マタイの福音書 26章57−75節
この箇所の鍵語は、「嘘」ではないだろうかと、読み返しつつ思いました。大祭司カヤパをはじめユダヤ教の最高法院による取り調べは、最初からイエスを死刑にするためのものでした。人を有罪か無罪かと裁くためには、それぞれに証拠を用意するのですが、彼らは「不利な偽証を得よう」としていたのです。
「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」との大祭司の問いに、イエスは「あなたが言ったとおりです」とお答えになります。そしてご自分からそうであることのしるしをはっきりと語られたのです。しかし主イエスは、ご自分が尋問者たちが考えていた地上の政治権力者ではないことをも明言しておられます。
大祭司の全く理屈の通らないことばが、結局イエスは死に値するという結論へと導きました。けれども、それは主イエスが彼らの悪に屈したということではありません。「みことばの光」が書くように、これによって十字架への扉がまた一つ開かれたのであり、それを開いたのは主ご自身でした。
ペテロも嘘を述べました。主イエスとのあれほどの結びつきをきっぱりと否定したのです。イエスを心から気づかい、イエスが捕らえられていた所までついて行ったのですから、彼がイエスを知らないはずがありません。それなのに、周りの圧力に屈して彼は心にもない嘘をつきました。
ペテロのすべてを主イエスはご存じでした。このような「大嘘」をついた彼が立ち直ることまでご存じでした。いや、主が彼を立ち直らせてくださるのです。ペテロの涙は回復のためのはじめの一歩ではなかったでしょうか。