みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神が黙っておられるとき

2011年11月19日 | ヨブ記
ヨブ記34章16-37節


 「キリスト教会少年野球大会」は、またまた雨で中止になってしまいました。
 春の大会は東日本大震災で中止、夏の大会は雨のために延期を重ね、今度こそ! と今日開催されることになっていたのですが、雨降りの朝を迎えてしまいました。昨日の夜コーチが「ごめんね。明日雨なので中止なんだって」とメンバーに電話で連絡をしていましたが、電話の先から「えっ、またぁ!」という声が聞こえてきました。どんなにやりたかったことでしょう。
 実現のためにご労を執ってくださった係の方、ほんとうにご苦労様です。ありがとうございます。

 エリフは、神がどのようなお方であるかの確認を迫るようにして、ヨブに語ります。
 三人の友が、上っ面だけの神観をもってヨブの苦難の原因を勝手に類推したために、ヨブはかえって自分の潔白を強く主張するあまり、神をさえ罪に定めるような愚を犯しつつありました。
 ですから、エリフのことばはヨブを元に戻す役割をいくぶんかでも果たしたのだと思います。

 神の沈黙を問題にしていたヨブに、エリフは「神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう」と語ります。
 いつの間にか信仰者は、「神が語ってくれて当たり前」とまでは言わないにしても、語ってくださるということでの神への感謝を忘れてしまっているのではないか、と考えたのです。聖書を読めることが当然のように思っているけれども、よく考えたらそれは、神のすばらしいお恵みなのですね。

 それから、言い過ぎかもしれませんが、沈黙にも神からの語りかけがあるということを思います。問題の答えをすぐに得られてよい場合もありますが、すぐに答えが得られないときにはいろいろ考え、あれこれ悩みます。そのプロセスで、じつは多くを神から教えられることも多いのです。

 野球チームメンバーに、どのようにして「『良い天気にしてください』お祈りが答えられなかった」わけを伝えましょうか?


 
 



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