今日(11月27日)は朝から雨が降り続いていました。
午後1時から、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の広場で、9回の追悼する集会(기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 모임)が開かれました。
はじめに、八王子からきたUさんによってユーフォニウムによる「ありらん」が演奏されたあと、会員の竹本昇さんが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地にたいする熊野市の課税に抗議する裁判について報告しました(対熊野市第2訴訟の経過については、このブログの2016年3月7日の「裁判官の侵略責任(戦争責任、植民地支配責任、戦後責任)」、2016年11月4日の「熊野市を被告とする第2訴訟の経過」などをみてください)。
この報告の最後に、竹本昇は、「わたしたちは、敗訴しましたが、司法の侵略責任を質した有意義な訴訟でした」とのべました。
つぎに会員の佐藤正人が、「紀州鉱山と海南島」という主題で報告しました。佐藤は、
「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、
追悼碑を建立した翌年の1995年から紀州鉱山に強制連行された朝鮮人について調査
を開始しました。
1992年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が創立されました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、13年間、紀州鉱山にかかわる歴史的事実の
調査をつづけ、2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼碑を建立
しました。
それから6年8か月が経ったいま、わたしたちは日本政府・日本企業の他地域他国
侵略の歴史に対決していく民衆運動をさらに深め広げていかなかなければならない
と考えています。
石原産業は、海南島でもマレイシアでも、フィリピンでも多くの民衆のいのちを犠牲
にして鉱物資源を略奪していました。海南島では日本窒素や三菱鉱業も大規模の企
業犯罪をおこなっていました。日本窒素も石原産業も日本国内で毒物を放出し多くの
人の命と健康を奪ってきました。
石原産業と日本窒素の海南島、朝鮮……における侵略犯罪を日本政府・日本企業
の侵略犯罪のなかで把握し、アイヌモシリ侵略以後の日本の他地域他国侵略の歴史
と対決する民衆運動を、これからさらに紀州鉱山の真実を明らかにする会は深め強め
ていきたいと考えています」、
と話しました。
そのあと、雨の中、追悼碑のまえの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名を記した35個の石の一人ひとり(ひとつひとつ)に花をおくり、献杯しました。
それから、参加者一人ひとりが、思いを語りました。
Aさん:わたしは京都の丹波で生まれた中国人です。母は朝鮮の釜山に生まれ、日本に
来て盧溝橋事変の前に都会の排外的な空気を避けて丹波に住むようになりました。
母は反物の行商をやっており、幼かったですがわたしも母に連れられて一緒に行
ってました。中国人ということでよくいじめられました。「軍人遺族の家」というのが
あって、その家の前を通ると“自分の息子が大陸で中国人兵士に殺された”といって犬
をけしかけて“シナ人来るな”と脅されたこともありました。母子で田んぼのあぜ道
を逃げて、売り物の反物が田んぼのなかに落ちて母と一緒に田んぼの中に入って拾っ
たこともありました。母は谷川でそれを洗い木に干しました。母は空に向かって朝鮮
語で“アイゴー、アイゴー”といって日本人をののしり涙を流していました。
ここに来て、故郷の丹波のことを思い出しました。マンガン鉱の採掘の為に多くの
朝鮮人が連れられて来て被差別の人も住まないような山の裾にみすぼらしい
杉皮葺きの小屋を建てて住んでいました。多くの朝鮮人がじん肺などで死んだと聞
きました。
わたしは2005年まで、南京攻略戦に参加した日本兵を探しに三重県になんど
も来ました。三重の33連隊は南京大虐殺で城内と揚子江岸で虐殺に大きくかか
わった部隊です。兵士達が昔のままの思想で如何に多くの中国人を虐殺したか、
女性を次々と強姦したかを誇らしげ語っていたのに、私の体が怒りに震えるのを
止めることはできませんでした。
中国人も朝鮮人も日本人も、加害民族と被害民族ではその立場は異なります
が、過去の歴史を如何に受けつぐかということは大切だと思います。
1923年9月の関東大地震のときに東京神奈川で1千人近い中国人が虐殺され
ました。
わたしは4年前からその中国人労働者の遺族とともに、日本政府に謝罪と賠償
を求める運動をすすめています。また、花岡事件の被害者や大阪港に強制連行さ
れた被害者と共に、日本政府の戦争犯罪を追求する国賠訴訟に係わっています。
これらは半世紀前或いは1世紀前のことですが、過去の過ちは正しく清算されない
限り、人類の進歩はありません。
いまの日本は歴史をゆがめ、他民族を排外する傾向が強くなっていると感じて
います。あの時代と同じ空気ですね。覆われてきた歴史のベールをはいで、いま
こそ、歴史の真実を我々自身にとりもどさなければならないと思います。
紀州鉱山の真実を明らかにする会の集会には、はじめて参加しましたが、ずっと
まえから参加したいと思ってました。中朝日の連帯の上に、共に未来をきりひらい
ていく運動をすすめていきましょう。
Bさん:八王子から来ました。一人の日本人として歴史を背負って生きていこうと思ってます。
Cさん:いま、韓中日の民衆の連帯の深まりを感じています。
Dさん:日本の学校での在日朝鮮人の教育にかかわわっています。自分の名前を名のれる
社会をつくっていきたいと思っています。
Eさん:紀州鉱山の真実を明らかにする会の日本人は加害の歴史的責任をとろうとして運動
しているように感じています。在日2世としていっしょに運動をすすめていきたいと思
います。
Fさん:千葉から子ども3人と母といっしょに来ました。子どもたちが自分でどのように歴史
を知っていくかは、まだ幼いのでわかりません。しかし、ここに来ると歴史を知ること
の大切さはわかっていくと思います。
Gさん:去年も今年も雨が降りました。犠牲者のくやし涙だと思います。そのくやしさをうけ
とめて、今日から来年までの1年間を生きていこうと思います。
佐藤正人
午後1時から、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の広場で、9回の追悼する集会(기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 모임)が開かれました。
はじめに、八王子からきたUさんによってユーフォニウムによる「ありらん」が演奏されたあと、会員の竹本昇さんが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地にたいする熊野市の課税に抗議する裁判について報告しました(対熊野市第2訴訟の経過については、このブログの2016年3月7日の「裁判官の侵略責任(戦争責任、植民地支配責任、戦後責任)」、2016年11月4日の「熊野市を被告とする第2訴訟の経過」などをみてください)。
この報告の最後に、竹本昇は、「わたしたちは、敗訴しましたが、司法の侵略責任を質した有意義な訴訟でした」とのべました。
つぎに会員の佐藤正人が、「紀州鉱山と海南島」という主題で報告しました。佐藤は、
「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、
追悼碑を建立した翌年の1995年から紀州鉱山に強制連行された朝鮮人について調査
を開始しました。
1992年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が創立されました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、13年間、紀州鉱山にかかわる歴史的事実の
調査をつづけ、2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼碑を建立
しました。
それから6年8か月が経ったいま、わたしたちは日本政府・日本企業の他地域他国
侵略の歴史に対決していく民衆運動をさらに深め広げていかなかなければならない
と考えています。
石原産業は、海南島でもマレイシアでも、フィリピンでも多くの民衆のいのちを犠牲
にして鉱物資源を略奪していました。海南島では日本窒素や三菱鉱業も大規模の企
業犯罪をおこなっていました。日本窒素も石原産業も日本国内で毒物を放出し多くの
人の命と健康を奪ってきました。
石原産業と日本窒素の海南島、朝鮮……における侵略犯罪を日本政府・日本企業
の侵略犯罪のなかで把握し、アイヌモシリ侵略以後の日本の他地域他国侵略の歴史
と対決する民衆運動を、これからさらに紀州鉱山の真実を明らかにする会は深め強め
ていきたいと考えています」、
と話しました。
そのあと、雨の中、追悼碑のまえの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名を記した35個の石の一人ひとり(ひとつひとつ)に花をおくり、献杯しました。
それから、参加者一人ひとりが、思いを語りました。
Aさん:わたしは京都の丹波で生まれた中国人です。母は朝鮮の釜山に生まれ、日本に
来て盧溝橋事変の前に都会の排外的な空気を避けて丹波に住むようになりました。
母は反物の行商をやっており、幼かったですがわたしも母に連れられて一緒に行
ってました。中国人ということでよくいじめられました。「軍人遺族の家」というのが
あって、その家の前を通ると“自分の息子が大陸で中国人兵士に殺された”といって犬
をけしかけて“シナ人来るな”と脅されたこともありました。母子で田んぼのあぜ道
を逃げて、売り物の反物が田んぼのなかに落ちて母と一緒に田んぼの中に入って拾っ
たこともありました。母は谷川でそれを洗い木に干しました。母は空に向かって朝鮮
語で“アイゴー、アイゴー”といって日本人をののしり涙を流していました。
ここに来て、故郷の丹波のことを思い出しました。マンガン鉱の採掘の為に多くの
朝鮮人が連れられて来て被差別の人も住まないような山の裾にみすぼらしい
杉皮葺きの小屋を建てて住んでいました。多くの朝鮮人がじん肺などで死んだと聞
きました。
わたしは2005年まで、南京攻略戦に参加した日本兵を探しに三重県になんど
も来ました。三重の33連隊は南京大虐殺で城内と揚子江岸で虐殺に大きくかか
わった部隊です。兵士達が昔のままの思想で如何に多くの中国人を虐殺したか、
女性を次々と強姦したかを誇らしげ語っていたのに、私の体が怒りに震えるのを
止めることはできませんでした。
中国人も朝鮮人も日本人も、加害民族と被害民族ではその立場は異なります
が、過去の歴史を如何に受けつぐかということは大切だと思います。
1923年9月の関東大地震のときに東京神奈川で1千人近い中国人が虐殺され
ました。
わたしは4年前からその中国人労働者の遺族とともに、日本政府に謝罪と賠償
を求める運動をすすめています。また、花岡事件の被害者や大阪港に強制連行さ
れた被害者と共に、日本政府の戦争犯罪を追求する国賠訴訟に係わっています。
これらは半世紀前或いは1世紀前のことですが、過去の過ちは正しく清算されない
限り、人類の進歩はありません。
いまの日本は歴史をゆがめ、他民族を排外する傾向が強くなっていると感じて
います。あの時代と同じ空気ですね。覆われてきた歴史のベールをはいで、いま
こそ、歴史の真実を我々自身にとりもどさなければならないと思います。
紀州鉱山の真実を明らかにする会の集会には、はじめて参加しましたが、ずっと
まえから参加したいと思ってました。中朝日の連帯の上に、共に未来をきりひらい
ていく運動をすすめていきましょう。
Bさん:八王子から来ました。一人の日本人として歴史を背負って生きていこうと思ってます。
Cさん:いま、韓中日の民衆の連帯の深まりを感じています。
Dさん:日本の学校での在日朝鮮人の教育にかかわわっています。自分の名前を名のれる
社会をつくっていきたいと思っています。
Eさん:紀州鉱山の真実を明らかにする会の日本人は加害の歴史的責任をとろうとして運動
しているように感じています。在日2世としていっしょに運動をすすめていきたいと思
います。
Fさん:千葉から子ども3人と母といっしょに来ました。子どもたちが自分でどのように歴史
を知っていくかは、まだ幼いのでわかりません。しかし、ここに来ると歴史を知ること
の大切さはわかっていくと思います。
Gさん:去年も今年も雨が降りました。犠牲者のくやし涙だと思います。そのくやしさをうけ
とめて、今日から来年までの1年間を生きていこうと思います。
佐藤正人