「木本事件」は終っていない
―― いま、「木本人」はなぜ朝鮮人虐殺を肯定するのか ――
■「木本事件」の発端
10年あまり前の2006年2月8日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ブログを開設し、いご、ほぼ毎日更新してきました。
このブログに、会員の佐藤正人が、2011年4月4日に、「「木本事件」の発端」という文章を書き入れました。
その全文は、つぎのとおりです。
………………………………………………
1994年10月に建立した李基允さんと裵相度さんを追悼する碑の碑文の前半は、つぎのとおりです。
「一九二五年一月、三重県が発注した木本トンネルの工事がはじめられました。この工事には、遠く朝鮮から、もっとも多いときで二〇〇人の朝鮮人が働きに来ていました。
工事が終わりに近づいた一九二六年一月二日、朝鮮人労働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられました。翌一月三日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木本の住民が労働者の飯場をおそい、立ち向かった李基允氏が殺されました。 さらに木本警察署長の要請をうけて木本町長が召集した在郷軍人らの手によって、裵相度氏が路上で殺されました。
その時から三日間、木本町や近隣の村々(現熊野市)の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人を追跡し、とらえました」。
………………………………………………
ここに、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、「朝鮮人労働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられました」とだけ書いていますが、その詳細は、「事件」直後の1926年1月5日付『紀伊新報』には、つぎのように書かれています。
「〔二日夜木本町明治座で〕泊トンネル工事中の鮮人工夫某が無料で入場せんとし
橋本某及新宮町森永光夫(二一)と口論を初め……光夫は日本刀を携へて来り、鮮
人工夫の肩も骨も砕ける程殴り鮮人は血煙と共に昏倒したこの報をきいて飯場の鮮
人は劇場に殺到したが……仲介者があつて和解し、……手打ちの宴を催したが、之
をきいた親爺〔親地〕町の漁夫連は鮮人を応懲すべしと三日応戦の準備を整へ、鮮人
側が大挙してダイナマイトで木ノ本町を灰燼にするとの流言蜚語盛で、町内各戸は戸
を閉鎖し遂に前記の如き惨事を起こしたものである」。
1926年1月21日に、朝鮮総督府警務局は日本三重県における「事件」の経過を発表しました。1月23日付『東亜日報』は、その内容を、「日本人の軽挙妄動が原因、三重県血闘事件真相。総督府警務局発表」と題して報道しました。その記事の冒頭部には、つぎのように書かれています。
「この事件が最初に起きたのは、去る二日午後一〇時ころであった。
三重県南牟婁郡木本町と泊村間のトンネル工事に従事していた朝鮮人労働者金明九
外二名が、ちょうど木本町の栄町にある明治座で活動写真を見ていた友だちに会おうと
してその劇場に行った。興行主岡崎與市に面会を求めたところ、彼はその要求を拒絶し
たため言い争いになり、日本人側が突然懐中短刀を取りだして前記金明九の胸を刺して
負傷させたのがこの事件の発端となり……」。
「事件」2日後の1月5日付『紀伊新報』の記事と1月21日の朝鮮総督府警務局の発表に基づく1月23日付『東亜日報』の記事によると、明治座で映画を見ていた友人に会おうとして入場を求めた金明九さんを日本人が刀で重傷を負わせ、さらに、「〔朝鮮人が〕ダイナマイトで木ノ本町を灰燼にするとの流言蜚語」が流されたことが、町民による朝鮮人襲撃・虐殺という「事件」の発端でした。
http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/8a77fe5453a03b82d538d3034d93446c
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
―― いま、「木本人」はなぜ朝鮮人虐殺を肯定するのか ――
■「木本事件」の発端
10年あまり前の2006年2月8日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ブログを開設し、いご、ほぼ毎日更新してきました。
このブログに、会員の佐藤正人が、2011年4月4日に、「「木本事件」の発端」という文章を書き入れました。
その全文は、つぎのとおりです。
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1994年10月に建立した李基允さんと裵相度さんを追悼する碑の碑文の前半は、つぎのとおりです。
「一九二五年一月、三重県が発注した木本トンネルの工事がはじめられました。この工事には、遠く朝鮮から、もっとも多いときで二〇〇人の朝鮮人が働きに来ていました。
工事が終わりに近づいた一九二六年一月二日、朝鮮人労働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられました。翌一月三日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木本の住民が労働者の飯場をおそい、立ち向かった李基允氏が殺されました。 さらに木本警察署長の要請をうけて木本町長が召集した在郷軍人らの手によって、裵相度氏が路上で殺されました。
その時から三日間、木本町や近隣の村々(現熊野市)の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人を追跡し、とらえました」。
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ここに、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、「朝鮮人労働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられました」とだけ書いていますが、その詳細は、「事件」直後の1926年1月5日付『紀伊新報』には、つぎのように書かれています。
「〔二日夜木本町明治座で〕泊トンネル工事中の鮮人工夫某が無料で入場せんとし
橋本某及新宮町森永光夫(二一)と口論を初め……光夫は日本刀を携へて来り、鮮
人工夫の肩も骨も砕ける程殴り鮮人は血煙と共に昏倒したこの報をきいて飯場の鮮
人は劇場に殺到したが……仲介者があつて和解し、……手打ちの宴を催したが、之
をきいた親爺〔親地〕町の漁夫連は鮮人を応懲すべしと三日応戦の準備を整へ、鮮人
側が大挙してダイナマイトで木ノ本町を灰燼にするとの流言蜚語盛で、町内各戸は戸
を閉鎖し遂に前記の如き惨事を起こしたものである」。
1926年1月21日に、朝鮮総督府警務局は日本三重県における「事件」の経過を発表しました。1月23日付『東亜日報』は、その内容を、「日本人の軽挙妄動が原因、三重県血闘事件真相。総督府警務局発表」と題して報道しました。その記事の冒頭部には、つぎのように書かれています。
「この事件が最初に起きたのは、去る二日午後一〇時ころであった。
三重県南牟婁郡木本町と泊村間のトンネル工事に従事していた朝鮮人労働者金明九
外二名が、ちょうど木本町の栄町にある明治座で活動写真を見ていた友だちに会おうと
してその劇場に行った。興行主岡崎與市に面会を求めたところ、彼はその要求を拒絶し
たため言い争いになり、日本人側が突然懐中短刀を取りだして前記金明九の胸を刺して
負傷させたのがこの事件の発端となり……」。
「事件」2日後の1月5日付『紀伊新報』の記事と1月21日の朝鮮総督府警務局の発表に基づく1月23日付『東亜日報』の記事によると、明治座で映画を見ていた友人に会おうとして入場を求めた金明九さんを日本人が刀で重傷を負わせ、さらに、「〔朝鮮人が〕ダイナマイトで木ノ本町を灰燼にするとの流言蜚語」が流されたことが、町民による朝鮮人襲撃・虐殺という「事件」の発端でした。
http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/8a77fe5453a03b82d538d3034d93446c
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会