みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神は語られる

2011年11月17日 | ヨブ記
ヨブ記33章12-33節


 紅葉が美しい頃です。
 全山紅葉とか、街路樹など、紅葉を全体の景色として愛でる楽しみとともに、一枚ずつの葉を見るのも楽しみです。柿や桜の葉は、それぞれに「紅葉具合」が違っていて、神さまの絵の具のパレットにはどれだけの赤や黄色があるのか、と驚きます。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる…」との聖書の一言を思いました。

 神が一言もお語りにならないと激しく嘆くヨブに、エリフは、そうではない、神はいろいろな方法でお語りになっていると語ります。ここに、エリフと他の三人との違いがあると思います。エリフはヨブの、今の苦しみが何であるのかをヨブのことばをじっと聞いて理解しようとしたのです。ですから「このことであなたは正しくない」と言えるのです。

 「このことで」ということばは大切ですね。「どうしてあなたはそうなの!」とか「まったくきみっていう人間は」などと、相手を全否定するという注意や非難をしてしまいやすいのではないのでしょうか。もしかしたら、そのように言い切ってしまうのは、相手をよく知らないからではないかと、この一言から思いました。

 「神は語ってくださらない」というヨブと、「神は語られる」というエリフとのことばは、真っ向からぶつかり合っているように思えますが、二人とも「神はお語りになるお方」という確信をもっているという前提においては共通しています。その二人が、アプローチは違いますが、「私を贖う方」「一人の代言者」「身代金」という神と人との間に介在する「だれか」を見出したというのは、とても興味深いことですね。

 



土の器が土の器に

2011年11月16日 | ヨブ記
ヨブ記33章1-11節


 昨日の午後は、晩秋の風景をドライブで楽しむことができました。「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」と言われるように、この時期は4時を過ぎると薄暗くなります。しかし、見上げれば秋晴れの空には陽に照された白く大きな雲が…。昼と夜との境目を感じました。

 いよいよエリフの語りかけが始まります。
 エリフは、自分とヨブとの間には通じることがあると述べています。「みことばの光」も触れていますが、「神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で造られた」との一言は、どれほどヨブにエリフのことばに耳を傾けようとの備えをさせたことでしょうか。
 
 子どもの頃、何度も読み聞かされた「北風と太陽」というお話。「北風」と「太陽」が力比べをします。どちらが旅人の上着を脱がせることができるかということになり、「北風」は力づくで脱がせようとしますが旅人は帰って上着をしっかりを身にまといます。ところが、「太陽」が暖かな陽射しを旅人に注いだので、旅人は上着を脱いだ…という内容ですね。

 エリフの話は、ヨブの心をグサッとえぐっていきますので、「太陽」のようではありませんが、けんか腰で力づくでも承服してやろうとする態度でないことは明らかです。7節の「見よ。私の脅しも、あなたをおびえさせない。私が強く圧しても、あなたには重くない」私のことばがあなたには脅しのように聞こえるかもしれないけれども、単なる人間の口から出るのだから、それにおびえることはないと、予めの配慮も忘れません。

 悩みの中にある人にことばをかけるのは、ほんとうに難しいと思います。「ああ言おうか」「これを言ったらいっそう悩ませるかしら」などと、逡巡することも度々である私にとって、エリフのヨブへの態度は大切なことに気づかせてくれます。





第四の男

2011年11月15日 | ヨブ記
ヨブ記32章


 「みことばの光」による聖書通読は、ヨブ記に戻ってきました。きょうから12月1日まで、ヨブ記の終章までを読んでいきます。
 ヨブと三人との対話は行き詰まってしまいました。いや、正確に言うならば、三人がまったく行き詰まってしまい、ヨブに対して語ることばを持たなくなっていたのです。
 
 そのとき、口を開いたのがエリフです。
 エリフは「日を重ねた者が語り、年の多い者が知恵を教える」との先人からの知恵を重んじて「脇に控えて、遠慮し」ていたと語ります。しかし、ヨブと三人のやりとりを見て、どうにも抑えられなくなって語り出したということのようです。

 私は、エリフが最初からヨブと三人の対話に割って入っていたのならば、事は一層複雑になったことだろうと想像してしまいました。「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」という伝道者の書の一節を思いました。
 そのように考えると、何と自分は余計なことをポンポンと話してしまうのかと、反省。

 もう一つ思うのは、エリフの話は神がヨブにお語りになるために、ヨブの心を整えさせたのではないだろうか、ということです。「ヨブ記32-37章を読む前に」にもありますように、エリフの話でヨブが納得したとは思えません。けれども、三人が話した時にはその都度激しく反論していたヨブが、エリフに対しては一度も反論しないで耳を傾けていたことから、エリフが話す内容はヨブの心に届いたのではないでしょう。

 ともあれ、しばらくはこの「第四の男」のことばに、ヨブとともに耳を傾けることにしましょう。





圧倒的な勝利者

2011年11月14日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙8章31-39節

 
 日本シリーズが行われている頃には、スケートシーズンの開幕なのですね。妻はフィギアスケートに釘づけ。確かに、数分の演技にこれまでのあらゆる練習の成果を込めるのですから、固唾(かたず)を呑みます。ミスなく終わればほっとし、ミスが出れば「あーあ」とがっかり。
 野球やサッカー、柔道などは相手とのぶつかり合いですが、フィギアは自分との戦いという面も多分にありますね。スポーツには勝ち負けがつきもの。僅差の勝利の喜びはひとしおですが、圧倒的な勝利というのも気持ちが良いものです。

 8章は聖書中、最も偉大な章の一つであると評した人がいるほど、教会の歴史の中で読む人に大きな力と慰めを与えてきました。音楽ならば「信仰による義認」というタイトルの曲が、クライマックスを迎えているように響いています。次第に39節に向って高揚していくのです。

 様々なものが、イエスを信じる者に攻撃を仕掛けてくるのですが、ことごとく撃破します。なぜなら、神が私たちの味方だから、とパウロは言うのです。
 私たちの毎日を正直に振り返るならば、パウロがすでに7章で書いてきたように、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行って」いる、「私は本当にみじめな人間です」ということだと思うのですね。そこを悪魔は突いて、「みことばの光」にあるように「おまえはキリスト者らしくない、罪人だ」と告発してくるし、自分の良心も自分を非難する、のです。

 ところが、これら一切の攻撃にさらされても、キリストを信じる者はその信仰のゆえに、神が味方であり、キリストが私たちのためにとりなしをしてくださっているので、圧倒的な勝利者となることができるのです。

 何ものも「神の愛から、私たちを引き離すことはできない」という勝利宣言で、パウロはこの交響曲をひとまず括ります。

 そういえば、延期に延期を重ねた「キリスト教会少年野球大会」が、土曜日にあります。どのチームも圧倒的な勝利者となれるように、天候が保たれるようにとお祈りしています。

 


大船に乗ったような…

2011年11月12日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙8章1-17節


 月に一度おじゃましている特養ホーム。何となくみなさんの髪の毛がさっぱりしているようなので聞いてみると、二日前に床屋さんが来てくれたとのこと。「そろそろ私も髪の毛を切ってもらわないと…」と言うと、Aさんは「いやいや、素敵ですよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」とおっしゃいます。
 「素敵ですよ」と言われると悪い気はしません。
 そのやりとりを見ていた施設長さんが「ここには、ほめ上手の方がたくさんおられるのですよ」とニコニコしておられました。いつもいっしょにいて話を聞いてくれたり慰めほめ、ときには叱ってくれる人がいるのは幸せなのですね。特養ホームで育ててもらっています。
 冷たい雨の11年11月11日でしたが、心温かく過ごすことができました。Aさん、ありがとうございます。

 素手で罪と戦えば「私は、ほんとうにみじめな人間です」とうなだれなければなりません。ところが、キリスト・イエスにある者、イエスさまを救い主だと信じている者には、強力な味方がいてくださるというのが、きょうの箇所から教えられることです。しかもそれは、何と神であられる御霊。
 この箇所には、「御霊」「神の御霊」「キリストの御霊」ということばが14回も使われています。御霊なる神が、私たちの生活のすべての領域に生き生きと働いておられることがわかります。
 
 確かに、キリスト者には戦いがあり、葛藤があります。けれども、大切なのは「ああ、そうなのだ。わたしのうちには御霊がお住まいになっておられる」という事実なのです。「大船に乗ったような…」という言い回しがありますが、キリスト者の生活とは、聖霊なる神が共に、うちにおられることのゆえに、どっしりと安定したものなのですね。

 私が住む辺りは街路樹が色づいてきました。晩秋を楽しみたいです。
 
 
 


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