ダブログ宣言!

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☆野間賞

2008年08月20日 00時03分43秒 | 文学
使っていたパソコンが修理中で、代わりに使っているパソコンがあまりに遅いのでメモリーを増設する。しかしそんなには早くならない。多少早くなったかな。
ついでに寄り道した図書館で小林秀雄の対談のCDを借りてくる。
「昭和の巨星 肉声の記録 ~文学者編~ 小林秀雄」というタイトルのもの。NHKソフトウェア制作となっている。
中村光夫との対談と、大岡昇平との対談が入っている。
中村光夫の本は読んだことはないし声を聞くのも初めてなのだが、話を聞いていて興味を失う。話し方や声で好感を持ったり持たなかったりするということはあるもんだ。どこがどうということもないのだが、なんとなく弱腰な感じがした。
僕の中で中村光夫は批評を「です・ます」で書いた人、というどこかで得た知識のままでそれ以上の発展もないまま終わってしまうな。
中村光夫との対談は小林秀雄の「近代絵画」が出た後のもののようでその話が中心だった。最初、中村がなんと言っているのか聞き取れなかったが、「『近代絵画』が野間賞をお取りになって」と言っているのだということがやっと分かる。”野間賞”がなかなか聞き取れなかった。
「近代絵画」が野間文芸賞を取ったことも知らなかったのだが、しかし野間文芸賞ってそんなに昔からあるんだな、野間宏ってそんなに偉いんだ、生きているうちから賞を作るなんて大江健三郎みたいだな、と思い調べてみると、違った。
野間文芸賞は野間宏の賞ではなかった。講談社の社長の賞だった。
こういう、調べずにいるままでいても何の害もなく、痛くも痒くも恥ずかしくもない思い込みというものが存在する。誰とも野間文芸賞と野間宏の関係について話したことがないし今後もないであろう。
新潮文庫の「近代絵画」がいつのまにやら絶版になっていることも発見する。昔持っていたが、全集を買おうとしたときに文庫はすべて売ってしまった。
若者の小林秀雄離れは由々しき問題だ。
こういうことは、実にいけませんねぇ。(なんとなく小林秀雄口調)

誰の興味も惹かぬ馬鹿馬鹿しい話を長々と書いてしまった。
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☆ヘーゲル「精神現象学」を不完全解読

2008年08月19日 01時43分31秒 | 文学
精神現象学完全解読 ヘーゲル『精神現象学』 (講談社選書メチエ)
この夏休みの宿題のようなものだったヘーゲルの「精神現象学」(作品社)を読み終える。いっしょに読んでいた竹田青嗣と西研の「完全解読 ヘーゲル『精神現象学』」(講談社選書メチエ)も読み終えた。
ヘーゲルのほうは最後はほんとに超絶に難解で、それまでも意味不明だったが、さらに意味不明だった。もうただただページをめくっただけ。こんなに意味のわからなかった本は久しぶりだ。
「完全解読 ヘーゲル『精神現象学』」がなければ曲がりなりにも最後まで読むことは出来なかった。
どこかに監禁されて銃を突きつけられて、プルーストの「失われた時を求めて」かヘーゲルの「精神現象学」かどちらかを再読しろと脅されたら、迷わずプルーストを選ぶ(涙ながらに)。
ヘーゲルの本を読んで憶えていることといえば、死んだ人は家族のものから共同体のものになるというような意味のことを言っていたところと、”行動する良心”と”批判する良心”の争いのところ。確かにところどころ天才を感じさせる人ではある。
ヘーゲルの言う良心については、学生時代に漢文の授業で「論語」の、
七十にして心の欲するところに従えども矩(のり)をこえず
を聞いたときのことを思い出した。

「完全解読 ヘーゲル『精神現象学』」の西研の「おわりに」はたいへん良かった。感動した。
「精神現象学」についてもう一度読むとしても、ヘーゲルの本ではなく「完全解読」だけ読めばいいかなと思う。
「完全解読」以上の理解が出来るとは思えないし、そもそも読めない本はいくら有名でも読む必要も意味もないんじゃないかと思っております。
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☆休みはテレビを見た

2008年08月17日 22時41分54秒 | テレビ
長かった休みが終わる。
休み中に何をしたかといえば何もしなかった。強いて言えば、テレビでオリンピックを見ていた。
高校野球はあまり見ていない。しかし高校野球の、試合に負けたチームを見る切なさは何物にも代えがたい。野球というのはやるよりも見るためのスポーツじゃないかと愚考する。全体が見えたほうが楽しい。そして水泳は見るよりもやるためのスポーツだ。見ていても気持ちよさは分からない。
しかしこれは単純に自分が経験したことがあるスポーツは見るよりもやるほうが良いと考えてしまうだけなのかもしれない。

ほかにテレビで、映画「崖の上のポニョ」の主題歌を聞いた(歌っているところを見た、と言ったほうが適当か)。
”藤岡藤巻と大橋のぞみ”の大橋のぞみはポニョの声も担当しているのだと思い込んでいたら違った。ちょっとだけ驚いた。
この驚きを何にたとえよう。
映画「風の谷のナウシカ」に安田成美の主題歌が全く使われていなかったときの驚きにたとえよう。(鷹のようなこの驚き。)

あと、NHKで大西巨人の「神聖喜劇」についての番組を放送していたのを録画していたのでそれを見た。
大西巨人の「神聖喜劇」については、確か大岡昇平の日記「成城だより」でその存在を知り、そのあと吉本隆明が絶賛しているのを読んで、興味を持って読もうとしたが当時文春文庫版もちくま文庫版も絶版で、そののち光文社文庫版が出たときに一巻だけ読んでそのまま読んでいない。
おもしろいと思ったように思う。
そのうち読んでみたい。

追記。
どうでもいいことだけど、「神聖喜劇」のちくま文庫版は絶版ではなく分売不可だったかも。
四冊だったか五冊だったか忘れたが、内容もよく分からず字の大きさもわからないような本を本屋で手にとって確認することもなくまとめて注文し購入するようなことは今でもできない。
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☆柳田国男、ヘーゲル、半藤一利

2008年08月15日 00時17分02秒 | 文学
柳田国男の「山の人生」は、狂って山に入って行方不明になってしまった人の話や、神隠しにあった子供の話を集めている。
で読んでいて、誤解を恐れずに言えば、少し羨ましくなる。
ほんとにもうぜんぶ嫌っていう気分になって、なんだか逃げ道がなくて死ぬくらいしかないときに、山に逃げるというのがひとつの選択肢としてあるのは、救いがあるような気がする。
山に入って虫や蛙を食べていたというひとを、僕はニュースで見た記憶はない。
山に入って自殺するというのはよくあるが、山に入って生き延びるということが選択肢としてなくなってしまったのはとても残念なことだ。

ヘーゲルの「精神現象学」は読んでいるが、ますます難しくなる。
しかし、特に青年期の、自分の想いと世界の現実との断絶のようなものが描かれ、共感することも多い。
柳田国男の本とあまり遠くない部分で共感している。

NHKの番組「100年インタビュー」で、半藤一利のインタビューを見る。
日本人は小さくなったんだろうな。それはほんとにそうなんだろうな。
という感想。
半藤一利の本に興味を持った。前から興味はあるのだが、さらに。

オリンピックにはまったく興味はないが、妻に付き合って少し見ている。
体操の「しんしんのしん月面」って何だ? 忍者ハットリくんの台詞か? 「新々の新月面」って何回改良すれば気が済むんだ? と思い調べると「伸身の新月面」ということらしい。
アナウンサーが語呂がいいから使っている表現じゃないかと思う。
「しんしんのしん月面」って、そりゃ、誰だって一度は言ってみたい。
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☆パソコンが壊れる

2008年08月13日 00時43分29秒 | 文学
パソコンが壊れて、電源を押しても起動しなくなった(東芝のダイナブック)。
なので、修理に出した。
まだ買って一年とちょっとしか経っていないのに。
パソコンの故障時には、あれが悪かったのかこれが悪かったのかといろいろと反省するものだが、結局原因は不明なので、もう仕方がないと諦めるしかない。
子供が不良になったときや妻に離婚を言い渡されたときに、あの時もっと遊んでやればとかもっと相談に乗ってやっていれば、とか反省しても仕方がない。
反省するくらいなら、最初からやっとけ。
どうせ出来なかったんだから反省なんかするな。
まあ、そんな心境です。
いまは以前使っていたノートパソコン(NECのLaVie)を引っ張り出して書いている。とにかく起動が遅い。
パソコンがぶっ壊れてデータがいくら消えようが、ブログだけは内容も消えずに更新できるのは良いことだ。

今週は夏休みで月曜日は近所の、たいしたことのない温泉のようなところ(所謂”健康ランド”みたいなところ)に行く。
昼ごはんを食べて温泉から出て、妻を待つ間本を読んでいた。
柳田国男の「遠野物語・山の人生」を持っていっていたが途中で眠くなりほとんど読まなかった。
なんとなく、温泉場で柳田国男の本を読むというのが昭和っぽくて良いと思ったのだが、実行できなかった。
まあいいや。
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☆東野圭吾週間終わる(「容疑者Xの献身」感想)

2008年08月10日 15時14分49秒 | 文学
容疑者Xの献身 (文春文庫)東野圭吾の「容疑者Xの献身」(文春文庫)を読んだ。
トリックの衝撃度で言えばそんなに大きくなく「あ、やっぱり」という程度だった。意外ではなかった。
ここ最近読んだ本でもっともトリックが衝撃的だったのは伊坂幸太郎の「アヒルと鴨のコインロッカー」じゃないかと思う。しかしトリックの衝撃度がそのままミステリーの小説としての評価にはならない。これは、お化け屋敷の中で最もびっくりしたところが、お化け屋敷的によく出来ているかといえば、そうでもないこともあるようなものだ(しかしお化け屋敷にほとんど行かないので詳しくは知らない)。
伊坂幸太郎よりも東野圭吾のほうが好きです。
靖子にとって、真相を知ることと知らないことと一体どういう違いがあるのか分からなかった。彼女にとってはどっちだって疚しいのは変わらないだろうと思うのだが。
彼女の最後の行動を計算できていない数学者を私は天才数学者とは呼びません。

「天才」と言われる人物を描くとどうしてもこぢんまりしたものになってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。そんなひと全然天才じゃないじゃん、と思ってしまう。
テレビで描かれるような太閤秀吉は太閤秀吉ではない、と小林秀雄も講演で語っていた。
そういえば、小林秀雄の声は俳優の松村達雄(二代目おいちゃん)に似ているのだということに何度か聞いていてやっと気付いた。
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☆よしもとばなな「ひとかげ」感想

2008年08月09日 22時38分48秒 | 文学
ひとかげ (幻冬舎文庫)よしもとばななの「ひとかげ」(幻冬舎文庫)をさっき買ってきて読んだ。
リメイク前の短編「とかげ」も収録されていてそれを先に読んで、リメイク版の「ひとかげ」を読んだ。
「とかげ」は刊行されたときも読んだはずなのだがまるっきり憶えていない。当時も好きじゃなかったはずだが、今回もあまりおもしろくなかった。
「ひとかげ」もあまり好きではない。
≪そんな修行みたいな気持ちで人の体に触っちゃだめだよ。つらい人ばかり集まってきて、遊びのようなものがなくなって、ますます真剣になって、つぶれてしまうよ。≫(43ページ)
と語り手が、とかげに言うのだが、確かに仰る通りもう少うし”遊び”が欲しい。
よしもとばななにはたまにこういう、会話で押し問答しているだけの小説がある。
そして僕はそういうのは好きじゃない。
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☆「小林秀雄講演 信ずることと考えること」

2008年08月09日 11時16分19秒 | 文学
信ずることと考えること―講義・質疑応答 (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第2巻)会社の”小林秀雄フレンド”(そんな特異なものが存在するのです)からCD「小林秀雄講演 信ずることと考えること」をお借りして聴く。
初めて小林秀雄の声を聞く。思っていたよりも柔らかい声だ。よく言われるように、確かに落語家みたい。
講演の内容はほんとに100%小林秀雄というか、ベルクソンというか、そんな感じなのだが、実際話しているのを聞くと感動する。小林秀雄の言うとおり、数値化できないものを捨ててしまう科学に具体的な人生はつかめないよ、って気分になる。
例えば、高校野球をスコアボードで結果を見るだけでは、具体的な感じは全く分からない。流れが変わって逆転しそうなあの感じとか、実際に試合を見ないと感じられない。
ボールが打たれて飛んでくるとき、フライかヒットかエラーか、ということになるのだけれど、野手が具体的に感じているもの、見ている人がそのとき感じるものはそういった数値化できるものだけではない。

小林秀雄が霊的な存在を信じているのに驚く。
僕自身は、霊的なものの存在を素直に信じるのは馬鹿だ、となぜだか素直に信じている。
ここはよく考えてみたい。
話に出てきた柳田国男に少し興味を持つ。
「山の人生」と「故郷七十年」。
批判的な目で歴史を読んでも駄目だ、ってところもすごいと思った。
小林秀雄は一貫してるな。

質問コーナーもあったのだが、昔の人は一般人でもきちんとしゃべるな、と思った。

たいへん良いものを貸して頂きました。
他の講演も気になる。買うべきかなあ。
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☆東野圭吾週間始まる(「予知夢」感想)

2008年08月08日 00時26分53秒 | 文学
ずっと話していて表面的には会話は成立しているが、なにか違和感を感じる場合、たとえば相手が自分のことを土星人だと思っていたり、連続殺人鬼だったり、そういうほんとうに根本的なところで共通認識が持てていないということがあると思う(土星人や連続殺人鬼と話をしたことはこれまでないけれど)。
ヘーゲルを読みながら、これはあのことかこのことかと考えるが、ほんとうは全く見当違いで、ヘーゲルは根本的にぜんぜん違うことを考えて書いているのかもしれない。
小学生のときにつたない言葉で発表したら先生がぜんぜん違う解釈をして、
「あなたはこういうことが言いたいの?」
「……うん。(違うような気がするけど、先生の言ってることもよくわかんないし)」
「まあすごい! すごいわ! 天才ね」
「でへへ。(ま、いいか)」
みたいなことがあった気がするが、実はヘーゲルは全く馬鹿なことを意味不明な言葉で綴っているだけなのにそれを無理にいいように解釈しようとしているだけなのかもしれない。
そういう疑念につきまとわれる本だ。
それは多かれ少なかれ全ての本、すべての会話に当てはまるのだけれど、ここまでそれを意識させる本は少ない。
「精神現象学」は何度も熟読しないと意味のつかめない本なのだろうが、僕としてはそこまでしなくてもいいかな。素人の気楽さだ。

予知夢 (文春文庫)東野圭吾の「予知夢」(文春文庫)を読み終える。
読みやすくて、おもしろい。
やっと福山雅治と柴咲コウの呪縛から逃れることが出来、ガリレオシリーズの続編を読むことができた。
東野圭吾は宮部みゆきよりも上だ。読んでいて恥ずかしくならない。これは大切なことだ。
あと僕の知っている現代ミステリー作家は高田崇史と京極夏彦と原りょうがいるが、高田崇史よりは上、京極夏彦とは同じかちょっと下(しかし僕は東野圭吾のほうが好き)、原りょうよりは下、という感じかな。
で、いまは、今月文庫になったのでガリレオシリーズの三作目「容疑者Xの献身」を読んでいる。
死んだ方がいい人間というのは確実に存在する。
そのように思わされる始まりなのでした。
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☆チャールズ・ラム/メアリー・ラム「シェイクスピア物語」下巻

2008年08月06日 01時17分43秒 | 文学
シェイクスピア物語 下チャールズ・ラムとメアリー・ラムの「シェイクスピア物語」(岩波文庫)の下巻を読んだ。
「ハムレット」を読んでいると、これは実は叔父はハムレットの父親を殺していないのかもしれない、と思えてきた。
この短編小説を読む限りでは、父親が叔父に殺された客観的な証拠は出てこない。
父の亡霊が出てきてハムレットに語るだけ。しかも亡霊は客観的な存在ではなく(当たり前だけど)、ハムレットの母親、つまり元妻にも見えない。
これは、母親と叔父の汚らわしい(と息子には感じられた)結婚に対する、息子の拒否の物語なのかもしれない。そして亡き父に救いを求める。
「オセロー」も妻が信じられなくなる男の話だった。
近しい人が信じられなくなる物語をシェイクスピアは繰り返し書いているのかもしれない。

NHKのテレビ番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」を見た。宮崎駿。
宮崎駿っておもしろいなと思ったが、最も強く思ったのはジブリでは働きたくないなということ。
噂には聞いていたが宮崎駿は厳しい。
相当ヘコむと思うので、あんなひとの下では働けない。
「崖の上のポニョ」をもう一度見たいとはいまは思わないけれど、他の宮崎駿作品を見たくなった。特に「もののけ姫」。シシ神の首が見たい。
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