みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

愛しなさい

2019年08月01日 | マタイの福音書

マタイの福音書 22章34-46節

 8月をどのようにお迎えになりましたか。大きな行事が終わり、ここに来てちょっと疲れが出たように思えます。まだ、まとめがありますが…。

 使用しているカメラの交換レンズを手に入れ、美しい花の写真を撮りましたら、ファインダーの片隅に「no card」のメッセージ。「しまった!」記憶用のカードをカメラに装填するのを忘れていました。何枚も撮ったのですが、すべて記録されないということに…。もう少しお待ちください。

 ここで主イエスは、ご自分を試みようとする下心のある質問に対して、誠実にお答えになっておられます。そして、その答えこそ聖書の教えを要約したものでした。悪意をもって、そして下心をもって罠にはめるための質問が次々に投げかけられているのですから、「そんなものには答える必要などない!」と突っぱねることもあったはずなのに、イエスはまっすぐに答えておられます。そして、そこでのイエスのことばの一つ一つが、大切な真理を伝えているというのは、よく考えると驚くようなことです。

 神を心から愛すること、そして隣人を自分のように愛せよ、これが律法の中で最も重要な戒めなのだとイエスは明らかにされます。

 神さまを愛してはいるが、隣人を愛することはできないし、しなくてもよいというような理屈はイエスのことばからは成り立ちません。一日のほとんどを他の人といっしょに生きています。自分にとってつき合いにくい人も、当然その中にはいます。私は神さまを愛しているので、いろいろと面倒くさいことになる人間関係には立ち入らない、だから、一人で神さまだけを愛していきたい、教会には行かないと考える人もいるかもしれません。

 確かに、そんな気持ちにさせるようなときもあります。もしかしたら、私自身がどなたかにとってはそんな「厄介な存在」なのかもしれません。けれども、改めて主イエスの教えを何度も読み直す中で、神を心から熱い思いで愛することの先には、隣人を愛することがある、ということに気づかされます。どちらか、ではなくて、つながりがあるのです。


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