”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「何故、1年で琉球新報社を退社したか」

2024年10月01日 | 「美ら島沖縄大使」便り
      
     (新報総局勤務時、嶋袋・友利先輩と)
 私は早稲田を卒業し琉球新報社の東京総局に記者として入社します。当時沖縄は未だ日本復帰前で、当時の霞が関の佐藤総理官邸での会見、手塚治虫等在京の著名人に「私と4.28」とのタイトルで取材した経験があります。「4.28」とは1952年4月28日から1972年の「本土復帰」までの20年間、サンフランシスコ講和条約によって在琉米国民政府による沖縄、奄美の被支配でした。
 そうした勤務時、当時の琉球新報の池宮城社長が東京総局に来られた際「重田!君も本社勤務を!」と言われ、「え!沖縄転勤ですか」と驚き、退社を決意しました。というのは沖縄はまだ日本復帰前で、私達沖縄在住の奄美出身は”納税義務あれど選挙権無し”等々の外人扱いで、当時の私は沖縄在住の妹・弟,両親一家の本土呼び寄せる責務を背負っていました。後に私は沖縄の高校を卒業した妹と弟を東京に呼び寄せ、更に両親も安謝の自宅を売却し埼玉に移住し今日に至ります。ことほどに当時の在沖奄美出身者は”脱沖縄”が生涯のテーマー?でした。しかし、この価値観は1972年の沖縄の日本復帰により、大きく転換します。今や沖縄はIターン憧憬の地となり、国内随一の移住人口増加地となっており、時代変換と価値観変動を感じます。
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「明大マンドリン演奏会。百瀬先生!有難う御座いました!」

2024年09月30日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                       
 9月24日、水道橋の「文京シッビクホール」で開催された明治大学マンドリンOB倶楽部の「演奏会」を今年も拝聴・堪能しました。毎年参加していますが、これは明大名誉教授でマンドリンクラブ顧問の百瀬恵夫博士の案内です。百瀬先生、毎々有難う御座います。
 先生は貴兄様が沖縄で戦死したこともあり、沖縄に浅からぬ思いがあり、重ね重ねお世話になっています。この日の2部は天童よしみさんのゲスト公演でしたが、一部の古賀メロディーには懐かしい!堪能感涙でした。いやはや、明大は縷々凄いですね!百瀬先生!有難う御座いました。いつまでもお元気で!
                     
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「先日の関東城岳同窓懇親会に参加出来ず残念(´;ω;`)

2024年09月26日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                        
  9月23日、神田メディアワンで開催された関東城岳同窓幹事会に出席しました。城岳同窓会とは沖縄県那覇高校の同窓会。この日の参加者は一橋大卒・元野村証券部長、横浜大卒・元GEアメリカ本社勤務、東北大卒の工学博士等々85歳を超える先輩連にお茶の水女子大卒・元㈱ソニーの研修部長の大濱多慧子会長に副会長、会計、公報編集担当等々全て女性担当に関東城岳同窓幹事会の刷新を感じました!女房の介護もあり、私は幹事会後の懇親会に参加出来ず残念(´;ω;`)
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「上野の田中一村展に行ってきました」

2024年09月24日 | 「美ら島沖縄大使」便り
         
 上野の「東京都美術館」で開催中の田中一村美術展に行ってきました。千葉出身の一村は50歳で奄美大島に移住、晩年まで風景、海、植物と我が故郷奄美大島を様々描きました。私は奄美の笠利村「田中一村記念館」にも行った記憶があります。この記念館の館長は元NHKアナウンサーで千葉商科大学教授の宮崎緑さんが務めています。これは千葉と奄美の縁か?私は宮崎さんともお会いしたことがあります。
                   
                   (かってお会いした宮崎緑さん!
             ~2016年・沖縄で)

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「大手町きゅりあん開催の「関東天城町会」に参加しました。

2024年09月24日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                      
  9月23日、大手町の品川区立総合区民会館「きゅうりあん」で開催された第68回「関東天城町会の総会・懇親会に参加しました。天城町とは奄美大島徳之島の町会です。この島は天城、伊仙、徳島3町からなっており、全国一の出生率の高さでも有名です。また、先日亡くなった日本最大の医療法人「徳洲会」創設の元衆院議員"徳田虎雄"や横綱"朝潮"の出身地です。当日は200人超える参加者。私は先日里村会長がわざわざ神田事務所に来られ、案内頂いたので参加したのですが、当日配布のアルバムに“郷友会協力会員”として私の名前が記載されているには恐縮!
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㈱CIJ株主総会に出席しました。

2024年09月20日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                                       
  9月19日、横浜のゲートタワービルで開催された㈱CIJ(坂元明彦社長)の第49回株主総会に出席しました。当日は200人近い参加者。当期売上高は257億、経常利益は20億!事業報告・決議の後行われ質疑で私の「当社の役員にはNTTデータと日立製作所出身が着任していますが、当社の売上に占める両社の比率は?」との質問に「当社売上に占める両社の比率は45%」との回答に改めてCIJ社の両社系列?を感得しました。
 実は私起業の日本アドバンスシステム社は創業30年を機に東証1部のこのCIJと株式交換・M&A後に筆頭子会社のCIJネクストに出資譲渡、私は会長・非常勤相談役を拝命、3年で退任し現在は過小株主です( ´艸`)

コメント (3)
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「琉球新報東京記者取材の思い出」

2024年09月19日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                   
   (安里積千代参議員と長嶺秋夫沖縄立法院議長と会食
                                                                 ~新報記者時代)
  私は琉球大を1年で退学、2浪の上,早稲田に入学,1965年卒業し、琉球新報東京支社に記者として入社します。僅か1年の勤務でしたが忘れられない取材記憶があります。この頃はまだ沖縄の日本復帰は実現せず、当時の佐藤総理の霞が関内閣府で取材しました。
 また、「私と4/28」というテーマで当時の東京の著名人数人に沖縄問題意識をインタビューしました。「4/28」とは言うまでもなく、沖縄、奄美を米国の施政権下に置いた沖縄にとって“屈辱の日“でした。その中で当時「鉄腕アトム」で日本の漫画界を席巻した伝説の手塚治虫にアポイントを取り、訪問、取材した忘れられない思い出があります。
 また、霞が関の議員会館で当時の安里積千代参議員・長嶺秋夫沖縄立法院議長と会食した思い出もあります。そんな新報記者を何故1年で辞めたのか!は次回!

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「何故、早大学費闘争で逮捕されたのか?」

2024年09月18日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                                 
 先に述べて大学での“学費値上げ闘争は”当時の東大もあり、学園闘争の一種でした。当時の早稲田大学の大浜信泉総長は沖縄八重山出身でクラスメートから「重田、お前大濱総長と同じ沖縄出身だから、総長の授業料値上げには反対できないだろう!」と言われ、“いや、俺は総長に賛同している訳ではない!”と反対闘争に加入した経緯があります。この授業料値上げ実現に伴い大濱総長が辞任しますが、この辞任の挨拶に接し、“故郷沖縄の大濱総長辞任に関わったか”と複雑な心境に陥りました。
 この頃、”大濱奨学生“として、毎年早稲田の各学部に一人ずつ沖縄から無試験で入学の制度がありました。また、沖縄地元有力企業からの授業料等の補助がありました。そうしたこともあり私はクラスメートから「重田、お前試験受けて入学したか?」と言われたこともあります。しかし、奄美出身の私にはそういう資格は無かったのです。東京では沖縄出身と言われながら、私にはこうした沖縄出身の資格は無かったのです。
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「日教組・けもの道」

2024年09月16日 | 「Weekly 読書感想」
      
 本書は元「日本教職員組合」書記長の渡久山長輝先輩から送付頂いた著書。表題の“けもの道!にもビックリですが、内容は淡々として組合活動歴史。我が郷土・沖縄の琉大OBの渡久山さんが、なぜ天下の日教組の書記長に就任されたの、その経緯に大変興味を持ち、本書を読みましたが(´;ω;`)
 かつて、沖縄の復帰運動を主導した沖縄県教職員組合と沖縄出身の渡久山日教組書記長には微妙な距離があり、そのあたり興味を抱きましたが本書には触れておらず(´;ω;`)
 今、東京県人会、関東沖縄経営者協会等在京の沖縄団体は神保町の「喜山俱楽部」を数多く利用させていただいていますが、これは渡久山さんとの縁ですが、この経緯を知る在京沖縄縄関係者は少ないようです。渡久山先輩とは八重山・東京の遠隔ながら碁友で時折電話で交友します。先輩、御書お送り頂き有難う御座いました。



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「早大在学中に逮捕留置される」

2024年09月12日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                     
                     (3泊4日留置された城東警察署)
 大学4年の時“学費値上げ反対”闘争で大学本部に寝泊まり闘争し、機動隊に排除逮捕され、江戸川区の城東警察署に送付され、3泊4日留置されます。ここでの尋問に黙秘したら“城東4号”として撮影・指紋接種され、霞が関の検察庁に送還され、検察官から尋問され、氏名を明らかにしました。ここで身元引受・保証人を問われ、在京の小中同窓友人の名前を言い、彼が霞が関の検察庁に来て、保証書を書かされ、「もし重田が再犯したら、彼も責任を問われる!」確認され釈放されました。検察庁から“東京検察庁です”と電話を貰った友人は最初冗談かと思ったそうです。
 城東警察署で留置され、忘れ難い思い出があります。それは猥褻物販売で逮捕され、同じ留置室にいたヤクザ?兄から「親御さんから折角大学進学されながら、つまらないことで逮捕され、いいのか!」と言われたことです。後で彼の育ち、閲歴を思いました。私は後の朝日新聞やNHK就職試験の不合格はこの逮捕歴が影響したのでは??
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「早大クラス雑誌の編集長を務める!」

2024年09月11日 | 「美ら島沖縄大使」便り
        
    (最終第4号のクラス雑誌・表号・表紙デザインも作成)

 私が入学した早大一文の「西洋史専攻クラス」で“クラス雑誌を作ろう”との声が上がり、有志投稿により1年に一冊、卒業までの4年間、4冊のクラス雑誌「蛙鳴」を出版しますが、最終編に何故か私が編集長を務めます。早大一文だけに今読んでも独特の個性あるエッセイの羅列です。投稿はクラスメンバーのほぼ半分ですが私は4冊全てに投稿!  
 発行当初はパソコンもWordもなく、原稿は全て手書コピーですが、4年版は印刷会社にWordコピー入力と印刷委託版になり、その最終版編集後記に私の担当記述があります。書名の「蛙鳴」は私より2期先輩浪の浅川さんが “蛙鳴蝉噪”を捩り命名。ともあれ、これもあれも文学部ならではの自嘲揶揄か!

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「早大在学中に家庭教師アルバイト」

2024年09月09日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                      
                    
  早大在学中、私は中野区新山通りの高尾家の4畳半で下宿していました。下宿とは言え食事提供は1年迄で2年からは近くの飲食店での外食生活でした。お風呂も週一回最寄りの風呂屋通い。中野区とは言え徒歩15分の京王線笹塚駅から新宿経由で高田馬場の早大文学部の戸山キャンパスに4年間通いました。
 中野区新山通りで下宿生活しつつ、近くの中野中学のPTA総会の校門口で参加の父兄に家庭教室チラシを配り、男女数人の中学生から応募受け、週1回下宿アパートに受け入れ家庭教師アルバイトで生活費を稼ぎました。これら教え子は今60代か?どうしているかな!!
 
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「早稲田大学で忘れられない思い出」 ~クラスメート女性に訛りを笑われる(´;ω;`)

2024年09月06日 | 「美ら島沖縄大使」便り
              
                 (卒業60年後の早大クラス集い)
 今回は早稲田大学在学中の忘れられない思い出?をいくつか紹介します。私が入学した早大一文の西洋史専攻クラスはほぼ50人!何故か私はクラス委員長に任命されました。その時議長を務めて、私が発言する度にニコッと微笑むクラスメートの女性がおり、“彼女!俺のこと気に入ているな”と思い、会議終了後声を掛けたところ“だって、重田さん!学生(ガクセイ)をガクシエイというし、生活(セイカツ)をシエイカツと発音するので可笑しくて!”と言われ、愕然!ショックを受けました。その時、初めて “セ”を”シエ“と発音する我々沖縄・奄美出身者する発声訛りを自覚しました。
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「早稲田大学文学部に入学し仰天!」

2024年08月31日 | 「美ら島沖縄大使」便り
           
      (画面中央で”西洋史”を掲げる私!)
 第一志望の早大法学部に不合格、第2志望の文学部(西洋史専攻)に入学、仰天しました。50人近いクラスメンバーの半分は女性!この女性の殆どは桜陰、浦和一女等々の首都圏名門高出身の現役に対し、男性の現役入学は数名で、なんと殆どが浪人で最長は7年浪人。3浪の私と同期は4人で、沖縄出身の私以外に四国、九州、東北等々の地方出身でした。現役入学の一人がこのクラス・カルチャー?を嫌悪し、転部したのを覚えています。クラス中間の3浪の私は何故か入学記念撮影にクラスカードの掲示役になりました。
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「早稲田を卒業、琉球新報に入社」

2024年08月29日 | 「美ら島沖縄大使」便り
       
    (私が入社時の伊豆見、島袋、三木先輩等々の新報東京スッタフ)

 東京丸の内の琉球新報社の支社で伊豆見支社長(後の社長)、島袋浩部長等から面接を受け合格採用通知を受けましたが、第一志望の朝日やNHKに失敗し、沖縄就職には抵抗があり「東京勤務なら!」申し出たら「分かった!東京総局勤務」と了解を受け入社受諾しました。後で聞いたところ、この年の入社試験では私は一番とのことでした。今でも覚えていますがこの時の入社試験に“県民性について!という課題があり、私は”県民性は海や山の自然環境等に支配形成されるが、これを克服する意志意向を必要“云々の論評を書いた覚えがあります。後に当時東京支社の営業部長の先輩から「重田、君は入社試験の論文は一番だったけど、英語は琉大卒の受験生が上だったよ」と言われました。この営業部長は私と同じ奄美出身で「君は俺と同じ大島出身だから部長にはなれるが社長は無理だよ」と冗句されました。当時の新報の池宮城社長や伊豆見東京支社長、島袋部長と全て早稲田出身でこうした縁で私は評価されたようです。
 新報東京支社に入社した頃は沖縄の日本復帰運動時代で私は当時の佐藤栄作総理事務所にも取材しました。ただ、私は朝日やNHK入社志望がならず、新報入社は“落ちこぼれ”感があり1年で退社します。
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朝吼夕嘆

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