みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あらしの中から

2011年11月24日 | ヨブ記
ヨブ記38章1-21節


 昨日は、ブログへのアップをスキップしてしまいました。Dsc00242_2

 長い間、ともに礼拝をささげてきた方の結婚式がありまして、早朝から出かけておりました。
 12月からはお相手が通っている教会に移るので、喜びたくさん、さびしさちょっぴり(?)という心境です。
 嬉しいことに、今年は3組の結婚式が教会でありました。

 ついに、主がヨブにお話しになりました。
 しかも、ヨブに息をつかせないほど圧倒的な迫力で、語りかけます。
 「示せ」「告げてみよ」「知っているか」「あなたは…あるのか」ということばに、当然ヨブは「できます」「知っていますか」「あります」とは一つも答えられません。
 改めて神の大きさ、すさまじいほどの偉大さに読む者も圧倒されます。

 「息を呑むような…」という表現があります。美しい自然、荒々しい景色などをみた時に飛び出す思いです。しかし、「みことばの光」にもあるように、それはグランドキャニオンやエベレストの山頂に立たなくても、私たちが日々体験する日常の中にみられるものです。

 この頃の日の出は遅く、朝5時半の早朝の祈祷会のために、教会に向かう時は真っ暗です。しかし、祈りを終えると東の空が明るくなり、そのグラデーションは私のような貧しいことばではとても言い表せないほどの美しさです。

 何でもできるとか、どんなことでもわかったなどとうそぶく人間の高ぶりを、あっさりと打ち砕くようなことばには、ヨブならずとも一言も答えられません。



 



悩みの中で

2011年11月22日 | ヨブ記
ヨブ記36章15-33節


 昨日は、ホテルや学校などに聖書配付の働きを進めているギデオン協会主催の愛餐会に出席しました。この地区の支部活動を活性化するという趣旨の会合でしたが、懐かしい方と再会できた嬉しい時でもありました。
 改めて、神がご自分のことばを聖書によってお届けくださっていることのすばらしさを、ともに味わうことができました。聖書がなければ、迷いの森の中にどっぷりとはまりこんでしまったままだろうと思うと、感謝でいっぱい。

 エリフのことばもいよいよ大詰め。
 「みことばの光」にありますように、「神は人を悔い改めに導くための手段として苦難を用いられる」とエリフはヨブに語ります。それは、三人の友が「あなたは何か罪を犯したのだからこのような苦しみに遭っているのだ。だから神に罪を悔い改めよ」と述べたこととは違います。

 エリフは苦難の原因を云々しているのではないのですね。
 苦難の中で、自分の正しさを訴えるあまり、神をさばくという罪を犯してはならない、苦しみの中であなたを助けると約束している神に高ぶりの罪を悔い改めよ、と勧めているのです。

 しかし、やはりエリフには、ヨブがなぜあれほどまでに神に向かって叫ぶのかのわけが、わからないのだと思います。それも仕方がないというか、エリフはがんばっているなぁとさえ、私には思えます(少々エリフ贔屓でしょうか)。

 今日の箇所から思わされた二つの新約聖書のことば。
 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」ローマ12章15節
 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」ヘブル4章15節


あわれみの御手の中で

2011年11月21日 | ヨブ記
ヨブ記36章1-14節


 昨日はどのようにお過ごしになりましたか。
 通っている教会では「子ども祝福式」をしました。いつもよりもちょっと賑やかな、「子どもたちがいるなっ」と感じられる礼拝でした。私が座るベンチの横に、2歳の子がちょこんと座ったのにびっくり。しばし、その子といっしょに賛美しました。子どもが礼拝にいるのはとてもよい光景ですね。

 エリフのことばが続いています。

 心に留まったのは、「見よ。神は強い。だが、だれをもさげすまない。その理解の力は強い」(5節)ということば。
 ここに、神について知ってほしいという、エリフの思いが込められているように思います。そしてそれは、「神のための言い分」、つまり、神がヨブに知ってほしいと願っておられることなのです。

 ヨブは神の沈黙を問題にしてきました。神が語ってくださらないのは、自分のことをわかっていないのだと決めつけました。エリフは、そこにヨブの高ぶりをみるのです。

 ひどい苦しみに遭っている人は、自分のこれほどの苦しみをだれもわかってはくれないという気持ちに陥ってしまいます。だから、「わかるわかる」などと気安く言ってほしくないのです。
 神の「理解の力は強い」とは、何と心休まることばなのだろうと、思います。

 「苦難の中にいる者は、…神のあわれみの御手の中にある」と「みことばの光」にありますが、そうなのだ! 人は苦難の中にいても、喜びの絶頂にあっても、神のあわれみの御手の中に置かれているのですね。
 
 神は深く深く、私を理解しておられる…。だから、神のあわれみの御手の中で子どものように素直になれるのです。






神が黙っておられるとき

2011年11月19日 | ヨブ記
ヨブ記34章16-37節


 「キリスト教会少年野球大会」は、またまた雨で中止になってしまいました。
 春の大会は東日本大震災で中止、夏の大会は雨のために延期を重ね、今度こそ! と今日開催されることになっていたのですが、雨降りの朝を迎えてしまいました。昨日の夜コーチが「ごめんね。明日雨なので中止なんだって」とメンバーに電話で連絡をしていましたが、電話の先から「えっ、またぁ!」という声が聞こえてきました。どんなにやりたかったことでしょう。
 実現のためにご労を執ってくださった係の方、ほんとうにご苦労様です。ありがとうございます。

 エリフは、神がどのようなお方であるかの確認を迫るようにして、ヨブに語ります。
 三人の友が、上っ面だけの神観をもってヨブの苦難の原因を勝手に類推したために、ヨブはかえって自分の潔白を強く主張するあまり、神をさえ罪に定めるような愚を犯しつつありました。
 ですから、エリフのことばはヨブを元に戻す役割をいくぶんかでも果たしたのだと思います。

 神の沈黙を問題にしていたヨブに、エリフは「神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう」と語ります。
 いつの間にか信仰者は、「神が語ってくれて当たり前」とまでは言わないにしても、語ってくださるということでの神への感謝を忘れてしまっているのではないか、と考えたのです。聖書を読めることが当然のように思っているけれども、よく考えたらそれは、神のすばらしいお恵みなのですね。

 それから、言い過ぎかもしれませんが、沈黙にも神からの語りかけがあるということを思います。問題の答えをすぐに得られてよい場合もありますが、すぐに答えが得られないときにはいろいろ考え、あれこれ悩みます。そのプロセスで、じつは多くを神から教えられることも多いのです。

 野球チームメンバーに、どのようにして「『良い天気にしてください』お祈りが答えられなかった」わけを伝えましょうか?


 
 



手厳しい指摘

2011年11月18日 | ヨブ記
ヨブ記34章1-15節


 「パンクしにくい自転車」ということで購入した自転車がパンクをしたので、修理してもらいました。
 お店の人曰く。「タイヤのゴムが厚くできていてパンクしにくくなっているのですが、空気が十分入らなくてもタイヤを触ると入ったように錯覚したようですね。空気が不十分のまましばらく走られたので、チューブもだめになっていました。交換しておきました。これでもか…、というぐらい空気を入れてください。」
 確かに、ちょっと触ったら「空気だいじょうぶ!」と走っていたのですが、足りなかったのですね。
 
 エリフはヨブだけに話しているのではないのだな、ということをこの章の初めのことばで確認。そうです。そこにはあの三人の友人がいたのです。エリフがかなり誇張してヨブの問題点を指摘するわけも納得です。

 それにしても、ヨブを「あざけりを水のようにのみ、不法を行う者どもとよく交わり、悪人たちとともに歩んだ」とは手厳しい。「言い過ぎではないか、エリフ」と言いたくなります。
 けれども、突き詰めていけば、ヨブのように神よりも自分自身を義とする姿勢とは、「不法を行う者ども」「悪人たち」と同じ所にあるということではないか、と考えました。

 「ヨブの態度には、自分の考えを神とする、人間の本質とも言うべきものが潜んでいた」と「みことばの光」が指摘している事柄は、だれもが心に留めておくことなのですね。

 
 


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