みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

だれが外套をはぎ取るか

2011年11月30日 | ヨブ記
ヨブ記41章13-34節


 外套というと、オーバーコートやマントを連想し、重いという印象があります。
 でも、この頃の外套は、いまはアウターとか言うのでしょうか、ほんとうに軽そうですね。100グラム台という軽さを売りにしているものもあります。

 13-34節は、レビヤタンについての描写が続きます。
 「さあ、かかってこい」というばかりの姿形、形相です。もし、こんなものが目の前に現われたら、逃げることもできずに、腰を抜かしてしまうかも知れません。

 「みことばの光」の筆者が「レビヤタンにサタンの自我を見いだした」と書くように、ここにはただ1人を除いてだれも制御することのできない、やっかいな相手がいます。「だれも自分を倒せない」と豪語するサタンを、「わたしは抑えることができる」と、主はヨブに伝えようとしておられるのです。

 そうであれば、自我を砕いて人の心を変えることが主にはおできになると「みことばの光」にあるのは、もっともなことなのです。やっかいな相手が自分の外にいると、あの人をこの人を敵に回しながら、実はやっかいな相手は自分の内側であることに、案外気づかないものです。
 
 だれが、自我という外套をはぎ取るのでしょうか。
 自我との戦いに苦しみながらも、名陶の手にわが身をゆだねる粘土のように、主にゆだね祈るという道を持っているキリスト者の幸せを改めて思います。
 初めからキリストのかたちができているのではありません。

*昨日の記事をアップしないままにしておいたことを発見。本日2日分をアップしました。





二度と手を出すな

2011年11月30日 | ヨブ記
ヨブ記41章1-12節


 月曜日は、久しぶりに妻と東京に出かけました。
 浅草橋と合羽橋で買い物をしなければならなかったのです。
 クリスマスの「フルーツケーキ」を包む金色のアルミホイル(といっても、自動車のホイールではなく、キッチンで使う「あれ」です)を買い求めようと思ったのです。ところが、以前に置いてあったお店になかったので、替わりをどうしようかとあれだこれだと試行錯誤した結果、ようやく「これだ!」ということになりました。ホッ

 浅草橋から合羽橋までは歩きました。思ったよりも近いのですね。東京の街歩きも楽しかったです。

 ヨブ記もあとわずか。
 これまでにもヨブ記を何度か読んだことがあるのですが、今回は「もう終わってしまうの?」という気持ちです。編集をさせていただいているからでしょうか。皆さんはいかがですか。

 河馬の次に神がヨブに示しておられるのはレビヤタンです。
 レビヤタンというのは「巻きつくもの」という意味のことばだそうで、すでにヨブの嘆きのことばに登場し(3章8節)ています。この箇所を読むと、レビヤタンはわにのような大きな怪獣として描かれているようです。
 他に、イザヤ書27章1節では「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される」とあります。

 主は、人間には御しがたい怪獣のような大きな悪をレビヤタンという動物に投影しているのです。「みことばの光」にもありましたように、それは人間が素手で手に負えるようなものではありません。
 「暗黒の世界の高ぶる存在」「竜」「蛇」とも呼ばれるサタンです。しかし、それをも主はご自分の手の中に治めておられるのです。十字架こそ、その勝利の出来事なのだということを、改めて覚えることができます。
 
 

 


 



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