宇喜多氏と長曾我部氏(岡山県立博物館)

2015-02-08 00:00:49 | 美術館・博物館・工芸品
岡山県と高知県は文化交流を行っていて、両県の戦国時代の盟主である宇喜多氏と長曾我部氏についての特別展が開催中である。

展示についての話の前に二点。まず、岡山と高知というが、間に香川県がある。隣の県とは仲が悪いということだろうか。毛沢東語録にもそういうことが書かれていた。近くの敵を攻めるには遠くに味方を作ること。弊国のリーダーも毛理論を信じている。

次に、岡山県立博物館は、一言でいうと、ボロい。全国有数のボロさだ。一方、県立美術館は立派だ。この博物館と美術館、そして音楽ホールの序列というのはところによって異なる。もちろん、美術館は収蔵品をカネで買うことができるが、博物館の場合、そういうわけにはいかない。地元の歴史的価値による。そういう意味で岡山は吉備の国といわれる4世紀の頃からの歴史があるのだが、そういうことは博物館ではわからない。

うっすら感じるのだが、吉備に存在した権力というのは、大和朝廷と戦って敗れ、滅亡したか屈服したかどちらかだろう。そして大和朝廷はその後、出雲の勢力も打ち破ることになる。出雲は土地の神様までも大和朝廷に奪われた。どうも吉備の国の自慢をすることが、朝廷(つまり天皇家)を侮辱することになると思っているのだろう。なにごとも曖昧にしたままだ。戦後日本も同じ。

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で、さっそく宇喜多家と長曾我部家。この展覧会を機に、両家の比較をしてみたのだが、異論はあるだろうが、長曾我部家の方が戦国的といえる。祖先ははっきりしないが、自称秦氏の末裔。大阪夏の陣で一家滅亡したため、証拠品は何も残っていない。しかし、高知(土佐)を拠点とし、阿波(徳島)、讃岐(香川)、伊予(愛媛)を長い期間をかけて長曾我部元親が攻略。四国統一を果たす。

一方で、織田家とは明智光秀のとりなしで中立状態を作っていたが、明智による信長暗殺と豊臣秀吉による逆襲により、徐々に窮地に追い込まれて行く。そして、四国の四カ国を制覇したとほぼ同時に、むちゃな要求が伝えられる。「伊予、讃岐と阿波の北半分を差しだしなさい」ということ。つまり残りは1.5カ国だけになる。まったく割が合わない。みかじめ料と同じだ。

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そして、シカトし続けていたところ、仲介者から手紙が届く。「早く諦めて、秀吉に忠誠を誓い、次のチャンスを待て」ということなのだが、その手紙が展示されていた。かなり取り乱した文字であるが、すべて遠まわしに書かれている。実際、無学の大名であったら、手紙の意を取り違え、大失敗することもあっただろう。そして、元親は秀吉の部下になり、小田原攻めに大活躍する。というか海からの補給路を長曾我部海軍が封鎖したため、難航不落の巨城もついに開城された。

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その後、子供の代になり大阪夏の陣にてお家滅亡となる。いかにも戦国武将らしい。

一方の宇喜多氏だが、宇喜多秀家の数奇な運命に尽きるだろう。戦国大名であり、まずは岡山市のあたりの地方勢力を粉砕。毛利と秀吉の間を行ったり来たりして二枚舌外交を行う。そして、いつしか秀吉のお気に入りになり、秀家という名前に「秀」の文字を頂戴することになる。そして朝鮮攻撃の時には中心人物として大暴れをして、朝鮮史の中では、今でも鬼のように嫌われている。

そして、秀吉死去以降の豊臣方の中心人物で石田三成と共に家康と戦うも、小早川の裏切りを見て、早々と戦場から逃げだし、山中を放浪した後、こちらも逃げ切った島津氏に匿われるが、犯人隠匿罪を恐れた島津家は幕府に秀家を差し出す。まったく醜いドタバタだ。その結果、秀家は八丈島に流罪となるのだが、島の生活が健康だったのか、そこから長生きを続け、四代将軍の時期まで生存。現地妻との間に子供も生まれ、宇喜多改め浮田氏を名乗る。

実は、岡山には江戸時代から浮田姓が多く、世界初の大空滑空をした浮田幸吉という人物もいる。

ところで、きょう書いたことは、ほとんど展覧会では登場しない。個人的知識である。今回の展覧会の最大の見どころは、やはり、乱れた文字の一刻の余裕もない手紙ではないだろうか。