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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

四境之役

2011年05月21日 | しっちょる岩国

隣町の小さな公園のそばを歩いていた。垣根として植えられたツツジの上に「四境之」の3文字が掘られた石柱が目についた。もしや、と思い裏に回った。そこには「四境之役砲台跡地」と刻まれている。

1865年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた(元治の内乱)。高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長同盟を通じて新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。
この不穏な動きをみて、14代将軍徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。四境戦争とも呼ばれている戦争である(以下略 参照:岩国検定の資料)。

芸州口の戦いは、吉川経幹を総督とし、慶応2年6月、小瀬川の戦いから始まり、2ヶ月間玖波~大野間で激戦を繰り返した。幕府軍の来襲に備えて芸防国境の守備に着いた主力は岩国藩の士隊であった。攻撃の主力となって芸州へ侵入したのは長州の遊撃隊で、岩国の民兵団が援助した。彦根藩と高田藩は小瀬川であっけなく壊滅したが、両藩に代わって幕府歩兵隊と紀州藩兵が戦闘に入ると膠着状況に陥る。なお、芸州藩は隣藩との友誼を理由として幕府の出兵命令を辞退した(岩国検定の資料)。

和木町は山口県の最東端に位置しており、小瀬川をはさんで数々のドラマが繰り返された。第2次長州征伐時、芸州口での長州軍は岩国、柳井、玖珂の5代官所で養成された2,000人の民兵を組織した。彦根・高田の幕府軍との約2ヶ月にわたる戦争で、幕府軍に小瀬川を渡らせることなく、将軍家茂の死を機に、幕府は長州と和睦をせざるを得ない状況となった。
この時、和木村(当時)では男は農兵、女は炊出しや食料の運搬など村をあげて防戦した。この戦争は明治維新という新しい歴史を開いた回天の戦いであった。この芸州口の戦いの舞台となったのが当地で、封境の地碑はこの戦いを記念して建てられた。(岩国検定の資料:封境之地より)。

あの石柱の場所に砲台が、と謎が深まる。場所は石油精製会社のテニスコート前の道路向こう。岩国検定の仲間に入っていなかったら、見過ごすなどということでなく、何の興味もなく通り過ぎただろうツツジの上に見えた3文字。何かに興味や関心を持つことの面白さを改めて思った。

こんな歌がある。

      「ああ征長隊」  作詞 石本美由紀  作曲 上原げんと

 1. 風なまぐさく 水騒ぐ          2.慶応二年 六月(みなずき)の
    大竹口に 陣を布く             血の雨ふらす 木野川原
    男いのちを 矢弾に曝し(さらし)     竹原七郎平 なぜ散り急ぐ
    花と散る身の                武士の運命(さだめ)か
    花と散る身の 征長隊            武士の運命か 征長隊

  3. 苦の坂越えて 撃ち下ろす       4.葵は枯れる 菊は咲く
    長州勢の 奇襲戦              維新の黎明(あさ)は もう近い
    焼ける人家の 炎の中に          移る時勢に 流され押され
    影が崩れる                  白刃かなしや 
    影が崩れる 征長隊             白刃かなしや 征長隊

 
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くろがねもち

2011年05月20日 | この木


見方によっては自然の造形美、いやいや、勝手気ままに伸びたただの枝。気づかなければなんでもない大きな木。ところどころに剪定されたのだろか切り落とされた跡が見える。根元は大人2人分ほどどある。公園のめだたないところ立つ大きな木。

そばの説明板に「クロガネモチ 常緑高木」あり、続いてIlex rotunda Thunb、鉄冬青とある。調べてみると英文は学名で次は中国語の表記という。漢字では「黒鉄黐」と書いてクロガネモチと読む、とある。

「黐」という字は初めて。「モチノキなどの樹皮をつき砕き、繊維などを洗い落して製した粘り強いもの(広辞苑)」とあり、鳥やハエなどを捕えるのに用いると続いている。子どものころ鳥もち、と呼んでいたのはこうして作られたのか、と初めて知った。昔の人は粘りのあることをどうして知り、どんな工夫をして狩猟に用いたのだろうか。

我が家にも小さなクロガネモチが1本ある。冬になると赤い実が小鳥の餌になる。実のなる木を学習しているのか、必ずやってくる。餌が不足という冬は来るのが早いように思う。小さな木なのであっという間に食いつくす。少しは満足してくれたろうか、実の見えなくなった枝を眺めながら自然界の摂理を思う。

(写真:千手観音様のような公園の大木)
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続編なるか

2011年05月19日 | 生活・ニュース


休日といわずホームセンターは老若を問わず花や野菜の苗、肥料に殺虫剤などを求める人たちで賑わっている。台車に数袋の肥料を乗せて運ぶひとがいる。どう見ても農業を職とする人には思えない。何をどれだけ作られるのだろう、すれ違いながら思う。

苗の写真を見て買った朝顔は見事な花を、長い期間咲かせた。その朝顔は夏場、体調を崩した妻を毎朝慰めてくれた。来年はこの朝顔の種を植える、回復した妻はそう決めた。そこまでを投稿したら掲載された。その後、採種し保管した。それは昨年のことだった。

その種から芽が出て2葉に育った。それを我が家の朝顔用定番のプランタンへ植え変えた。大きく育てと柵を立てネットを張った。後は水やりと咲くのを待つだけだ。咲いてくれれば投稿の続編が書けるかもしれない、と秘かな期待をする。

種苗店の朝顔の苗は育ちよく10数センチもある。種から育てた我が家のそれは数センチ、育ちのいい苗を追い越すことはないだろうが、癒しの花が咲いてくれればいい。昨年は苗に付けられた写真を信じて植えたらその通りになった。今年は続編などと、怪しい欲な気持ちが少しこもっている。どんな咲き方をするだろうか。

(写真:植え変えた朝顔の小さな苗)
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分別は当たり前

2011年05月18日 | 地域


家庭系ゴミの回収はいつから始まったのだろう。今ほど充実はしていないが40数年間には始まっていた、と記憶する。初めのころは燃えるゴミをポリ容器に直接入れ、その容器を決められた場所へ置いていた。

現在は市で決められたゴミカレンダーに従い分別した種類ごとに持ち出せる曜日が決まっている。何れも有料の所定のポリ袋に入れることになっている。収集車は暑い日も寒い日も、嵐の日もまわってくる。仕事とはいえありがたいと思っている。

時に、持ち出しのルールを破る者がいる。近隣の人ではないと思いたい。車の窓から大きな袋をポイして急いで立ち去る軽自動車。他市のゴミ袋、残飯の入ったままのポリ容器もある。紙もポリもごっちゃにした袋もある。

収集車が立ち去った後にゴミ袋が残っていないと、ほっとするのは私だけではなかろう。ルール破りの袋には注意書きが張り付けられ、再提出を促しているが、出した当人が持ち帰ることはない。何度か収集されない袋を分別したことがある。非常識極まりない袋の中身にあきれる。

収集されない袋を分別される人がほかにもおられる。持ち出すところを綺麗にしておけば無分別が出しにくくなる。ゴミは分別して出す、この当たり前のことがなぜ出来ないのか不思議に思うことがよくある。

(写真:小学校生の通学路沿いの集積所は気持ちがいい、プラスティックの日)
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バラが見ごろです

2011年05月17日 | 地域
吉香公園のバラが咲き始めました。
4~5分咲きでしょうか。
開花準備中のバラも沢山あります。
カメラを携えてお出かけください。

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明け方の火事

2011年05月16日 | 生活・ニュース


朝刊を取りに玄関を出た。真っ黒い煙が勢いよくのぼっている。そう遠くない。いろいろ考えがよぎる。火は見えない。急いで2階のベランダに出る。やはり火は見えないが、煙の勢いは増している。5時半ころ。

携帯と小型のデジカメを持って煙の方へ走る。角を曲がったら黒煙が正面に見える。それに向かって小走りに駆けた。土曜日の朝ということだろうか、誰にも出会わない。

誰が通報したのか遠くで消防車のサイレンが聞こえ始めた。大きな通りに出た。川土手の向こう下から紅色の炎が上がっている。河川敷に建っている物置が燃えている。それは頑丈に作られた物置だ。というのは散歩の時よくそばを通るので知っている。

やっと1台目の消防車が到着した。目の前で何かが起きているとき、緊急車の到着を遅く感じたことはこれまでにもある。少し間をおいてから次つぎと赤色灯が並ぶ。このころになると近所の人も、遠くの人も心配そうに見に来る。顔見知りも何人か。最初に到着した消防車から放水がはじまった。

小走りに駆けた距離は歩いても1分と少しだが、それを長く感じたのは黒煙の勢いのせいだろうか。翌日の新聞、焼死体が発見されたという内容のべた記事が載った。

(写真:川土手の向こう下から上る炎と黒煙)
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史跡めぐり人の絆知る

2011年05月15日 | エッセイサロン


2011年5月15日 中国新聞「広場」掲載

 岩国検定実行委員会の課外学習で、仲間と市内北西部の史跡数カ所を巡った。

 見学予定の一つに中山間地にある民族資料館があった。そこに大きな期待はなかった。足を踏み入れてすぐ先入観を恥じた。

 その地に根付いていた生活や文化の品々、それらが生き生きと語りかけてくれるようで、仲間との会話を弾ませた。

 展示の中に、近くで発見されたアンモナイトの化石があった。この中山間地が大昔は海底だったということになる。

 文献などで、海底が隆起し山となったことは知っている。今、そうした一つの場所に立っている。驚きだ。目には見えない大きな歴史の流れに出合ったようだ。

 海底の隆起といえば東日本大地震へつながる。それは、大自然の猛威の前に人の力の微々たるものを教えた。

 しかし、いま被災された人々は、それを乗り越えようと行動をはじめた。それを世界中の人が支えようと行動している。

 史蹟めぐりはロマンだけではない、人と人の強い絆も教えてくれる。次からはもうひとつ視点を変えて参加したい。

(写真:資料館展示品のひとつ)
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店じまい

2011年05月14日 | 地域


桜の咲き始めるころ、錦帯橋上流のうかい広場に花見客をもてなす茶店が店開きする。桜に続く春の行楽シーズンは賑わうその店も、GWを過ぎるとそのシーズンの商いを終える。

表の囲いがとかれ、座敷が除かれ、店の品々が消えた。残された鉄の柱と梁、店の奥の囲いのベニヤ板からは先日までの賑わいを思い出させるものはない。 残っている建屋ももう間もなくで消えるだろう。桜の若葉と静けさだけの広場になる。

駅前商店街といえばその地域の中心商店街で経済活動の中心であり、賑わいや地域活力を生み出すところだった。生活環境や様式の変化、消費者ニーズの多様化などに合わせるように規制緩和が図られ、生活の場が郊外の大型店舗へと移った。

郊外型の生活が盛んになるにつれ、駅前商店街をシャッター通りと呼ぶようになった。商店街も工夫されたろうが、流れを止めるほどの力がなかった。車社会の到来も拍車をかけただろう。

近所の商店街も大方が店じまいされた。住宅地のここは市内の中心繁華街として賑わったのは子どものころ。この一帯の商店は間口が狭く奥行きが深いという、かっての武家屋敷の特徴が残っており、空き店舗の活用は進まない。モダンな住宅に変わる所もあり、かって商店街だった名残は消えつつある。

花見の茶店は来年また開かれるだろうが、近くの商店街の復活はないだろう。そんな商店街に、城下町時代の通りの名称を記した銘板が要所に張られている。それには栄えたころの米や塩、魚に豆腐、鍛冶に鉄砲、材木などの名前がある。銘板はどんな気持ちで今を眺めているだろうか。

(写真:桜のころ賑わった解体中の茶店)
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記憶に残る風景

2011年05月13日 | 地域


中年の夫婦づれに「シャッターを押してもらえませんか」と声をかけられた。こういう声をかけられるといつも愛想をよくうける。錦帯橋をバックに2人の上半身を写す。いつも頼まれると勝手に2、3枚は写す。この夫婦は埼玉県から九州への途中とのこと。

「錦帯橋と桜を予定していたが、震災の関係で遅くなった。桜が見れなくて残念でしたが、新緑と靄にかすむ錦帯橋は印象に残り、いい思い出になります」と嬉しい言葉。5月としては記録的な大雨で増水した錦川、それが靄を呼んだ。

さくらに続いてツツジや牡丹、藤の花も過ぎた。次は紫陽花や菖蒲が公園を飾る。その前に、吉香薔薇園のバラが咲く。今年のバラは今までになく茎や葉の色つやがよく、花に期待が持てる、というのは何十鉢も自宅でバラ育てている知人の話。カメラ好きの知人からは咲き始めを撮った、とメールが届いた。公園は梅雨に似合う花のシーズンへ向かっている。

増水で河原の駐車場はすっぽり冠水。代わりの錦帯橋上流の駐車場、観光バスが1台、雨にぬれている。観光の人はどこだろうか、ドライバーがハンドルにうつ伏せ、安全運転のためだろうか。

(写真:新緑と靄と錦帯橋)
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水と田植え

2011年05月12日 | 自然 季節


小川が2本流れていた。どこの家の田んぼもその小川のどちらかに接していた。2本は本流へ合流する手前で1本となって水量を増した。小川にはフナやメダカ、時にはナマズも姿を見せる遊び場のひとつだった。増水すると辺りは冠水、小川も道も分からなくなる。水が引くのう待ってフナなどを追った。

そんな小川に田植えの時期に登場するのが足踏み水車。小川の流れを遮るように田んぼごとに取り付けられる。農家の人はその水車の羽根を1枚ずつ素足で踏みしめながら回転させる。すると水は羽根に乗せられたて田に注がれる。水をおろした羽根は踏まれてまた水の中へ。際限なく続く。

ゆっくりと力を入れながら踏みしめる足に応えるように羽根はしっかりと水をくみ上げる。田に注がれた水は小川から離れた方へ流れて行く。広い田を満たすのは大変な労働だったと思う。水が満たされるとツバメが水面すれすれに飛び、急上昇するようになる。そんな小さな小川でも水が枯れたという記憶はない。

いつの間にか小川も田も埋め立てられ大きな道路が作られ、商業施設や宅地に変わった。そのころの景色が残っているのはローカル線だけ。そこも蒸気機関車からジーゼル車に変わった。思いだす頭はその頃のまま進んでいないようだ。子どものころ見て遊んだ田んぼと小川が懐かしい。

(写真:増水で靄にかすむ錦帯橋)
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