湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

2016/01/03 定年という波紋/「貧困」と「学び」について私見(4)

2016-01-04 05:51:09 | 地震津波災害ボランティア

2016/01/03 記
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2日の来客で外食をしたが、今年は例年と話題が違っていた。

私が仕事のひとつを定年退職した今、今後のことが問題になった。先方は我が家の生業関係者で、東京の某所の日常業務を担当していた。高齢化したので、暇が出来たはずの私に薄利なその仕事を移したいというものだった。

しかしその仕事は、私が東京に転居しなければ実際維持できないものであり、そうなれば母を東京の地域ケアに移し、ともに転居することになるのだった。私にとって茅ヶ崎は、20年前にUターンしてきた「地元」だった。東京を中心に仕事したのは数年間のこと。東京に転居しても、仕事の方はともかく、社会・教育活動は初めからの作り直しになってしまう。湘南であれば、いかに空転孤立していても、周囲の様子は想像がついている。この差は大きい。

先方の話は、新規事業を息子がはじめたので手伝いたいというもの。倒産が続くリスキーな職種であることを彼は知らなかった。私は申し出を引き受けない旨を伝えたが、ひやりとした。湘南は既存集団の排他的な住み分けが強く、30年前に見切りをつけて東京の私教育活動に飛び込んだという前歴が私にはあった。それからずっと既存集団の隙間に生まれた他者の社会活動は、ことごとく消えていた。住み分けの壁があるのだ。

私がUターンした時点では、私はフリースクールのような居場所を拠点にした活動は財力不足ゆえ諦め、発達障がいを意識した不登校・引きこもり青少年の個別訪問と他教室経営の教育カウンセラーを軸にした活動をつづけることにした。そして2000年末~2002年7月の交通事故と長期入院、私の社会・教育活動はすべて断ち切られて終わった。

退院後、退院祝いとのことで東京の塾の共同経営者が仕事先として
相模大野校を紹介してくれたのだった。驚いた。そこはもともと初期の創業段階で講師と株主として関わっていたからだ。そんな偶然から契約講師職として即採用された。契約講師は、毎年「再契約適性テスト」があり、それを今年は規約の65歳で講師の年齢上限にあたり、退職した。私の地域活動が潤滑に動いているならまだしも、私の教育活動も大きな転換点となった。

私は東京に戻らず、キリスト教風にいえば、この地の地の塩になると先方に伝えた。先方の提案は、しばし持ち越しの話となったが、私の方針は変わらない。しかし、ゾンビ爺ぃという「生き埋め感覚」を味わうのは、好みではない。

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(続きより)

私は高校生の頃、家庭では3世代同居を余儀なくされた両親の矛盾の中に立たされていた。父は転勤の多い仕事だったこともあるが、家事を一切やらない家父長を演じる困った習性を持っていた。親の介護を妻の役割とし、私は子どもの頃から、しつけという名の父のはけ口になっていた。直接手を上げず、精神的侮辱に曝し、気分でほおりだした。しかし小学生のときから、私の敵は病魔であり、生死を彷徨うほどの強いアレルギー症状としての喘息と呼吸器疾患(小児結核)であることから、それから身をかわすゆとりがなかった。遺伝的要素の強い病気だけに、将来私が父となり、この苦しみを子に与えることは決して行うまいと覚悟して生きてきた。身の証に、父のようにはなるまいと誓い、結果、私は曾祖母を始め4人の介護を担う母の補助を行うことを受け止めた。私は家族を営まず、他者のために生きるという誓いだった。しかし本当に、私の生の活かし方は介護を続けることだけなのかと考えていた。

このような悩みは同世代とは異なるものだ。学校では、モラトリアムの期間としての学生と進学授業を強いていた。各科関係なくそれぞれ宿題と細かなテスト、補習とノート指導があった。全員予備校通いか家庭教師の個別学習をしており、この体制依存のまま努力していけば、大学進学に進んで行けた。

しかし、この時期私は社会の情勢が大きな転換点にあることに気がついていた。あてはまるとしている社会が変わる、その割期が70年安保である。当時、湘南にもべ平連が生まれ、私は交流しながら、将来を時代の中に見つけようとしてしていた。70年安保とは、危険な政治の国際対立の話だけではなかった。それを象徴として、時代が大きく転換して行く、つりの浮きのような存在でもあった。介護と社会活動への参加という条件が加われば、当然、進学指導下の学校のノルマと対立し、そのことが授業の内容(質)と社会生活や他科との繋がり調整を削ぎ落とした授業への嫌悪感へとつながった。それを払拭するためにと進められた体育系部活に入部し汗をかき、喘息を再発させ、トレーニングで怪我をして入院し、喘息で1年留年した。担任やクラス会への疑問の提起は「君はどう考える」という教育の基本の抜けた授業と、ストップウォッチをもって追いかける授業への疑惑、大きな転換点に立つ時代のなかに自分の選択を考える場がないことへの不信を語ってきたが、経過を知らない後輩には、問いは全く通じなかった。

文化祭に私は70年安保を考えるブースを立ち上げようとし、教員と対立、高校をバリケード封鎖し、私は退学となった。

(続く)


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夜間傾聴:ひとり

(校正2回目済み)

コメント
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