2016/01/28 記
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母が、座敷の茣蓙の淵に足の指の小指を引っ掛けて指を痛めた。幸い転倒しなかったものの、転倒して大腿骨骨折などを起こしたらベッド生活と思うと、背筋がぞっとする。痛がるが今日は木曜日で、開業医の大半は休みだ。幸い整形外科で木曜診療のところを知っていたので、近くてもタクシーを使って医師に診てもらった。レントゲンを撮ったが異常なし。場所がいけないので湿布もクリーム。様子見となった。寝込まれたら神戸に行けなくなると、瞬間思っていた。情けない。
橋本から路線バス。今日は、いつも駅前の店で対面指導をしている++君の御宅にお邪魔した。++君のご両親に年数回面談をしている。普段は塾長が会っているが、陽気な方なので気おされてしまう。彼は救われることも多いのではと思う。
塾長夫婦は教室にいない日なので、そのまま橋本から茅ヶ崎に戻った。神戸に行く前に、書籍「大震災の生存学」の中の著作者の知人が藤沢にいるので、仲介をお願いしていたので、その方と藤沢駅で会う予定になってたが、母の怪我で急遽日送りさせてもらった。
医者と言う人種はどうしてこうも大げさに包帯を巻くのだろう。母は食卓の一角に場を決めて、これ幸いとひとを指図する根拠に包帯を見せる。家に戻って家事に専念となった。
今、金曜災害ミニ・カフェ2月分のポスターを仕上げている。
神戸から帰ってきてから2回行う。
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(続きより)
私は某大の学生となったが、私のアルバイト先が、某党の機関紙の雑用係だった。アマチュアイズムのようなものが流れていて、取材の腰ぎんちゃくも可能で、文化面が主。あとは労組まわりがあった。これは取材というより、拡販が目的だったが、他党のように、それが党員確保や党の資金源になるというきちんとした目的を持ったものというより、組織カンパが出版資金源になっていた。このラフさがあったから、私のような偏屈者が生き残って行けたのだ。
しかし私の関心は、ひとの交流と成長、いのちの保護にあり、いわゆる政治諸課題は他人の衣をきているかのようだった。単組配達もあったので、私は学生運動というより労働運動に目が向いた。しかし実際は救援連絡センターの活動と、地域ではフリースクール的塾作りを始めていた。つまりいわゆる党の動員のような形ではなく、支持協力関係というか、ファンクラブ的結束をする仲間を持たなかった。中国派の近くにいたが、語録を振り回すセンスにはついていけなかったし、代議士を祭り上げる気にもならなかった。しかし政治の世界の地勢図と日常活動の様子は勉強させてもらった。
あるデモの救対で歩道を歩いていたとき、私は私の大学生から写真を撮られていたらしく、帰り道私は学生セクトに襲われ、かろうじて逃げたが、以降、大学キャンパスで突然囲まれて襲われたことがあって、軽症だが救急車で運ばれたことがきっかけで、休学。ときどきアルバイトに出る程度になった。
しかし、アパートに彼らがうろつきはじめて、私はアルバイトをやめた。別に私は、恋人とともに、雑誌「ひと」の教育活動を続け、理系教科研究団体の会員となっていた。
しかし今もなお、お付き合いを掌を返したように別人となって、むきになるあの結束はいったいなんだろうと思う。父が某新興宗教団体に入ったときも、偶像崇拝といって、飾ってあったスナップ写真を隠し、観光番組の神社仏閣が映ったときに目をそらすなど、忠誠を誓う集団を私は嫌悪する。発想の自由さは、現実の諸矛盾の中から育つものだが、自主判断は捨てない。
(つづく)
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夜間傾聴:なし
(校正1回目済み)