電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
▼氷山の一角
静岡県清水で母がやっていた飲み屋の常連にべんちゃんと呼ばれる若者がおり、当時は社会全体の羽振りが良かったので、学生として帰省するたびに飲みに連れ出されては可愛がって貰った。べんちゃんは「便」ではなく「勉」を音読みしてべんちゃんと仲間に呼ばれていたのだけれど、商売が水道屋だと知ってからはべんちゃんと呼ぶ際に水道弁の「弁」を思い浮かべていた。
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近所の坂道にあった貼り紙。
ほんの一部分が海面上に現われ、大部分海中に隠れていることから「氷山の一角」という言葉があるが、道路でよく見かける水道弁の蓋を地中からそっくり掘りだしたものが近所にある水道屋の資材置き場に置かれていた。水道工事の際に作業員が開栓棒を突っ込んで操作しているのを見かけ、おそらく地中に埋設された水道管までの縦穴があって、その穴に蓋をつけたものにすぎないと思っていたのだけれど、意外に大きなものが蓋と一体化した構造物として埋設されていることを知ってびっくりした。
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近所の水道屋資材置き場にて。
母親が他界して無人になった実家を片付けていたら、ガスの点検に来た人が
「この家どうする?」
と聞くので
「片づけが済んだら解体して更地にします」
と答えたら
「うちもオヤジが数年前に他界したんですよ。解体が決まったらガスの元栓を停めるから電話してくださいね」
と言う。妙に親しげな物言いだったのでおかしいなと思い、帰ったあと貰った名刺をぼんやり見つめていたら30年以上前のことを思い出した。
水道屋のべんちゃんにはひとし君という弟がいて、家を出て独立し、たしかガス関係の仕事をしていると言っていた。そうかそうか、母と僕のことを覚えていてくれて心配してくれたのか、だったらそう言ってくれればちゃんと挨拶したのに、と残念な思いをした。数年後、実家の解体が決まったので電話したら本人が留守で、奥さんのような方が電話に出られた。思えばその女性の応対も妙に親切で、彼女も母のことを知っていたのかしらなどと思ったけれど、そんなすれ違いも少しずつ過去の思い出として記憶の海面下に遠ざかりつつある。
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でも不思議なことにたまにオヤジの仕事仲間だった方とは顔を合わせることが多いです。
でも夢の一つも見ません。母親も同じです
やっぱり好き勝手してるのでしょうね
両親共に最後まで看て送り出してるから、もう自由に好きなところへ行きた~いというのが本音なのかなとも思います。
何はともあれあの世で夫婦喧嘩だけは止めて欲しいと思う娘なのだった(もう思い出しても涙も出ませんから)
今年は時間を作ってゆっくりと、ママさんのお墓参りに行きたいものです
母はきっとあーちゃんに
「どうせいつか会えるんだから今のうちにせいせい好きなところへ行って好きなように遊んどきな」
と笑顔で言うと思います。
あの世に行ってまで夫婦げんかはやめて欲しいという子どもの願いにも一票!