・・・・。次のシーン、カットが変ると唐突に再び偽装白バイを走らせてゐるみすず。何故そこで、一旦諦めかけてしまつたところから、世界なんて矢張り変へられないんだと絶望したところから、否、違ふ。と再び心を、世界を振り切るシーンを挟まない。
 現にこの二千年、キリストがユダに売られたところから半歩も変はりはしなかつたこの世界、即ち近代。何も変はらなかつたぢやないか。そんなことはクズにでも言へる。結局変へられないのかよ、そんなことは腰抜けにでも言へる。何も変へられやしないことなど、最早初(はな)から判つてゐる。変はらないからこそ変へるのである。変はらないと判つてゐるからこそ、なほのこと変へようとするのである。人間の自由意志とは、さういふことである。その自由意志こそが、たとへ儚い敗北にしか通じてゐないとしても、エモーションの要であらう。何だよ、結局変へられないのかよ・・・・・。そこから、否、違ふ!と、変へるつたら変へるのだ、と再び折れた心を奮ひ立たせるシーンは絶対に必要なのだ。
 挙句再び走り始めたみすずの前に、これ又都合良く遅れてて呉れた現金輸送車がプラッと姿を現す。「嘘・・・」、とみすず。何だそりや。一応にしか単車を走らせない一連の実行シーンに、スピード感も緊迫感もまるで皆無な様も甚だしい。
 事件の後、岸は姿を消す。そこからエンドロールまで、映画は岸を失つたみすずの喪失感のみをちんたらちんたらと描く。宮あおいがスクリーンに映し出されてゐるだけでうつかり首を縦に振つてしまひさうにもなるが、正気を戻して思ひ留まる。初恋の相手が何処かに行つてしまつた喪失感もそれはそれでひとつのエモーションではあらうが、ところで世界を変へられなかつた敗北は何処に行つた。何も私は、現実的な敗北をスクリーンの中に観たい、などと申してゐるのではない。寧ろ真逆である。たとへどんなに不可避であつたとしても、現実的な敗北などスクリーンの中には見出したくない。美しくないものなんて、今既にあるありのままのこの世界で十分だ。ならば何が言ひたいのかといふと、今作のやうな無様な体たらくを晒すくらゐなら、正に全てを変へんとしてゐた高揚感の内に主人公が死んで行くニューシネマのやうなラストの方が、たとへその死がしばしばどんなに呆気なくとも、映画としては決定的に美しかつたのではないか、といふことである。

 宮あおい以外の主要若手キャストが、ほぼ全員見るに堪へない無様な醜態を晒す中(柄本佑が後の中上健次とはどういふ冗談だ?)、ピンクから殴り込んだ我らが松浦祐也は唯一健闘。踏んで来た場数から段違ひに違ふ。ハイライトに見合ふ芝居をしてゐたのは松浦祐也だけであらう。小嶺麗奈は雰囲気だけなら悪くなかつたが、少し声を張らせると途端に演技が崩れる。佐倉萌の名前がクレジットの中にはあつたのだが、迂闊にも確認出来なかつた。もう一度確認しに観に行く予定は全く無い。
 最後に、決して駄目な曲といふ訳ではないのだが、主題歌も頂けない。三億円事件の犯人の映画だぜ?主題歌といへば当然、ジュリーの「時の過ぎゆくままに」でなくつちや。


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 「幻の湖」(昭和57/製作:橋本プロ/配給:東宝/原作・監督・脚本:橋本忍/撮影:中尾駿一郎・斎藤孝雄・岸本正広/照明:高島利雄/音楽:芥川也寸志/特技監督:中野昭慶/ランニング指導:宇佐美彩朗/出演:南條玲子、隆大介、光田昌弘、長谷川初範、かたせ梨乃、テビ・カムダ、室田日出男、北村和夫、大滝秀治、北大路欣也、関根恵子、星野知子、ランドウェイ・KT・ジョニー、他)。特集上映の機会に恵まれたものであり、主演者中ランドウェイ・KT・ジョニーは、人ではなく犬である。
 原作・監督・脚本は「羅生門」で脚本家デビュー、その後「七人の侍」の共同脚本、「私は貝になりたい」、「日本沈没」の脚本等々で(かつては)その名を日本映画界に轟かせた橋本忍。従来配給会社主導で行はれてゐた映画製作に風穴を開けるべく、昭和48年自らの映画製作プロダクション・橋本プロダクションを設立。「砂の器」(昭和49/監督:野村芳太郎)、当時の配給記録を更新した大ヒット作「八甲田山」(昭和51/監督:森谷司郎/主演:高倉健)に続く橋本プロ第三作となる今作は、東宝創立五十周年記念作品として製作された大作である。因みに尺もたつぷり164分。
 も、映画は公開一週間で打ち切り。その後2003年にDVD化されるまで、一切のソフト化、TV放映もされなかつた、文字通りの“幻の映画”である。名画座等で、時に上映されることはあつたらしい。要は今回もさういつた類の催しであることに変りはないが、2003年のDVD化以降は、比較的広く人の目にも触れるやうにもなり、実際のところ、この映画のレビューといふとネットの中には山とある。
 “ネオ・サスペンス”と当時は謳はれた(何をかいはんや)この映画のストーリーに関して、“難解である”といふ言葉で語られることもある。因みにウィキペディアの当該ページ等がさうである。が、時空をも遥か飛び越えてストーリー展開がハチャメチャ、等と生易しいものでは最早なく木端微塵であり、なほかつ主人公の迸らせる情念は作劇法としては自殺行為とすら思へるくらゐに激越ではあるものの、決して今作は“難解”といふやうな高尚な代物ではない。単に壊れ果ててゐるだけである、空前絶後なまでに。私は橋本忍は、この映画の脚本を本当に走りながら書いてゐたのではないかと思つてゐる。ジョギング程度などではなく、例へばウルトラマラソンとか。
 ここに、三時間弱の破廉恥なまでの錯綜、をも通り越したある意味観客にとつての地獄巡りを最も簡略に掻い摘むことを試みる。「幻の湖」とはどういふ映画なのかといふと、堅気の銀行員との結婚が決まつて幸せを掴み掛けたトルコ嬢が、因縁ある男を刺し殺してしまふ物語である。さういふと(乱暴な括りにも程があるが)ATG映画のやうな、全く救ひの無いまでもどうしてだか人の心を惹き付けて已まない物語のやうにも思へて来るが、勿論そのやうな甘美な映画ではなく、東洋的無常観ないしは不条理、がテーマなのだと作つてゐる側はさういふつもりなのかも(ひよつとすると)知れないが、私は哲学をさういふ方便に用ゐるのはよくないと思ふ。まあ一言で片付けてしまへば、壮大といへば壮大ではあるが、壮絶な失敗作である。橋本プロ(存続してゐるのか?)の第四作は、目下終に製作されてゐない。今作によつて完全にキャリアに水を注されてしまつた、といふか自ら止めすら刺してしまつた橋本忍は、以後数作の脚本を僅かに手掛けるばかりで(しかも不評を博す)、死んではゐないらしいが表舞台からは完全に姿を消す。
 先にも述べたが、「幻の湖」には展開を一から十まで逐一追つたレビューが既に多数存在する。重ねて私が申し上げることは、最早残されてはゐない。ただ何故にさういつた諸先達の仕事が、三時間弱の地獄巡りにも似た長尺を一々逐一追はなければならなかつたのかといふと。映画の定型文法を軽やかにではないが清々しいまでに全否定した、ストーリー展開といふ名のこの映画のバッドトリップからは、取捨選択しようと思へば個々のエピソードは幾らでも省いて行ける。が、此処は横道、あそこは過剰と本筋に関係しない部分、あるいは逸脱が過ぎる部分を取り除いて行つたならば、最終的には何も残らなくなつてしまふやうな気がする。兎にも角にも、素面の論理といふ奴が一切通用しないのだ。その為、一度手を付けようと思つてしまつたならば、無間地獄を完トレースする羽目に陥つてしまふのではなからうか、と見るところである。
 個人的には、昭慶先生の特撮は普通に目当てにしてゐたものであつたが、本当にオーラスにチョロッとしか出て来ない以前に、ショ、ショぼい・・・・・(泣かうかな)。スペースシャトルの耐熱タイルは一枚一枚再現した、といふがそんなの別に判らないしどうでもいいよ。矢張り昭慶先生は、物を大爆発大炎上させないと駄目なのか>さういふことでもあるまい
 後、南條玲子を脱がせるくらゐなら、どうして同じくトルコ嬢役のかたせ梨乃を脱がさない。かういつたところに、映画作家としての良心の有る無しが現れる>違ふことも歪んでることも判つてるから
 ただ、かたせ梨乃の最後の出演シーンは、類型的ではあるけれどもよく撮れてゐて、この映画の中で殆ど唯一普通に評価出来る、カッコいい名シーンである。トルコ嬢としての南條玲子の源氏名は“お市の方”、かたせ梨乃は“淀君”。お市の方が足を洗ふに当たつて、それまで反目し合つてゐたにも関はらず、淀君は餞別にとお市の方に、殺されてしまつた愛犬の代りの犬を客経由で紹介する。どうしてこんなことをして呉れるの?と尋ねられた淀君は、「私は淀君、あんたはお市の方。たまには親孝行でもしとかないとね」。そんなハクい台詞を決めると、わざわざそんなところにまで呼び出した草むらにお市の方を一人残し、淀君は待たせておいた黒塗りの車でカッコよく去つて行く、といふロング・ショットのシーンである。かたせ梨乃の元々持つ抽斗にも上手く合つてゐる。

 DVDの画質がどれ程のものであるのかは与り知らぬが、今回の上映プリントは、あまり以下に状態の良いものではなかつた。


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 中程度以上にくたびれ果ててゐたところ、寝耳に濃硫酸でもブッカケられたかの如き衝撃情報に慌てて、取る物もとりあへず緊急出撃したのも束の間、とつとと止めを刺されてしまつた。ピンクスとしての私のフランチャイズ、福岡オークラ劇場は来月の末をもつて閉館してしまふ、これはノー・エスケープな事実である。福岡オークラで観ることの出来るピンクも、残り十五本。話は反れ気味になるが、かうして吹かれなくても消し飛んでしまふやうな駄サイトを細々とシコシコ続けてゐると、偶に掲示板に見ず知らずの方からの書き込みが、殊にそれがピンクに関するものであつたりすると、柄にもなく嬉しくなつてもしまふものである。が、流石に今回ばかりはネタがネタだけにちつとも嬉しくなれない。
 正直なところ、「危ないな」といふ危機感ならば兎も角、「大丈夫か?」といつた心配に毛を生やした程度の、漠然とした不安ならば無い訳でもなかつた。とはいへ、唐突過ぎる、早過ぎる。今は、少なくとも今は未だ、俺にはピンクが必要だ。
 私がかうして、ピンクは観ただけ全部感想を書く、と小川欽也にも珠瑠美にも新田栄の映画にも一々感想を書いてゐるのは、何も放つておけば消え行き、あるいは逝きつつあるピンクを憂へてでも、このサイトを通してお一人でも多くの方々にピンクを観て貰ひたい、だなどといつた大それたことでもひとまづない。そもそもきつかけが何であつたのかは今となつては定かではないが、前世紀末頃から他に何もすることがない私がどういふ訳でだか首をドップリ突つ込んで、最早ほぼ抜けなくなつてしまつたピンク映画といふジャンルは、放つておかれなくても殆ど誰からも省みられずに、通り過ぎ忘れ去られて行つてしまふジャンルではあらう。現に、私が最も愛した映画「淫行タクシー ひわいな女たち」(2000/監督:関根和美/脚本:金泥駒/主演:佐々木基子・町田政則)は、その憂き目にドンピシャで遭つてゐる。ならば、金も力も、序に色男もありはしないのだが、暇だけは作れば何とかなるので、どうせならば国映勢だけ掻い摘むやうな洒落臭い真似などせずに、十本中八、九本の関根の凡作にもエクセスの単なるエロ映画にも最早苔すら生えないやうな旧作改題にも、かうして一々感想を書いてゐる次第である。己の人生の面倒も満足に見れないやうなドロップアウトの分際で、どの面下げて状況に関心を持てようか。小生はそこまでおこがましくも厚顔無恥、無知でもない。
 これで、六月からは奇跡が起つて新しい小屋でも出来ない限り、私が住む街に遺されるのはm@stervision大哥仰るところの“民生機に毛のはえた数十万円の液晶プロジェクター”上映の、加へて三本立ての内通常二本はVシネを掛ける小屋のみとなつてしまふ。まともに銀幕にフィルムで上映されるピンクは、残り十五本。が然し、いふぞ。これで何もかもが終つてしまつた訳ではないからな。“おはりのはじまり”?確かにさうかも知れないが、冗談ぢやないぜ。堂々と筆を滑らせると、時に名のある小屋の閉館がニュースとして伝へられることがある。さういふ際に姿を現すのが、「いやあ残念ですねえ、昔は通つたものなんですけどねえ」なんて寝言を、ちつとも残念さうには見えないしたり顔で吐きやがるクズ供である。いいか、再びいふぞ。潰れて惜しい小屋ならば、潰れぬ内に、潰れないやうに足繁く通へ。「昔は良かつた」、そんなことはバカにもクズにでもいへる。繰り返すが、幸か不幸か当方ドロップアウトは貧しい人生を送つてゐる人間なので、懐かし気に振り返る来し方なんぞ欠片も持ち合はせはしない。ピンクス・ノット・ラスト・ギグ。負け戦上等、後退戦ならばお手の物。柄にもなく、俄然ヤル気が出て来た。へこたれても、挫けはせんからな。


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  「THE MYTH 神話」(2005/香港・支那合作/原案・監督:スタンリー・トン/脚本:ワン・ホエリン/出演:ジャッキー・チェン、キム・ヒソン、チェ・ミンス、レオン・カーフェイ、マリカ・シェラワット、シャオ・ピン、スン・チョウ、ユン・タク、他)。ジャッキー・チェンの新作を観に行つた。それは映画者(えいがもん)としての、ではない。人として当然の行ひである。
 考古学者のジャック(ジャッキー)は、繰り返し繰り返し同じ夢を見る。舞台は2200年前、始皇帝の時代の秦。近衞将軍・蒙毅として、古朝鮮から始皇帝への貢物として嫁いで来る王女・玉漱(キム・ヒソン)を迎へ入れ、玉漱を奪還せんと襲撃して来るチェ将軍(チェ・ミンス)、と死闘を繰り広げる夢である。そんなジャックを、親友のウイリアム(レオン・カーフェイ)が訪ねて来る。反重力の研究をしてゐるウイリアムは、かつてジャックが論文を書いた、空中浮揚する聖者に関心を持つて訪ねて来たものだつた。
 2200年前の前世の記憶を軸に、宇宙より飛来した反重力物質(だからどういふ原理なんだよ)、不老不死の仙薬、挙句に地下の大空洞に展開する空中大霊廟(正直何のことだか全く伝はつてゐないことと思ふ)まで飛び出して来る、正直なところがスタンリー・トンはエルでも極めてゐたのか?とでも思つてしまはざるを得ないやうなトンデモ映画。ジャッキーのこれまでの偉大なキャリアの中でも、最も底の抜けた一本である。
 とはいへ、アクション映画としては常時も通りと、常時も通りではない部分まで含めて十二分に満足出来る、常時ものジャッキー映画である。100点満点。たとへどんなに物語の底が抜けてゐても。
 常時も通りの部分は、主にインドでの逃走アクション。ゴキブリホイホイ工場に逃げ込んでの、くつ付いたり動けなくなつたりのコミカル・アクション。ゴ、ゴキブリホイホイ !!!!!!!!改めて、声を大にして言ふ。ジャッキー最高 !!!!!!!!ゴキブリホイホイの上で、くつ付いたり動けなくなつたりしながら、それでも逃げたり助けたり戦つたり・・・・・(笑ひを堪へきれない)、ジャッキー最高 !!!!!!!!有難うジャッキー !!!!!!!!こんなドロップアウトではあるけれど、貴方の映画を観てゐる時だけは幸せです。もう一度言つとく。ジャッキー最高 !!!!!!!!
 常時も通りではない部分は、2200年前の前世の記憶パート。玉漱姫を守る為に、蒙毅は容赦なく追手の腕を落とし、首を刎ねる。(前世の記憶パートの)クライマックスでは、友の敵を槍で串刺しに貫き、一対数百の圧倒的多勢に無勢の絶望的な戦ひの中、自らの体から流れる血と返り血とで全身を真紅に染めながら、文字通りの死体の山を築く。普段滅多なことでは人を殺さないジャッキーが、“戦鬼”としてのジャッキーを見せて呉れる。
 スタンリー・トンはそんな蒙毅将軍の最期で、「子連れ狼 死に風に向ふ乳母車」(1972/監督:三隅研次/主演:富さん)の孫村官兵衛(加藤剛)の最期をパクつてゐる。
 インド古武術の老師の娘サマンサを演じる、“インド映画界のNo.1セクシー女優”ことマリカ・シェラワットはマジでヤバい(何が)。これを機に、各国の映画でもブレイクすることを望む。ただこの人、公式サイトを鵜呑みにすると、とても奇妙なことを言つてゐる。
>「インドの人口の半分は私に夢中よ。『THE MYTH/神話』が公開されたら中国の人口の半分はトリコにしてみせる。つまり地球の人口のおよそ50%は私のファンつてことね」。>どういふ世界観だよ

 最後に、同じく公式サイトのジャッキーのプロフィール中、“1954年4月7日、香港生まれ。”とまづ出自を紹介した、次に続く一文がエクストリームに素晴らしい。
 “説明不要、世界のアクション・スター”。大名文である。


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奇談  


 「奇談」(2005/原作:諸星大二郎《連作『妖怪ハンター』内、『生命の木』》/監督・脚本:小松隆志/プロデューサー:一瀬隆重/出演:藤澤恵麻・阿部寛・清水紘治・菅原大吉・柳ユーレイ・草村礼子・ちすん・土屋嘉男・白木みのる、他)。
 言ひ訳といふ訳でもないが、予めお断りしておく。当方ドロップアウトは、諸星大二郎は殆ど全く読んでゐない。色々と、常にも増して頓珍漢なことをいひ出すやも知れないが、全てのジャンルの原作つきに関して、原作からは全く別箇の物としての評価、といふのはあらうべきではない、などといふこともあるまい。といふ態度、もしくは姿勢から、開き直つて観て来た映画のみからの感想を、例によつて手前勝手に漫然と述べる。
 正直な所、諸星大二郎の特異な―マンガ―世界を実写映画化、あるいは予告篇の出来からいつて、期待してはゐなかつた。寧ろ、何ぞ仕出かして呉れるのではなからうかといつた、別の意味での期待すらしてゐた。それ故、二度観に行かうとして財布を忘れたり時間が合はなかつたりして観に行けなかつたことに、ひよつとしたところの何某かの大いなる意思の存在を感じもしたところである。が、結論からいふと、全くいい意味で裏切られた。実に面白かつた。

 民俗学を専攻する大学院生・里美(藤澤)は、七歳の時に神隠しに遭つた体験があつた。里美はその後発見されたが、その前後―二ヶ月だつたつけ?―の記憶は喪はれてゐた。加へて、一緒に神隠しに遭つた新吉少年は、未だ発見されてゐなかつた。里美は閉ざされた自らの過去を求めて、当時母親の出産を控へて親戚の下に預けられてゐた、東北の隠れキリシタンの里として知られる渡戸村を訪ねる。渡戸村には“はなれ”と呼ばれるがあつた。はなれの住人は、全員成人しても七歳児相当の遅れた知能しか有しなかつたが、不死を噂されてゐた。はなれは村の者からは忌み嫌はれ、村八分の状態にあつた。里美がはなれに興味を示すと、それまで友好的だつた村の者も、途端に態度を変へた。村役場の人間(菅原)に案内されてゐたところ、里美は村の教会に記憶の断片を見出し、中に入る。そこにはカトリックの神父(清水)と、地球上に人間以外の別途の進化を遂げた知的生命体の存在を主張し、学会を追放された異端の民俗学者・稗田礼二郎(阿部)とが居た。翌日、村とはなれとの間にある、かつて隠れキリシタンの大量処刑が行はれた山で、はなれの住人・善次の、まるでキリストのやうに十字架に磔にされた惨殺死体が発見される。

 禁じられた智恵の実を食べた罪により、楽園を追放されてしまふイブとアダムの他に、生命の実を食べてしまつた、もう一人の造物主が作り給ふた人間・ジュスヘル。ジュスヘルは智恵は持たないが、永遠の命を持つた。不死のジュスヘルの子孫によつて地上が一杯になつてしまふことを懼れた造物主は、彼等に“いんへるの”の呪ひをかける。“いんへるの”に於ける永劫の苦しみを負はされたジュスヘルの子孫達は、“くりんと”によつて“ぱらいそ”へと導かれることを待ち望むのであつた。そして、生命の実の生る生命の木とは、実は日本にあつたのではないか?劇中文献内より“世界開始の科の御伝へ”と称される諸星大二郎によつて再構築され新たに編み出された、全く新しい聖書異伝。もしくは新しい原罪。物語、あるいは謎解きは“世界開始の科の御伝へ”を軸に、時空を超えて七歳の姿のまま発見された新吉や復活を遂げた善次を交へ、目まぐるしく動き出し、やがてスクリーンに、地獄と天国―への召還―とが展開される。
 諸星大二郎の独特な画風を、実写映画化の中で再現することなど、初めから求めたりはしない。地獄、と天国とを描く為に用ゐられたCGも、バジェットの問題にのみ逃げ込むのも如何なものかも知れないが、映像表現としてはお世辞にも高いレベルにあるものではない。が、然し、そこには尻の穴の小さな原作ファンからの誹謗も、口さがない映画ファンからの嘲笑をもものともしない、何とはあつても諸星神話を映像化するんだ、といふ頑強な覚悟が窺へた。そこが何よりも素晴らしいと思ふ。天空に実写で堂々と屹立する巨大な十字の光芒に、私は開き直つたエモーションを感じた。

 ここからは些かならずネタバレである。微妙に焦点はボカしてあるので、敢へて字は伏せずに済ますところである、悪しからず。

 ジュスヘルの子孫達は、“いんへるの”に於いて地獄の業火に焼かれる。不死の彼等の苦しみは、未来永劫に続く。然しラストで彼等は伝説通り、復活を遂げた“くりんと”によつて“ぱらいそ”に導かれて行く。一緒に行かうとする新吉を、行つちや駄目だと里美は止める。だが新吉は、人間の世界への決別を告げ、ジュスヘルの子孫達と共に“ぱらいそ”に旅立つ。七つのガキにどうしてそのやうな心的契機が芽生えるのかは正直リアルタイムで観てゐた時点でも疑問だつたが、ともあれ。ここから、頭から判つてゐた上で、思ひ切りギアを間違つた方向に入れる。何はともあれ、何とはしても新吉は現し世を捨て、“ぱらいそ”に旅立つて行く。今既にある、ありのままのこの世界に於いて、どうにも居心地の悪さを抱へてしまつてゐるやうな連中、どうにもかうにも居場所を見付けられないでゐる者共、改めて申すまでもないが、小生ドロップアウトはその口のトップランナーでもある。だから周回遅れでいいんだよ、といふか、そのレースにはそもそも参加してなくてもいいんだよ。さて措き、さういつた者共にとつて、たとへそれが逃避でしかなくとも全く別の世界への脱出、もしくはこの世界の終末のイメージすらもが、如何様に甘美なエモーションを喚起するのか。といつた至極単純極まりない事実にすら思ひ至らぬ者は、たとへ原作からはかけ離れてゐたとて、映像表現としてよしんば稚拙であれ、映画が詰まらないだとか何だとかいふのは二千年早い。おとなしく皆と列を組んで、何かのドーム公演でも観に行かれてゐれば宜しい。

 等々といひ募つてゐると、全く見るべき所の無いストレートな駄作を、与太者ドロップアウトが殊更に偏狭な見方をして持ち上げてゐるかのやうに思はれるかも知れない。まあ多分にさうであることは、我ながら否定しはしないが。が、然し。この映画には、ひとつだけ極めて有効に機能してゐる飛び道具がある。それは反則バリバリの白木みのるのキャスティングではなく、稗田礼二郎役の阿部寛である。単なる色男としてデビューするも何時の間にやら、性格俳優を取り越して異能とすら称へ得るレベルにまで達した我等が阿部ちやんの過剰なハッタリ演技は、全般的に弾不足感の強烈に否めない映画の中で、スクリーンすらはみ出して拡げられた大風呂敷に、リアルではなくしてもリアリティー、説得力を与へる。次々と繰り広げられるこれまで信じて来たものとは全く別の聖書異伝に、戸惑ひ狼狽へるばかりの神父を演ずる、清水紘治の大仰な芝居振りも又然りである。舞台は昭和四十七年、本当にその頃の女の顔に見える藤澤恵麻の面立ちも捨て難い。裏を返せば、リアルタイムの感覚では必ずしも美人ではない、といふことにもなるのだが。

 稗田礼二郎といへば、その昔既にすつかり太つてしまつてゐたジュリーが演じてゐたのも・・・・・ま、いいか。その話は(;´Д`)


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 「家族ゲーム」(昭和58/製作:につかつ撮影所・NCP・ATG/配給:ATG/監督・脚本:森田芳光/原作:本間洋平/助監督:金子修介/出演:松田優作・伊丹十三・由紀さおり・宮川一朗太・辻田順一・戸川純・土井浩一郎・加藤善博・白川和子・佐々木志郎・阿木燿子・清水健太郎・・・なんて出てたんだ、他)。全くの別企画ではあるが、たまたま三ヶ月前に、「ブラックレイン」を観に行つたのと同じ小屋に観に行つた。

 「家族ゲーム」。今更この期にドロップアウト如きが、わざわざあれこれと言ふことなど最早残されてもゐないであらう。「阿修羅のごとく」(2003)は終に愛想を尽かして観に行かなかつた割には意外と評判が良かつたやうであるが、それ以前の数作では、<39>「刑法第三十九条」(1999)、「黒い家」(同)、「模倣犯」(2002)と単に詰まらないのを通り越して、観客を腹立たしくすらさせる(眠つてしまはなければ)映画ばかり撮つてゐた森田芳光の、言はずと知れた掛け値無しの最高傑作である。あれ、昨年の「海猫」(2004)は?>ええと、知りません
 兎にも角にも鑑賞。何も言ふことなど無い、などと言つてしまつては元も子も無いが、素晴らしい。間違ひ無く素晴らしい。文句無く面白い。国境はどうかは判らないが、時代は完全に超えてゐる。冒頭、優作が船にプカプカ揺られながら巨大な、そこで暮らす者の多さに反比例して呆れるくらゐに非人間的な団地にやつて来る辺りから、何だかもう訳も判らなくなつてしまふくらゐに、胸がワクワクしてワクワクして仕方がない。久し振りに、スクリーンがキラキラと輝いてゐるのが見えた。正直な所、フォーク・ボールのやうな急激な気温の低下に伴ひ、元々不安定極まりないドロップアウトの壊れ心は塞ぎがちであつたりもしたのだが、一発で復活した。ストレートに興奮した。その興奮は今でも全く冷めやらない。明日朝仕事に向かふまでは、このままこの幸福は持続するに違ひない。今デスるか?

 日本映画史上伝説の長回し、沼田家の最後の晩餐シーン。「おつとつと」、とでも言はんばかりにマヨネーズ・ドレッシングを食卓のあちらこちらに零し振り撒く優作。奇跡のやうな名シーンである。「ちよつとあんた、何やつてんだよ!」、父親、沼田孝助役の伊丹十三のツッコミ。今では二人共もうこの世には居ない哀しみなんて何処かに通り過ぎて、心から笑つた。優作は、父親は左の正拳下段突き、母親は首筋への右の手刀。兄貴には頭突き、そして教え子の弟・茂之(宮川)は張り手のブロックの応酬から、一発張らせた上で、今度は右の正拳下段突き。家族全員を仕留める。
 黙つて座つてゐるだけで、直線的な暴力も兎も角、それ以前にそれを超えて、何とも言はれぬ迫力を小屋の空気一杯に充満させる。正に松田優作といふ、稀代の映画俳優の本領が凄まじい勢ひで炸裂してゐる。お腹一杯になつた。軽く放心状態になる程満足した。優作の漂はせる暴力、乃至は迫力を心から堪能した。一言だけ故人に対して苦言を呈しておくと、優作すらの男にあつて、アクション映画を他より一段低く見る、何の根拠も無い怠惰な悪弊から逃れ得なかつたことは、重ね重ね残念なところではある。
 言つても全く詮ない上に、無茶苦茶なことを敢へて言ふと、もしも今でも優作が生きて活躍してゐたならば、たけし如きが観客を煙に巻くやうな映画ばかり撮つて悦に入ることなどなかつたであらう。哀川翔と竹内力とが日本一の男前を競ふやうなこともなかつたであらう。ドロップアウトが今一番惚れてゐるのは小沢仁志アニイであるが、かうして見ると申し訳ないが、矢張り優作とは文字通り役者が違ふ。

 とはいへ、毎年命日が近付くと銭ゲバ未亡人(長男と纏めてもうデスつて呉れんかいな)がムカつく蠢動をみせるのはひとまづさて措いて、優作が逝つてしまつてからもうオリンピックでいふと四回分にもなる。が、今は、少なくとも未だ興奮冷めやらぬ今だけは、不思議とそのことを哀しみ惜しむ気分にはない。優作が舞台俳優であつたならばまだしも、かうしてプリントは今でも残つてゐる。地方に住んでゐても辛抱強くチャンスを待つて、運が良ければかうして全盛期の輝きに今でも触れることが出来る。それはとても素晴らしいことである。前回「ブラックレイン」が掛かつたのは、パラマウント絡みのプロモーションの一環であつたが、今回の企画は、劇場自体を経営する会社の創立何十周年だとかである。今回このやうな機会に恵まれたことに、心からの感謝を表したい。

 ATG映画をスクリーンで観るのは初めてかとも思つたが、よくよく振り返つてみれば以前に神代辰巳の特集で、「青春の蹉跌」を観てゐた。「太陽を盗んだ男」は三回くらゐ観たことがあるので、何時か「青春の殺人者」も小屋で観たい。青春映画御法度のドロップアウトとしては(何となれば、人並の青春といふ奴を素通りして来てしまつてゐるからである)、青春をタイトルに冠する映画といへば、「青春の蹉跌」と「青春の殺人者」の二本しか認めない。裕也の実質的デビュー作(以前にドリフの映画にカメオ出演してゐるのは観た)「不連続殺人事件」も観たいが、まだちやんとプリントは残つてゐるのであらうか。


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  少し調べ物をしてゐたところ、知らぬ間に講談社文芸文庫から、福田恆存の文芸論集が出てゐることが判つた。軽目の自己紹介をさせて頂くと、昨今は小屋で映画を観てばかりで、書店に足を運ぶことも滅多になくなつた身ではあるが、山﨑邦紀のピンクを一本極め撃ちで観て来た帰り、久々に求めに行つた。
 二軒目の店にて発見。「あつたあつた♪」とパラリと開いて見たところ・・・軽い戦慄を伴ふ違和感が。か、仮名遣ひが珍かなに改悪されてある。一発で激昂し、本気で買はずに帰つてしまはうかとも思つたが、初出誌以来初の活字化となる数稿も含め、未読の論考が多数掲載されてあつた。文庫であるのでジャケットのポケットに入れ手軽に―値段は手頃ではないが、何で文庫本が千四百円もするんだ?―持ち運べるのもあり、さんざ迷つた挙句、脳内補正―映画の字幕もさう処理してゐる―しながら読むとして、泣く泣く買つて戻つた。
 最短距離で呪詛を吐くが、潰れてしまへ講談社。担当部署の人間は消えてなくなれ。更に余計な返す刀を思ひ出すと、ちくま文庫の『私の幸福論』(『幸福の手帳』改題)も同様の惨状であつた。恆存が存命であつたならば、絶対に此のやうな暴挙、愚行はなし得まい。全員有罪、デス刑。

 とかいふ次第で、『福田恆存文芸論集』(編:坪内祐三)を読んでゐる。繰り返しになるが、恆存が鬼籍に入つてゐるのをいいことに、仮名遣ひが珍かなに、正確には新かな、「現代かなづかひ」もしくは「表音的仮名遣」に改悪されてある世紀の悪書である。断るまでもなく、悪いのは徹頭徹尾講談社である。脳内で変換しながら読んでゐて、悲しい文章でもないのに、時に泣きたいやうな気持ちになつて来た。
 別にそれが業績の全てでもなければ筆頭に来る、といふ訳でも決してないにせよ、恆存は正字、正仮名の採用を、一貫して訴へてゐた。とても福田恆存のやうな大人物の人間像を、泡沫ピンクス如きが一言二言で手短に掻い摘むことなど出来ないが、その全仕事を通じて流れる一貫した真の意味での批評精神が、略字と珍かなの持つ虚偽、欺瞞、迷妄、そして喪失とに対して激しく反応し、その結果争ひ事に目のない巷間に好んで採り上げられもしたのであらう。元々は正字、正仮名であつたのだから、正確には略字、新かなといふ時流に対し徹底して抗つてゐた、といつた方が妥当なのかも知れない。ここで、先に謝つておく。私は甚だ申し訳ないが、正字に関しては妥協してゐる。いい大人になつてから、漢字を覚え直すのは流石に厳しい。指で書くのも兎も角、文字を打つにも非常に骨が折れる。死後は謹んで地獄に堕ちるので、福田先生にはお許しを乞ひたい。
 正字、正仮名に関しては、全てが恆存の二番煎じになつてしまふゆゑここでは採り上げない。といふか当サイト如きが出る段ではない。必殺の名著、『私の國語教室』を須くお読み頂きたい。私は中公文庫版、更にはそれ以前に刊行されてゐた新潮版を所有してゐるので、現在刊行されてゐる文春版は手に取つたこともない。まさか改悪されてはをるまいな、コーランを開いたらアーメンと書いてあるやうなものである。が、正直、今の世の中といふ奴は全く信用出来ない。
 最後に一言だけいつておく。言葉も生き物である、時代と共に姿を変へるのも当然である、さういふ利いた風を口にする人もあるやも知れない。何処かで拾つて来たやうな文句で思考停止も甚だしい紋切型を御開陳されるくらゐならば、首から上を使ひ物を考へる習慣をおつけになつては如何か。言葉も生き物である。その通りである。そして、その生き物である言葉の生理に、より正確にいふならば語法と語義とに即してゐないのが、残念ながら我々が学校教育で習つて来た仮名遣ひ―の名に値しない代物―なのである。

 かつて国語学者橋本進吉博士はかう述べた、“假名遣は假名で國語を書く時の正しい書き方としての社會的のきまりである”とするならば、“表音的假名遣は假名遣にあらず”。


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 トルコ風呂とカウンセリング、そしてピンク映画についての本質論的考察である。ええと、切りがないゆゑツッコミは一切受け付けない。

 人並みの健康な性欲を持ち合はせつつも、具体的日常的な恋愛対象の欠如につき、要は女に不自由してトルコに行く、トルコに通ふ男が居る。金で束の間の恋愛を、否、金で恋愛感情を伴はぬ女の肉を買ふ男が居る。一方、あれやこれや思ひ悩み、くさくさ気を患ひ、カウンセリングを受けに行く者も居る、カウンセリングに通ふ者も居る。
 トルコ通ひと同列に論じられては心外だと、被カウンセリング側の心情を害してしまふやも知れないが、その程度の立論の中に於ける無理、もしくは瑕疵はこの先の暴論、更には詭弁の果ての最終的に底の抜けた着地点に比べれば、まるで瑣末なものである。開き直るにもほどがある。

 女に不自由してトルコに通ふ男が居る。まゝならない、不自由な心を抱へてカウンセリングに通ふ者も居る。どちらも己が内の不自由、に対処する為にトルコ、もしくはカウンセリングを利用する。
 ATフィールド内側の間合ひで話を進めるが、女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、女に不自由することのない男や、心中に外部装置による療法を必要とするまでの病巣を特には抱へない者と比べた場合、一応は明らかに劣位に属する。もう一度断つておくが、私は今、最短距離の更にこちら側で話を進めてゐる。要は、女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、世界に一本の線を引いて選別するならば、ダメ人間である。
 話は変りはしないが、一旦逸れる。田恆存が残した中でも必殺中必殺の名評論に、「一匹と九十九匹と‐ひとつの反時代的考察」(昭和二十二年二月)がある。文学と政治について、文学と政治、そのそれぞれの果たすべき役割について論じた評論である。
 「なんじらのうちたれか、百匹の羊を持たんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねらんや」、と新約聖書ルカ伝の一節を引用した後、田はかう述べる。
 「文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか」。
 行きつ逸れた一匹のダメ羊のことを、残りのちやんと群れの中でお利口にしてゐる九十九人のことを打ち捨ててでも何とかして、どうにかして救はうとするのが文学である。思想の責務である、宗教の仕事である。絶対に田は首を縦に振らないくらゐにまで外延を拡大すると、更にロックである、映画である。
 対して、ひとまづはちやんと群れの中でお利口にしてゐる九十九人の面倒をキチンと見ることが、政治の役割である。より最終的には、百人中最低五十一人に飯を食はせ、服を着せ、雨風をしのげる住居に住まはせることが、政治の仕事である。行きつ逸れた一匹のダメ羊のことなどは初めから無視して済ますことも、この際政治には許される。
 即ち田は同時に、文学が残りの九十九人の面倒まで見ようとすることも、一方政治が行きつ逸れた一匹のダメ羊をも救はうとすることも、越権であり僭越であり、侵害であると断ずる。
 話を戻す。女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、共にダメ人間である。そして、トルコはカウンセリングは、さうしたダメ人間の為に世界が、より判り易くいふと社会が用意した装置である。
 世界(もしくは社会)を百人の集団に喩へる。女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、九十九人の何だカンだとはいひながらも一応はキチンとしてゐる群れの中から、零れ落ちて行きがちなダメ人間である。明後日の方向に、やゝもすると行きつ逸れてしまひさうになるダメ人間である。トルコもカウンセリングも、世界が彼等の、彼等と彼女等の為にあつらへた装置である。彼等が、彼等と彼女等が(群れから)零れ落ちてしまふのを、行きつ逸れてしまふのを防止する為の装置である。女の不自由と、心の不自由とをよしんば一時的ではあるにせよ解消し、九十九人の群れの中にとりあへず居させておく為に、トルコもカウンセリングもあるものである。
 即ちトルコに通ふ男も、カウンセリングに通ふ者も、何だカンだとはいひながらも未だ一応は(九十九人の)群れの中に居るのである。世界の、社会の中に踏み止まつてゐるのである。
 
 対して、女に不自由しつつも、不自由な心を抱へつつも、トルコに行きもしない男が居る、カウンセリングを受けもしない者が居る。より正確にいふ。さういつた者は、実はトルコに行けもしない男である、カウンセリングを受けられもしない者である。己が内の不自由に苦しみながらも、本気で零れ落ちると、本域で行きつ逸れた場合、世界内の、社会内の成員をケアする為の装置を利用することすら、最早叶はなくなつてしまふのである。
 女に不自由する男も不自由な心を抱へる者も、トルコに通ふ男もカウンセリングに通ふ者も、共にダメ人間である、弱き者である。対してトルコに行きもしない男は、カウンセリングを受けもしない者は、トルコに行かないからといつて、カウンセリングを受けないからといつて、弱くないのではない。トルコに行けもしないのである、カウンセリングを受けられもしないのである。即ち、更に弱いのである。そりやあもう、どうしやうもないくらゐに弱いのである。病院にまで自力で辿り着けないくらゐの重病人、と喩へたならば少しは判つて頂けようか。
 オチは薄々見えつつあるが、小生ドロップアウトはトルコに行きもしない、カウンセリングを受けもしない。生きてゐるだけで死にさうに苦しみつつも、トルコに行けもしない。カウンセリングを受けられもしない。さうして私は独り、どうしてゐやがるのかといふと、ピンク映画を観に行つてゐる。
 ピンクも装置のひとつではないか、さういふ人もあるやも知れない。どうだか。実も蓋もない物言ひを平然としてしまふと、あんなもの、この期に真面目に観てゐる方がどうかしてゐる。いい映画も、美しい映画もその玉石混合の中には含まれてゐないではない。も、玉石混合はあくまで玉石混合である。玉よりはクソの役にも立たない石つころの方が圧倒的に、決定的に断然多いに決まつてゐる。それは何事につけてもさうである、とするのがいはゆるスタージョン・ローなのであらう。が然し、ピンク映画ほど玉石混合の玉石混合ぶりが甚だしいジャンルといふのも、他には滅多にないやうに私には見受けられる。平気で導入部の最も重要なシークエンスがバッサリと抜け落ちてしまつたやうな、破天荒なプリントで堂々と上映してゐるやうなジャンルである。繰り返すがあんなもの、真面目に観てゐる方がどうかしてゐる。モンドやキャンプの領域で笑ひ混じりに語られる、あれやこれやのクズ映画やゴミ映画、B級C級Z級映画の類は、しばしば児戯に等しく私の目には映る、小林悟を通つてから出直して来い。私はどうかしてゐるので、ピンク映画を観てゐるのである、ピンク映画を観てゐるだけである。

 トルコに通ふ男が居る。カウンセリングに通ふ者が居る。トルコに通はずに、カウセリングにも通はずに、要はトルコにもカウンセリングにも通へずに、ピンク映画館に通つてゐるドロップアウトが居る。トルコ通ひもカウンセリング通ひも、まだまだ大丈夫、全然大丈夫、人として。それが結論である。


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