備中松山城再訪(1/2)

2013-08-05 00:00:45 | The 城
以前、備中松山城へ上ったのは2005年2月。真冬だ。8年半はあっという間のような気がする。雪の大量に残る道をビジネスシューズで歩くとは無謀そのものだったが、そもそも古城歩きなんて、無謀なのだ。

当時は、伯備線で倉敷から米子方面に本州を中に横断する途中の備中高梁(たかはし)駅からタクシー4千円ほどで、登山口とよぶべき「ふいご峠」まで行って、それから城攻めに入った。

この伯備線というのは、中国山地から瀬戸内海に注ぐ高梁川の大渓谷沿いを南北に走るのだが、電車の中から観察すると、中国山地という日本最古級の山脈が太平洋側から大陸側へのプレートの圧力で盛り上がる過程で、山中の水の逃げ道として数千万年かけて浸食を続けた結果、ここに超巨大な谷川が形成されたわけだ。だから、このあたりは絶景なのだ。

そして、川と鉄道の間の狭い場所に無理やり道路がある。というかこの道も古代日本の出雲政権と大和朝廷の激しい戦いが行われた歴史街道なのである。このあたり一帯の地名って、簡単には読めないのだが、それはいずれ稿を改めて。

そして、その後の歴史では、山陽と山陰の勢力が、いつもこの辺りで衝突して、多くの戦いが起きている。血塗られた道である。

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もちろん現代では、美しい景色に見とれたり、運転中に写真を撮ったり、信号がないためスピードを出しすぎたりして事故が絶えず、そのたび、重大な結果となる。もちろん山塊中の亡霊たちの「おいでおいで」の結果だ。


そして、今回はクルマで途中の駐車場まで行き、さらに、ふいご峠まで、マイクロバスに乗り換え、そこから夏の山道である。ものすごく暑い。この南北の渓谷を通って、熱風が南から上がったり北から下りたりする。何しろ、以前来たのは8年以上前だ。鼓膜に違和感が出てくる。山城。標高430メートルを目指す。道は石段があったりベアグラだったり、雪道を上った無謀を8年後の自分が糾弾。

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立札がある。

「登城心得:あわてず ゆっくり歩むべし 城主」

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城主って誰だろう? 市長か?県知事?大臣?総理大臣?

何しろ、この城の城主って、異様に変わりまくっている。秋庭→高橋→高→秋庭→上野→庄→三村→毛利→小堀→池田→水谷→浅野→安藤→石川→板倉

戦国時代という範疇でいくと、庄家の時に上野家を滅ぼして入城、二代後に三村・毛利連合と戦って戦死。次に三村家は毛利の大群に囲まれ滅亡。毛利が関ヶ原で西軍に属したため、領地没収。急きょ徳川家の代官(小堀)が入場。その後、池田家を経て水谷家になり城下を整備したのだが、仕事熱心が行きすぎ、跡継ぎを作るのを後回しにしたため、改易となる。要するに、政務を後回しにして子作りに励ましてバカ殿ばかりにしようというのが徳川幕府の管理術だった。

そこで登場したのが、あの浅野内匠頭である。赤穂藩より城の貰い受けに行ったのが、大石内蔵助。城番として1年間ここにいるうちに、主君が江戸城内でご乱心。1年後には、次の安藤家(高崎藩より入封)に明け渡すことになる。ああ無情だ。

その後も幕府のトレード方針で、石川家、板倉家と続く。幕末の板倉勝静はついに老中首座となり慶喜を補佐するが、それがため戊辰戦争では朝敵とされ、この山を包囲される。そして無血開城を果たしている。

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こんな難攻不落の地でも、戦いは起こり、重装備の武士には苦痛しかなく、逃げ道のない山城では、必然的に多数の死者が首を切られ、胴体は山中の野獣の餌食となり、あるいは、数百メートル落下し、高梁川の流れに乗って瀬戸内海に流れていき、鯛や平目の餌になる。

戦国時代に生きていたら武士なんてなるものじゃない。とはいえ、その後の江戸時代は武士だけが人間だったわけだ。

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しかし、汗が流れ落ち、心臓は苦しいし、笑っているのはヒザだけだ。眼下には、絶壁と谷底。