みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ことばの出所(でどころ)

2019年08月26日 | サムエル記第二

サムエル記第二 16章

 日曜日は、ミュンヘンにある日本語教会の皆さんと礼拝しました。中央駅の近く、旅行中の方も立ち寄ることのできる所で集まっておられました。礼拝後はビアガーデンで持ち寄りの食事会。飲み物はここで注文して、皆さんが持ち寄ったものを分け合っていただきました。ビアガーデンでの交わりなんて、ミュンヘンならでは…と思いました。久しぶりの納豆巻、美味しくいただきました。

 この章には、さまざまな人のことばが見られます。

 ダビデをたくさんの食べ物を用意して迎えたツィバ。息子アブサロムの謀反でエルサレムを追われていたダビデと一行にとっては何よりの励ましになったことでしょう。彼はダビデのことだけでなく、一緒に行動する人々への心遣いを忘れていません。しかし、ツィバのことばは下心から出ていました。

 ダビデを呪ったのは、サウル家の一人のシムイ。彼のことばは傷口に塩を塗るようなものとしてダビデの心を深くえぐったことだろうと思います。けれどもダビデは、自分に辛く当たるシムイの行為さえも、主が「ダビデを呪え」と言われたからだと受け止めます。誰かからの非難をこのように謙遜に受け止めるのは難しく、すぐに反論し、いきり立ち、大声で自己弁護に終始します。ですから、このようなダビデのことばは、神との普段の豊かな交わりから出ているものだと思います。

 フシャイはアブサロムに「王様万歳。王様万歳」と繰り返します。父ダビデ側につく人物だと思っていたフシャイからのことばを、アブサロムはいぶかりながらも大いに喜んだことでしょう。けれども、これがやがてアブサロムの命取りになるのです。

 かつてダビデの知恵袋として重用されたアヒトフェルは、ダビデを辱めることをするようにとアブサロムに進言します。自分のことばの知恵に酔ったアヒトフェルは、ここで愚かな助言をするのです。神の聖さや義を恐れずに…。

 自分のことばはどこから出るのだろうか…、問われます。


心を盗む

2019年08月24日 | サムエル記第二

サムエル記第二 15章1−18節

 快晴の金曜日、午後から市の中心部に向かいました。日差しは強いですが日陰は涼しさを覚えるような気候。時々「30分オルガンコンサート」を聴きに行く教会の会堂に、新しい装置が置いてありました。1944年の大空襲で破壊される前の建物内部の様子と現在の様子とが美しい3D画像で比較することができるものでした。近くの方、ご旅行で来る方、お試しになってください。

 「みことばの光」はきょうからサムエル記第二を読みます。そして、アブサロムが父のダビデ王に謀反を企てる箇所から始まります。1節は、「その後」ということばから始まります。その一つ前の文章には、「王はアブサロムを呼び寄せた。アブサロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした」とあります。アブサロムは王(父ダビデ)の前で地にひれ伏して礼をし、王はアブサロムに口づけしたのだから、これで「めでたしめでたし」となりそうなものですが、そうではありませんでした。

 「その後」ということばは、ダビデとアブサロムのやり取りが表面的なものであったことを伝えます。アブサロムが父に謀反を起こそうと行動を始めるということは、彼が父ダビデに敵意を持ったことを語っています。ダビデの行為が義務的かつ表面的なものであったのかもしれません。あるいはアブサロムはこの時にはすでにダビデに謀反を起こすという企てを持っていたと考えることもできます。

 彼は謀反計画を実行に移します。人々に王への不信を受け付け、自分を売り込みます。それをアブサロムはコツコツと実行に移します。そして次第に、とくに6節の「アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ」ということばが心に留まります。ダビデ王への思いを自分への思いへと変えてしまうのです。しかも、巧みな手段で…。こうしてアブサロムはヘブロンで王を宣言します。

 けれども、人の心を盗んで勝ち取った権力は、やがて、同じような働きかけで盗まれ、失ってしまいます。


二つの命令

2019年08月23日 | マタイの福音書

マタイの福音書 28章11−20節

 4月から読み進めてきた「マタイの福音書」、いよいよ最終章の終わりの部分になりました。ただし、1−2章は12月号で読むことになっています。この箇所は、イエス・キリストが宣教の命令を弟子たちにお与えになった箇所として知られています。

 きょうの箇所全体を改めて読み直してみますと、ここには二つの命令があることがわかります。11−15節にあるのは、祭司長たちが兵士たちに与えた命令です。イエスのからだが墓の中から消えてしまったとの報告を聞いた指導者たちは、復活を握りつぶして弟子たちが兵士たちが眠っている間に、イエスを盗んで行ったと言え、と命じます。事実を覆い隠すために金を与えて嘘をつくようという命令です。

 16−20節には、宣教命令があります。復活された主イエスが弟子たちにお与えになったもの。人を全く造り変えてしまう力を持つ、世界を変える命令です。前者が嘘をつくようにとの命令だとしたら、これは真実を明らかにせよとの命令だとも言えます。そして、この命令には兵士たちが受け取ったお金などはるかに及ばない、素晴らしい約束が伴っています。イエスが世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいるという約束です。

 考えてみますと、私たちは毎日いろいろなことを指示され、命令され、それに従い、あるいは従わないで歩んでいます。従うか従わないかを決めるのは、命令を与える相手によりますし、命令の内容によります。お金のために嘘をつくようにという命令の先には何が待ち構えているのでしょう。私たちが生きているのはそんな命令に従った結果でき上がったものだというのは大げさなことでしょうか。

 復活の主が生きておられるとの福音さえも、嘘だとして退けられるような時代に遣わされているキリストにある者は、このイエスの命令を聞き、従えという強い促しを覚えます。


恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで…

2019年08月22日 | マタイの福音書

マタイの福音書 28章1−10節

 ここは主イエスの復活の箇所。イエスが復活したという福音書の記事は、イースターに読むことが多いので夏が終わろうとする今に読むのは不思議な思いがします。しかし、よくよく考えてみますと、キリスト者の信仰生活は復活した主イエスがともに歩むことにあるのですから、いつでも主の復活を覚えるべきなのです。

 亡くなったイエスのからだに香油を塗ろうとして明け方に墓に向かったマリアたちが見たものは、まず墓の入り口をふさいでいた石が脇に転がされていたことでした。次に御使いを見、そのことばを聞きます。彼女たちの悲しみや恐れは喜びへと変わりました。彼女たちの鮮やかな変化は、私たちにとっても同じように体験できるものなのです。大きな壁にぶつかり、暗くうつむいていても、よみがえられた主イエスが信じるものとともに歩んでくださるという事実に気づくならば、たちまち深い喜びに満たされる…はずなのです。

 主イエスの復活を確信した彼女たちの様子は、8節に記されます。「恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」この喜びと行動を私も…と、大いに揺さぶられます。


イエスの弟子になっていた

2019年08月21日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章57−66節

 当地時刻の朝になって、投稿した文章が明日の聖書箇所であることに気づきました。復活はもう1日後のことでしたね。すでに復活についての文章をお読みになった方は、驚かれたことでしょう。私もびっくり!

 イエスのからだを埋葬することで明らかになったのは、アリマタヤ出身のヨセフがイエスの弟子であることが明らかになったことです。マタイの福音書にはこのヨセフのことだけが記されていますが、ヨハネの福音書はニコデモの名前も重ねます。二人とも、イエスが十字架で死なれたことによってイエスの弟子であることが明らかにされたのです。

 この二人に限らず、少なからぬ人が自分がイエスを信じていること、弟子であることを公にしていないのではないかと考えさせられます。その理由はさまざま。けれども、何かのきっかけで隠されていたことが明らかにされます。主は必ずそのような時を迎えさせてくださいます。

 「二人のマリアはそこにいて」と61節にあります。二人は何を思いながら「そこに」いたのでしょう。安息日が明けた時に何をするのかを考えながらいたのではないでしょうか。「そこに」いた二人は日曜日の朝、最初の主イエスの復活の目撃者になるのです。少し飛躍があるかもしれませんが、イエスのそばにいつでもいることの大切さを思わせる一言として、このことばを受け取りました。

 イエスを死に追いやった人々は、イエスが三日後によみがえると予め話していたことばを恐れて、対応策を採りました。しかし、彼らが講じた対策も復活の圧倒的な事実の前には力がなかったことが、まもなくわかります。


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