みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

恵みの場合は

2011年11月07日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙5章12-21節


 関東地方は暖かな日が続いています。お住まいの所はいかがですか。Dsc00122

 土曜日に障がい者施設、市役所や社会福祉協議会のスタッフ、民生委員、そして市民が参加して、「バリアフリー・ウォッチング」をしました。今回は、災害時の避難所に指定されている地域公民館を手分けして訪問し、バリアフリーの状態を見て回りました。
 公民館ですから、車椅子用のスロープはどこも設置されていたのですが、おそらく3月の大震災によるものでしょう、スロープと地面との間に段差が生じているのが何箇所かありました。2センチは車椅子にとってはかなり手強い段差となります。
 けっこうな距離を歩きましたので、日曜日には腰がちょっと…。日頃の運動不足がこのようなときに影響するのですね。

 この箇所を読んで、「だからアダムが悪いんだ!」などと言ってはなりません。アダムさえ神の命令を守っていたら、今ごろ私も悪い心で苦しむことはなかったのに、などと責任転嫁をするためにパウロが書いているのでは、もちろんありません。私たちは、自分の罪の責任を神さまの前に自分で負わなければならないのです。
 「アダムとキリストには、ひとりの人の行為が全人類に大きな影響を与えたという類似点がある」と「みことばの光」にあります。
 圧倒されるのは、「さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められるのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められる」(16節)ということば。
 パウロは、アダムとキリストとを比較して、その類似点を挙げるだけで終わってはいません。むしろ、二人のあいだの決定的な違いに目を留めさせているのです。アダムの違反によって死が全人類が死の支配下に服したのですが、キリストはすべてを支配するお方として、罪を犯した人間を市の支配からいのちへと移してくださったのです。

 何と晴れやかな行為なのでしょう。



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