みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

悲しい証言

2011年11月02日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙3章9ー20節


 まずはおわびを…。ブログの更新が大変遅くなりましてすみません。
 言い訳になりますが、きょうは土曜日に予定している「バリアフリー・ウォッチング」というイベントの事務局長の務めの追い込みをしていました
 この催し、市内の障がい者施設、市役所の職員、社会福祉協議会の職員、民生委員、そして市民の中からの参加者がいっしょに街を歩いて、調べて、障がいのある人も障がいのない人もともに住みやすい街をつくろうと、回を重ねてきました。けっこう街が良くなっているのですよ、これで。
 今年は、災害の際の避難所として指定されている公民館などのバリアフリー状況を調べることになっています。でも、しかめっ面して「あら探し」をするのでなくて、秋の街歩きを楽しみながら調べるというイベントなのです。

 街や建物は努力すればバリアフリーが実現しますが、神と人間とのあいだの隔たりを取り除くことは、我々の努力ではできないと、パウロはこの手紙のはじめの部分に書いています。

 きょうの箇所には、旧約聖書の多くの証言が並べられています。その証言とは、「だれも彼もが皆罪人である」という悲しいものです。神から律法が与えられていない異邦人(ユダヤ人ではない人のこと)はもちろんのこと、律法が与えられ、割礼も受けていることを誇りとしているユダヤ人も、ひとりの例外もなく神の前には罪人なのです。

 けれども、「みことばの光」が書くように、この証言が大切、罪の意識を持っているということが大切なのですね。「罪の自覚のないところには、救いを求めるたましいの渇きも生じない」のです。

 改めて、イエスさまの救いは何とすばらしいものかを、これら悲しい証言の数々を声を出して読む度に思います。

 


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