マタイの福音書 26章36−46節
近くの川のほとりに、秋の訪れを真っ先に知らせてくれる1本の木があります。この夏二度訪れた猛暑もどうやらおしまいのようで、このまま秋になって行くのかと思うとぜいたくですが、ちょっとさびしい気持ちになります。
「みことばの光」では、マタイの福音書を比較的短く区切って読んでいきます。主イエスの十字架への道が描かれるこの辺りについてもそうです。それは、読者である私たちも主イエスの苦難の道を一緒に歩くようにとの促しのように思い、読み進めています。
この箇所は「ゲッセマネの祈り」としてよく知られています。十字架を前にした主イエスの「悲しみのあまり死ぬほどです」ということばは、決して目の前に迫る苦しみとに怖じ気ついていることから出ているのではありません。それは「みことばの光」が書くように、罪のないお方が罪を犯した者とされる悲しみなのです。
そして、主は父に、「できるならばこの杯を過ぎ去らせてほしい、しかし、わたしの望むようにではなく、あなたの望まれるままに…」と祈ります。ご自分の足に香油を注いだ女性について、「わたしに良いことをしてくれました」と言ったイエスのことばを思います。主イエスはここで、父なる神の前に良いことをしようと苦難の道を歩んで行かれるのです。
一緒にいてほしい、いっしょに祈ってほしいとイエスに請われながらも、眠り込んでしまう弟子たちと自分の姿が重なります。恥じ入るばかりです。そして、感謝が込み上げます。