みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

見えない目

2019年08月03日 | マタイの福音書

マタイの福音書 23章15-26節

 マタイの福音書23章15-36節には、「わざわいだ」で始まる7つのイエスによる非難が記されています。「わざわいだ」と訳されているのは、「ああ」という嘆きを現わすときにも用いられますので、イエスは、相手を攻撃してやっつけるというよりも、嘆きをもって相手の目が開かれるようにと厳しいことばを投げかけておられるのです。

 この箇所を一通り読んだ後、改めて読んでみますと「目の見えない」ということばが繰り返されていることに気づきました。それは、イエスが非難している律法学者やパリサイ人の目が実際に見えないということではありません。彼らは見えるのです。いろいろなものを見ているのです。けれども、ほんとうに目に留めるべきことを見ていないのです。

 昨日の昼前に、旅行を終えて日本にお戻りになる方々と会う(相手の方は知らないでいわゆる「どっきり」で)ことになっていましたが、私が時間を間違えていて、空港に行った時にはもう制限エリヤに入っておられました。辛うじて電話で連絡をすることはできたのですが、とても残念でした。見なければならないものを見ずに、自分勝手に判断をした結果でした。

 「私たちにはわかっている、見えている」と自負する人こそ、本当のところは何も見えていないということがあるのだと、イエスの厳しいおことばを読みつつ、改めて思います。見るべきものを見ているのだろうかと、問いかけてくる箇所です。

 「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、「私たちは見える」と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。』」ヨハネの福音書9章41節


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