マタイの福音書 27章1−10節
金曜日、友人を隣市まで送る際に自動車の警告音が鳴りました。サインを確認するとタイヤの空気圧が規定以下とのこと。以前にもこのサインが出て恐る恐るアウトバーンを走ったことがありました。今回も、帰り道にガソリンスタンドで空気を補充して事無きを得ました。今は、いろいろな機器に異常を知らせる装置があってありがたいです。けれども、肝心なのは警告がなされたら対応すること。放っておいたら、「後悔先に立たず」というような惨事を引き起こしかねません。
そのようなことを思いながら、ユダについての記事を読みました。26章の終わりの部分には、イエスとの結びつきをきっぱりと否定したペテロが描かれ、本章のはじめの部分ではイエスを裏切ったユダが自分のいのちを絶ってしまうことが書かれています。ペテロはイエスを三度知らないと言った時に、イエスのことばを思い出して激しく泣きました。ユダは自分が売り渡した主イエスが死刑に定められたのを知って後悔しました。
ある人はペテロのしたこととユダのしたことの違いが二人の行く末を別けたのだと考えますが、きょうの「みことばの光」は、後悔した時にどこに、誰のところに行ったのかの違いについて書いています。ペテロは主イエスのみもとに行き、ユダは祭司長や長老たちのところに行きました。
罪を犯して後悔したのならば、罪を赦してくださる方、赦す力をお持ちの方のところに行くべきなのだということを、この箇所から教えられます。さて自分は、いつもそのお方のところに行っているか、それとも他のところでいい加減に始末してはいないだろうかと問われます。