さつま揚げ考

2011-02-01 00:00:05 | あじ
12月、1月と二回にわけて鹿児島に行ったのだが、1度目に食べなかった「さつま揚げ」を2度目の訪鹿時に食する。それも、山盛り。

satsumaage

しかし、何でもそうだが、本場の食物って、大量に食べても飽きないわけだ。(知人は、さつま揚げだけはゴメンだ。と言っていたが、私はまったく美味しいなと思ったので、若干味覚が異なるのかもしれないが、そういえば子供のころからさつま揚げは好きな食べ物だった)

で、「さつま揚げ考」を始めようと言うのだが、そのネーミングである。確かに関東では、「さつま揚げ」と呼ぶのだが、中部地方では、「はんぺん」と言うらしい。ところが関東ではんぺんというと、おでんの具になる。

さらに西に行って、関西では「天ぷら」と呼ばれる。では、東京で天ぷらと呼ばれる、衣のついた揚げもの関西では何と呼ぶかというと、やはり「天ぷら」らしい。つまり、天ぷらAと天ぷらBがあることになる。

また、北海道でも「天ぷら」らしい。

さらに広島に行くと、またも「はんぺん」だそうだ。そして、もっと西に行って、鹿児島に到着すると、本場では「つけ揚げ」と呼ぶようだ。さらに沖縄に行くと「チギアギー」ということになるが、この「つけ揚げ」と「チギアギー」は同一読みということらしい。

それで、チギアギーがつけ揚げになったという説がある。この説だと、幕末の1864年に琉球からチギアギーが渡来したことになり、それが江戸に渡り、さつま揚げとなった、ということになる。西から東へだ。

しかし、その他、重要な異説がある。元々、江戸の蒲鉾やはんぺんを油で揚げてさらに加工したという説で、これでは東から西へ、そして沖縄へ伝わっていったことになる。年代的には島津斉彬の頃で1840~1850年の頃だ。

そして、結局は薩摩は幕府と戦争状態に入るのだが、実際には、薩摩藩の所有船が、現在の三田駅のあたりに、専用の船着き場(プライベートバース)を確保して、そこから江戸市内と交易を行っていたそうだ。実は、西郷・勝会談が行われたのが、薩摩藩蔵屋敷と言われていて、この倉屋敷の裏手がそのバースだった。

もともと、江戸時代の最初から、徳川家が崩壊して次に政権を担える大名として、1に薩摩、2に前田、3に伊達と言われていたのだから、薩摩藩も幕藩体制を維持するための重要なキープレーヤーだった。A説の場合は明治になって薩摩人が大挙東京に出る時に、一緒に持って行ったということになり、B説の場合は、江戸食文化の末流として薩摩が受け入れた、ということになる。

ともかく、酒を合わせた場合、日本酒よりも芋焼酎の方がピッタリだと思うわけだ。


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