錦帯橋から吉香公園を散策し紅葉谷公園へいたると奥まったところにエキゾチックな深紅の建物がある。それは春の桜、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪とそのいずれとも見事な調和を見せる「六角亭」。
これは1593(文禄2)年、朝鮮の役に出兵した初代藩主・吉川広家激戦の地、壁蹄館(へきていかん)を偲び、1918(大正7)年に贈られたものである。この贈り主が長谷川好道である。
長谷川好道は旧岩国藩士・長谷川藤次郎の長男として1850(嘉永3)年8月周防の国錦見(現岩国練武場)に生まれたとある。幼少から文武両道に達し神童と呼ばれた。少年のころ抜擢され主君のそば近くに仕える侍臣となり、藩儒・東澤潟(ひがしたくしゃ)について陽明学を修めた。
戊辰の役で各地に転戦、田原坂の戦で武名を轟かせた。フランスに留学、日清戦争では旅順要塞巧城戦での勲功により男爵になる。日露戦争では満州の野に武功をくりひろげたとある。明治37年陸軍大将、同45年参謀総長の要職に就く。日独戦争も参画する。
1916(大正5)年元帥の称号を賜る。同年から朝鮮総督を4年間務めた。この間にさきの「六角亭」を同地から記念に贈ったとされる。1924(大正13)年1月、75歳で薨去と記されている。没後元帥の生前の功績によって官位は「元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵」を授けられた。
生誕の地にはそれを示す石碑と、元帥の生涯を記した説明版が建っている。その生誕地には威徳を偲び練武場が建ち、武道の振興に寄与している。少年剣士等の勢いのある声が元帥に届いているだろうか。軍人として最高の官位を授かった人を知る人も少なくなり、訪れる人は少ない。
(写真:生誕地を示す石碑、奥の建物は練武場)
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