湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

12/3「シンポ:どう変わったの?『自立支援法』完全施行その後」に参加しつつ

2006-12-04 06:08:58 | 引きこもり
昨日は「障害者自立支援法を考える連続シンポジウム~茅ケ崎の明日のフクシをつくり出す~第6回」「どう変わったの?『自立支援法』完全施行その後」があった。90数名の会となった。

茅ケ崎市の障害福祉課からS・Aのおふたりさんの説明。拍手だったのは、「湘南にじ」のOさんの感想。なぜ市の職員が先に説明をして、当事者の話があとになるのかというくだり。配布資料を渡されて私が思ったことをずばり言っていた。この集まりは市の政策説明会ではないはずだ。ダイジェスト版とはいえ、自立支援法施行実務の解説資料がごろりと配布資料に出ていたからだった。問題は法が完全実施されることで、当事者と家族・支援者・事業所が、どのような状態になってきているかということだ。主催者が当事者団体であるにもかかわらず、市の説明会代行になってしまうのは、おかしい。

続いてケアホーム下宿屋のMさんから、Oさんの発言に多少煽られつつ施設の側の現状が語られた。訪問事業との収益格差がこの法律の性格を物語っているということ。サービスにひとを当てはめていく発想のおかしさを事例をあげつつ難点を指摘されていた。Mさんは、就労支援連続講演会にはかならず出て欲しい人物だ。障碍領域の論点がきっちり整理されてすべきことが浮かび上がってくるからだ。

しかし、コメンターから、こうばっさりやられていても、市のA・S両氏は顔色も変わらない。「慣れているな」と、これもまた野次馬的な視線とお叱りを受けそうだが唐突に思いつつ、そのAさんが私の提唱している構想の担当者だという現実にため息もでたのだ。強固な常識は新たな試みを認識できない。私の構想は常識の隙間をぬって、現状の打開の導火線を作っているようなものだからだ。

しかし、この場にいる私は何者なのかとも思う。自閉症スペクトラムや外傷性遅滞・ダウン症の子たちと私は私教育という立場からつきあってきた。不登校・引きこもりの子たちには生活支援の内容に拡張して関わってきたし、家族の中の生死に至る綱渡り崩壊の危機に、プロの顰蹙の眼差しの中、昼夜を問わず介入をし、危機を回避させてきた。だが自分の交通事故入院を境に、素手の状態で、昔フリースクールをやってきた湘南の古巣に戻ってきた。それ以降、私は自分の命を取り留めた代わりに根を失った。中間支援者となったのは、今なしうることを追った結果だ。もとの塾のつてから、紹介された学習困難な子に通信教育を試みたり、一番不安定な深夜時間帯の引きこもり青少年の孤独な語りの傾聴をしたりしているが、私の年齢からすれば「緊急出動」は、体力的にもう長くは続けられないだろう。私が抱えている重篤な困難を抱えた子たちへの支援を、代替させる新たな企画を直結させることは難しいが、回復期(状態は波動があるが)の青少年に働きかける自己脱皮のプログラムが動き出せば、そして彼らの活動があちこちで始まってくれば、重篤な子の状況も影響を受けて変化するだろう。引きこもり青年に見通しがでてくるから、そして社会的認知が変わってくるからだ。だがこれを実現する人の集まりが私にはない。

従来の引きこもり領域の活動は、癒しの発想から抜け出ていない。かたや、経済自立とがんばり奨励の、先祖がえりの愚かしい試みが続いている。不登校・引きこもりの子たちの中に高い確率で重なっている「軽度発達障害の子たちの公的支援」ということを実現目標の媒介に、発達障害児者の支援に広がる地域活動を作りたいと思い、市との協働事業の政策提案型の構想をたちあげた。しかしその構想は、行政の古い委託体質のまま、屋根だけの構想になり私は風化と闘っている。

翔の会S.S.さんとの話の結果、知的障碍を持つ青年とのパイプを断つことにしたから、活動は本来の地元の引きこもり青年を相手に、何らかの方法を模索しつつ、青年を足で集めていかなくてはならなくなっている。来年4月の市民提案型の協働事業構想提案の風船が割れれば、引きこもり青年を結集させる私の中間支援活動は、実質断たれる。残りは重篤な子たちの心身のガードだ。これとて太いつながりの中でやっているわけではない。共産党系の人は私が元過激派であることに一線を引く。その関係者の影響が根強い引きこもり支援活動の領域は防壁の向うにある。彼らの考えの教条的硬さは、引きこもり青年の状況を防戦しはすれ、状況の改善にはつなげられないだろう。私が組んできた人たちは、その政治潮流の中にあり、かつ心の柔軟さを失わなかったひとたちだ。そういうひととはこれからも私は連携するだろうが、今のままでは一般の賛同者は出てこないだろう。しかし、賛同者の輪が広がることを願いつつ、私は、たとえひとりでも愚公の道を選ぶ。ことは何も解決していないからだ。

そんなことを松の実会のSさんの横で、目の前の障害福祉課の薄くなったSさんの頭を後ろから睨み付けて考えていた。ひとりでもやれることはあるはずだ。障碍者とその家族が、否応なくその実情から逃れられないことと比べれば、私のことは所詮ただの節操と片付けられるのかもしれないが、私はこの活動を私の生涯の活動として長年展開してきたのだし、これはこれからもかわらないのだ。

会場で活動報告のパンフレットを私はそれぞれの会の代表に手渡そうとするが、君子危うきに近寄らずで、彼らはすっと距離をおいてしまう。もう言葉は通らないなと思う。それをありありとみてしまう会になった。

会が終わって、私はその足で夕食の買い物を家に置き、再びP君の病院に向かった。担当者のVさんと約束してあったので、退院後の話をしてP君に面会した。落ち着いたP君の表情にうっすら虚無が漂う。薬かなと気になりつつ、病院を出、相模大野の訪問指導を済ませて帰宅した。

このメールを書いている明け方4時、Z君から電話が入った。私を茅ケ崎駅で見かけたようだ。「自殺しそうな感じだったけど大丈夫か」と言われて笑った。この細やかさが自分の首を絞めてしまう。それが引きこもり青年である。「ありがとう」と笑ったものの、茅ケ崎駅ホームから飛び降りた■君(前途ある若者だからと、刑事告発と賠償請求は押さえてくれたけれど)のことをふいに思い出した。■君どうしているだろうか。Z君と電話で話している最中、私の脳裏には彼の顔が浮かんでいた。

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小豆を煮た。半日浸しておいた豆を繰り返し水で煮た。土鍋を使うのだが鍋が割れてしまった。熱湯をあびるところだった。鍋を交換し氷砂糖を買っておいたので、甘味をつけることにした。本来は和三盆糖を加えないとコクがでないのだが、糖尿病では食べられないので、手抜きした。「さてあなたは私の餡子を食べてわかりますかね」とひとりごとをつぶやく。一部は母の口にはいるが、残りは練習用と諦め、ゴミ袋に捨てられる。

12月20日の集まりは、おそらく「来年度の幕引き確認」になると思う。しかし私はずうずうしいが拒否し、ひとりでも提案していくつもりだ。引きこもり者・軽度障碍者とともに就労相談窓口を支える喫茶部をやる話は、すでにかなたに飛んだ。この餡子を出す機会はないだろう。20日に手製の菓子を持ち込むかなと思いつつ、生還策をあれこれ考えている。

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明日火曜日、「わーく」発刊について、「神奈川子ども未来ファンド」にお願いした「支持」をもらうために、説明の場を設けてもらいたいというずうずうしいお願いをするつもりだ。茅ヶ崎市の公的な部課からは「協力」をもらうお願いをする。そのために「わーく」企画申請書をつくる。「支持」や「協力」がないと、ハローワークなどの公共機関が行う諸企画諸研修記事の転載許可をもらうことすら難しいからだ。巡回、まずはここから踏み出していく。

SNS携帯ネット環境のテストは続けていく。家主のいない空き家管理だが、これもまた抱えていく。
コメント
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