日々のことを徒然に

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神か仏か

2018年11月12日 | しっちょる岩国
 「神か仏か岩国様は、扇子(せんす)ひとつで槍(やり)の中」。これは錦帯橋近くの城下町の名残を残す通りで伝わる「小糠踊り」という盆踊り甚句のひとつ。太鼓に三味線そして笛の囃子に合わせて甚句が始めると「神か仏か」が最初にうたわれる。甚句の岩国様とは「吉川経幹(きっかわつねまさ)十二代岩国領主」で長州藩の危機を救った領主として誇れる人をさす。 

 禁門の変により朝敵となった長州藩へ西郷隆盛を大参謀とする15万の征長軍が結成された。長州藩に勝ち目は無いとした藩主の毛利敬親(たかちか)は経幹に幕府との交渉役を依頼した。経幹は西郷とも接触する中で「幕府へ禁門の変を謝罪する」で戦争回避を目指した。西郷も同意だった。このことが、後の薩長同盟の足掛かりとなった。謝罪は首謀とされる三家老の切腹で幕府への恭順を示した。

 経幹は征長軍総督府が置かれた広島の国泰寺にて禁門の変について厳しい詰問を受けた。経幹自身も毛利元徳の供として百艘の大船団で大阪に向かっていたこともあり長時間に及んだが、長州藩攻撃の延期が決まった。この時、経幹は征長軍が槍を構え警護する国泰寺に入場し芸州の人たちを驚かせ、それが甚句として伝わっている。それは元治元年(1864)で今から154年前の今月16日のことだった。経幹はその後の四境戦争でも長州を守った。

 横山の岩国徴古館では明治維維新における岩国領の動きを紹介する「明治150年記念 岩国の明治維新」展が開催中。古文書が読めないのは残念だが、柱島出身の奇兵隊第3代総督についた赤禰武人の晩年の行動や、長州藩が高杉晋作処刑を検討した資料もあるという。パネル説明は素人にもわかりやすい。激動期の岩国を知る企画展だと思う。
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