小5のときから不登校を続けてきたO男は、大検から某美大に入り、6年かけてCGを学び、私が勧めたヤングジョブスポットよこはまを経由しなかったけれど、昨日外資系子会社に契約社員として採用された。あるプロジェクトの期間中だけではあるが、やっと道が開いた。
彼は鬱との付き合いが長かっただけに、両手をあげて万歳とは、まだいえないけれど、彼の某師匠が「力があるから大丈夫」と言ってくれているので、当人も自信たっぷり。よかったね、O男君、おめでとう。(これ以上書くと怒られそうなので、この辺で。)
年末はいろいろな子の消息が入ってくる。一時ぷっつりと消えていた情報が十年近くたって、その子の友人を介して入ってきている。彼のように関西で教員をしていたり、別の子では、東京の子だったのがなんと我が家から徒歩15分ほどのところに移り住んでいたりと、驚くことも様々なのだが、一番驚いたのは、今40の大台に乗ろうとしている初期のころの教え子が、「祖母」になっていたことだ。彼女の母親とは年賀状交換程度のお付き合いが続いていたが、教え子が「祖母」というのは、さすがに平静のまま聞けなかった。
しかし、このスパンで当人を眺めると、時が解決してくれるその力を目の当たりにする思いがある。
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話の断片ばかりで申し訳ない。話は変わる。
ある女性の熟練市民活動家と「ケア・パートナー」つまり、「ひとは他者に働きかけるときに情熱的になる」ということを話した。「自分のため」「糊口を継ぐ」ということでは、なかなか立ち上がることができない方も、自分の関与のスタイルが確立していると、そこから次の「就労の意欲」に結びついたりという例を出して、私は現在の就労支援の発想のおかしさについて、話を持ち出した。これに対し「他者のため」というのはおかしい、やはり「自分のために働くのだ」とその方が反発されたのだった。
これは、すぐに話がずれていることに気が付いた。私は「他者と共鳴していく存在が人間存在なのだ」と言っているのであって、「滅私奉公」「自己否定」を奨励しているわけではないのだ。女性の存在がつねに「他者のために」置かれていることは私も自覚している。ただその「他者のため」というのは、「自己犠牲」を強いる論理のそれであって、私の言いたいのは、人は社会歴史的な諸関係から断ち切られた脳内現象の活発化させ、それを束ねるようにして人の社会関係ができているわけではないのだということだ。「自己犠牲」を元にせよという話では全くない。働きかけ働きかけられる相手があってこそ、ひとは活躍できるのだ。この一見当たり前のことが、就労支援の場には成り立っていない。指導者は企業に当てはまる個人の決意のボルテージを、手練手管を使って上げている。目隠しをしたまま、「大丈夫だから、さあ、跳べ」と言っている。そのおかしさを言っているのだ。
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昨日は平塚の西図書館まで出かけていた。品川裕香さんの「心からのごめんなさい」や、あと事前チェックした数冊を借りにいったのだった。地元の茅ケ崎市立図書館は本が古い。予算がないのだろうが読みたい本を注文しても、入るのは早くて数カ月、遅くて半年もかかっている。結局隣接の藤沢市立図書館や平塚市立図書館のご厄介になる。
P君の病院を覗いたあと、講演会講師の依頼で近くの事務所に某氏を訪ね、その足で平塚に出てきたのだった。移動時間が長かったので、テキスト入力用軽量通信端末マシンが欲しかった。ZERO3に外付けキーボードがついたら、さっそく購入していただろう。漢字変換効率が高ければ、普段の通信以外の機能は必要がない。携帯電話では変換法や字数制限などの限界が大きいからメモ程度にしか使えないが、2kg、3kgするマシンを持ち歩く気にはなれない。B5マシンがあるが、多機能すぎて値段も高いから、もっと単機能、軽快な通信端末が欲しいのだ。
講師の依頼は、「私達の活動の資料を改めて読んでから」ということになったが、いわゆる引きこもり青年の就労というより、遅滞の青年たちの就労支援の立場の方なのだ。一般就労の側からではなく福祉的就労の側からでは、見える世界が全く違ってしまう。その狭間の活動なので、理解には時間がかかるのだ。
西図書館では自閉症の青年がビデオの周囲を走り回っていた。私と両手の握手をして、彼は再びうなりながら周辺を走っていた。少しして母親らしい方が現れたので、少し世間話をしながら、仕事のことを聞いてみた。どうも大神あたりの町工場の事務所で軽作業をいただいているようだが、彼は日によって調子が極端に違うけれど、最後までやりきるから担当の方にかわいがられているのだそうだ。調子がわるいとき、図書館でビデオを観て帰ると元気になるのだそうだ。
彼が突然やってきて、再び私の両手をとって引っ張るので、もしやクレーンかと思っていたら、窓際で両手の握手。彼と親御さん(?)に挨拶をして帰ってきた。巨体の彼がどんな仕事をしているのだろうかと想像するのは、なかなか楽しいことだった。協業は夢と切り捨てるのではなく、可能性を具体的に考えてみたい。
もし「わーく」の解説のCDを図書館に置いてもらえたらなと思いつつ、バスの中で、うっかりうたた寝。冬期講習の分担表に顔を突っ込んでいた。しょうもない話。
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17日に茅ケ崎の勤労市民会館で、引きこもり関係の集まりをもつ。残念だが当日私は、IT講習に挑む障害のある方を指導する支援者を育てる講習に出ている。内容は、掲示板の方に、丸山さんが日程を書き込んでくれるだろうから、それをご覧ください。
品川さんとは集団の考え方がちょっと違うなと思いつつ、品川裕香さんの著書を当たっている。今日入手した書を紹介しておきます。
●「心からのごめんなさいへ
~一人ひとりの個性に合わせた教育を導入した少年院の挑戦~」
品川裕香・著 ISBN:4-8058-2593-6 July.'05
http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%83%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E3%81%94%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%B8%E2%80%95%E4%BA%BA%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%80%8B%E6%80%A7%E3%81%AB%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%9F%E6%95%99%E8%82%B2%E3%82%92%E5%B0%8E%E5%85%A5%E3%81%97%E3%81%9F%E5%B0%91%E5%B9%B4%E9%99%A2%E3%81%AE%E6%8C%91%E6%88%A6-%E5%93%81%E5%B7%9D-%E8%A3%95%E9%A6%99/dp/4805825936/sr=1-2/qid=1165955895/ref=sr_1_2/249-4066316-6579546?ie=UTF8&s=books
----- 鎌倉中央・厚木中央・綾瀬本館・平塚西・横浜市立栄 の各館に有り。
以上
彼は鬱との付き合いが長かっただけに、両手をあげて万歳とは、まだいえないけれど、彼の某師匠が「力があるから大丈夫」と言ってくれているので、当人も自信たっぷり。よかったね、O男君、おめでとう。(これ以上書くと怒られそうなので、この辺で。)
年末はいろいろな子の消息が入ってくる。一時ぷっつりと消えていた情報が十年近くたって、その子の友人を介して入ってきている。彼のように関西で教員をしていたり、別の子では、東京の子だったのがなんと我が家から徒歩15分ほどのところに移り住んでいたりと、驚くことも様々なのだが、一番驚いたのは、今40の大台に乗ろうとしている初期のころの教え子が、「祖母」になっていたことだ。彼女の母親とは年賀状交換程度のお付き合いが続いていたが、教え子が「祖母」というのは、さすがに平静のまま聞けなかった。
しかし、このスパンで当人を眺めると、時が解決してくれるその力を目の当たりにする思いがある。
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話の断片ばかりで申し訳ない。話は変わる。
ある女性の熟練市民活動家と「ケア・パートナー」つまり、「ひとは他者に働きかけるときに情熱的になる」ということを話した。「自分のため」「糊口を継ぐ」ということでは、なかなか立ち上がることができない方も、自分の関与のスタイルが確立していると、そこから次の「就労の意欲」に結びついたりという例を出して、私は現在の就労支援の発想のおかしさについて、話を持ち出した。これに対し「他者のため」というのはおかしい、やはり「自分のために働くのだ」とその方が反発されたのだった。
これは、すぐに話がずれていることに気が付いた。私は「他者と共鳴していく存在が人間存在なのだ」と言っているのであって、「滅私奉公」「自己否定」を奨励しているわけではないのだ。女性の存在がつねに「他者のために」置かれていることは私も自覚している。ただその「他者のため」というのは、「自己犠牲」を強いる論理のそれであって、私の言いたいのは、人は社会歴史的な諸関係から断ち切られた脳内現象の活発化させ、それを束ねるようにして人の社会関係ができているわけではないのだということだ。「自己犠牲」を元にせよという話では全くない。働きかけ働きかけられる相手があってこそ、ひとは活躍できるのだ。この一見当たり前のことが、就労支援の場には成り立っていない。指導者は企業に当てはまる個人の決意のボルテージを、手練手管を使って上げている。目隠しをしたまま、「大丈夫だから、さあ、跳べ」と言っている。そのおかしさを言っているのだ。
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昨日は平塚の西図書館まで出かけていた。品川裕香さんの「心からのごめんなさい」や、あと事前チェックした数冊を借りにいったのだった。地元の茅ケ崎市立図書館は本が古い。予算がないのだろうが読みたい本を注文しても、入るのは早くて数カ月、遅くて半年もかかっている。結局隣接の藤沢市立図書館や平塚市立図書館のご厄介になる。
P君の病院を覗いたあと、講演会講師の依頼で近くの事務所に某氏を訪ね、その足で平塚に出てきたのだった。移動時間が長かったので、テキスト入力用軽量通信端末マシンが欲しかった。ZERO3に外付けキーボードがついたら、さっそく購入していただろう。漢字変換効率が高ければ、普段の通信以外の機能は必要がない。携帯電話では変換法や字数制限などの限界が大きいからメモ程度にしか使えないが、2kg、3kgするマシンを持ち歩く気にはなれない。B5マシンがあるが、多機能すぎて値段も高いから、もっと単機能、軽快な通信端末が欲しいのだ。
講師の依頼は、「私達の活動の資料を改めて読んでから」ということになったが、いわゆる引きこもり青年の就労というより、遅滞の青年たちの就労支援の立場の方なのだ。一般就労の側からではなく福祉的就労の側からでは、見える世界が全く違ってしまう。その狭間の活動なので、理解には時間がかかるのだ。
西図書館では自閉症の青年がビデオの周囲を走り回っていた。私と両手の握手をして、彼は再びうなりながら周辺を走っていた。少しして母親らしい方が現れたので、少し世間話をしながら、仕事のことを聞いてみた。どうも大神あたりの町工場の事務所で軽作業をいただいているようだが、彼は日によって調子が極端に違うけれど、最後までやりきるから担当の方にかわいがられているのだそうだ。調子がわるいとき、図書館でビデオを観て帰ると元気になるのだそうだ。
彼が突然やってきて、再び私の両手をとって引っ張るので、もしやクレーンかと思っていたら、窓際で両手の握手。彼と親御さん(?)に挨拶をして帰ってきた。巨体の彼がどんな仕事をしているのだろうかと想像するのは、なかなか楽しいことだった。協業は夢と切り捨てるのではなく、可能性を具体的に考えてみたい。
もし「わーく」の解説のCDを図書館に置いてもらえたらなと思いつつ、バスの中で、うっかりうたた寝。冬期講習の分担表に顔を突っ込んでいた。しょうもない話。
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17日に茅ケ崎の勤労市民会館で、引きこもり関係の集まりをもつ。残念だが当日私は、IT講習に挑む障害のある方を指導する支援者を育てる講習に出ている。内容は、掲示板の方に、丸山さんが日程を書き込んでくれるだろうから、それをご覧ください。
品川さんとは集団の考え方がちょっと違うなと思いつつ、品川裕香さんの著書を当たっている。今日入手した書を紹介しておきます。
●「心からのごめんなさいへ
~一人ひとりの個性に合わせた教育を導入した少年院の挑戦~」
品川裕香・著 ISBN:4-8058-2593-6 July.'05
http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%83%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E3%81%94%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%B8%E2%80%95%E4%BA%BA%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%80%8B%E6%80%A7%E3%81%AB%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%9F%E6%95%99%E8%82%B2%E3%82%92%E5%B0%8E%E5%85%A5%E3%81%97%E3%81%9F%E5%B0%91%E5%B9%B4%E9%99%A2%E3%81%AE%E6%8C%91%E6%88%A6-%E5%93%81%E5%B7%9D-%E8%A3%95%E9%A6%99/dp/4805825936/sr=1-2/qid=1165955895/ref=sr_1_2/249-4066316-6579546?ie=UTF8&s=books
----- 鎌倉中央・厚木中央・綾瀬本館・平塚西・横浜市立栄 の各館に有り。
以上