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南直哉・為末大『禅とハードル』

2015年08月15日 23時45分40秒 | 文学
南直哉と為末大の対談『禅とハードル』(サンガ)を図書館で借りて読んだ。
ジョギングをしているので、走ることをついて人がどのように語るのか興味があり、陸上選手の為末大の本なので読んでみた。南直哉は一度、茂木健一郎の講演を聞いていたときに、対談の相手として話しているのを聞いたことはあるがそんなに興味はない。
ジョギングをするのを後押しするような話は全然なく、為末大がどのようなことを考えているかを語り、南直哉がそれを少し上から解説するというような体の本だった。
以下、気になったところ。

 (中略)私もそうだけど、あなたみたいに物事をあれこれ深く考え込んでしまう人は、ルールがはっきりしているところにとりあえず自分を預けてしまうと安定するんですね。よく、心の状態を保つとか、平常心を持つとかいうけれど、心をコントロールしようと思ったら、体をコントロールするしか道がないですからね。(33頁)

 つまり「好きなこと」を認められるための「手段」にしてしまうと、苦しくなってしまうわけですね。本来、好きなことをやるのは「遊び」であって、遊びには「目的」がないものなんです。目的があったら遊びにはならない。(47頁)

 結局、夢や希望を信じている世界というのは、前のめりになっている人なんです。今の自分じゃなくて、常に未来の自分、要は前に向かって実存を投げてるんです。前にばっかり投げていくから、現在が空洞になっていくんですね。(102頁)

 (中略)ギャンブルっていうのは、時間が常に未来にしかないんですよ。未来に結果が出るまでの時間しか興奮しないわけです。つまりそれは普通の時間を解体してしまうことになる、それで自意識も崩れちゃうんですよ。つまり自我を宙吊りにするということです。自我を宙吊りにするってことは自己存在を宙吊りにするということ。結局それって「快感」なんだと思う。自分がいるとか自分があるとかいう意識の苦しさを、消してしまいたいという欲望があるんだと思いますね。

付箋を貼っていた部分を書き写したが、結果、南直哉の言葉だけになってしまった。

盆休みに実家に帰って早起きし、自分の通った中学校と小学校と幼稚園を一時間ほどかけてジョギングして巡った。
田舎の風景はほとんど変化していなくて、こんな場所だったなと思った。
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