岩国在の人だが「何年振りかに本町通りを歩いて、昔の商店街の面影はすっかり消えていることに驚いた」と話し、かっての通りの様子や思い出話をする。その驚きの話し方を聞く方が驚くくらい懐かしいころのことだった。本町通り、かっては銀座通りと呼び1から4丁目まであった。縁日には屋台が並び大混雑、そうでない日も賑やかだったことを記憶している。郊外型店舗の成長に押されいつしかシャッター通りの言葉も被せられる。
商店街だけではなく吉川藩時代の下級武士の住まいだった地域も様変わりしている。迷路のようでおまけに狭い通りは外敵の侵入阻止のためと聞いた。そんな小路でも家屋敷が見通せない高い杉垣が茂っていたのは子どもころの記憶にある。そんな杉垣はほとんど見かけなくなり、ブロックに変わった。
それでも古い木造の門はいくつか見かける。しかし、門の両側はブロックの高い塀が築かれている。塀の上かにのぞいた庭木の数々から武家屋敷の一端を伺う。そんな地域も宅地化が進み今風の家が次々と建っている。それに伴って下級とはいえ武士の住んでいた屋敷や農地はその姿を変えていく。
残っている門もなかには補修されないまま傾きかけ弦の絡まった姿も見受ける。物知りの知人は「補修できる腕を持った大工がいない」と話す。伝統的建築の改修補修などは、新工法の建築を学んだ人には無理だという。専門的なことは分からないが、古い建築物が消えていくのはなにかものがなしい、そんなことを感じながら角を曲がる。