三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 10

2012年01月12日 | 海南島史研究
■フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」8
 フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」には、佐世保海軍刑務所に入れられたあと死亡した朝鮮人青年2人の記録が含まれています。
 一人は、1944年8月1日に「鎮海海兵団」に入り「海軍2等水兵」となった慶尚南道出身の「大村仁士」さん(1924年生。本名不明)です。
 記録紙には、1944年12月11日の箇所に「14 30頃脱隊逃亡行方不明トナル」、12月22日の箇所に「戦時逃亡被告事件ニヨリ鎮海海軍刑務所ニ勾留」、1945年1月12日の箇所に「戦時逃亡ノ罪ニ依リ懲役十月ニ処ス」、「佐世保海軍刑務所ニ移監」、1945年6月7日の箇所に「死亡」と書かれています。
 一人は、1944年11月1日に「鎮海海兵団」に入り「海軍2等水兵」となった全羅南道出身の「天安鐘煕」さん(1927年生。本名、安鐘煕?)です。
 記録紙には、1945年2月○日の箇所に「治安維持法違反被告事件ニ依リ鎮海海軍刑務所に勾留」、3月27日の箇所に「治安維持法違反ノ罪ニ依リ懲役一年六月ニ処ス」、4月12日の箇所に「佐世保海軍刑務所ニ移監」、1945年9月10日の箇所に「不馴化性全身衰弱症ト診定所内治療」、9月22日の箇所に「09 35 病死(佐世保市稲荷町五五三ノ一)」、下欄に「遺骨遺留品は佐世保刑務所で処理した筈」と書かれています。
                                         佐藤正人


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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 9

2012年01月11日 | 海南島史研究
■フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」7
 フィルム番号1217の「旧海軍軍人履歴原表」に掲載されている海南島に向けて送りだされた朝鮮人青年は、ほとんどが「鎮海海兵団」に入団した「海軍特別志願兵」の第1期生ですが、2人だけ、第2期生(あるいは第3期生)だった人がいます。
 2人は、1944年8月1日に「鎮海海兵団」に入り「海軍2等水兵」となり、10月20日に日本千葉県にあった館山砲術学校に入って「特第12期普通科砲術練習生(陸上対空機銃)」となり、1945年2月5日に舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に「配属」されていました。
 2人の個人記録紙には、1945年4月30日の箇所に「美保丸に便乗赴任の途中黄海方面で乗船遭難。戦死認定。攻撃により沈没。海軍上等水兵ヲ命ズ(特進)。遺留品なし」と書かれており、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印が押されています。
                                          佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 8

2012年01月10日 | 海南島史研究
■フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」6
 バシー海峡で生き残った人たちの一部は1944年11月11日にマニラ港からベトナム経由で海南島に向かいましたが、ほかの人たちは、当初の目的地であった海南島に行かず、フィリピンの日本軍部隊に留まりました。
 フィルム番号1217の「旧海軍軍人履歴原表」には、フィリピンで死亡した10人の朝鮮人青年の個人記録が含まれています。鎮海を出発するとき、かれら10人のうち、1人は日本海軍海南警備府第15警備隊に、1人は舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に、1人は横須賀鎮守府第4特別陸戦隊に、7人は254航空隊に「配属」されていました。254航空隊に「配属」されていた者は、すべて「北菲航空隊」に入隊したようです。
 10人の死亡日は、すべて1945年6月1日で、「「バヨンボン」地区で戦病死(マラリア)」と書かれています。
                                         佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 7

2012年01月09日 | 海南島史研究
■フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」5
 バシー海峡で生き残り、カムラン湾でも生き残りながら、ベトナムから海南島に行く途中で死亡した朝鮮人青年もいました。
 フィルム番号1217の「旧海軍軍人履歴原表」には、1945年3月5日にベトナムの「キノン」から湘東丸に乗って海南島に向かう途中に「敵機」の攻撃を受けて死亡した3人の朝鮮人青年の個人記録が含まれています。3人のうち1人は日本海軍海南警備府第15警備隊に、2人が横須賀鎮守府第4特別陸戦隊に「配属」されていました。
                                        佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 6

2012年01月08日 | 海南島史研究
■フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」4
 日本海軍鎮海警備府の第1期特別志願兵のなかには、海南島に送られる途中、バシー海峡で生き残りながら、その後死亡した朝鮮人青年もいました。
 1944年8月12日に日本兵として海南島に送られる第1期特別志願兵を乗せて門司港を出港した豊岡丸は台湾の高雄に寄港しました。9月5日に高雄港を出港した豊岡丸は、9月9日にバシー海峡で沈没しました。
 そのとき、生き残った人たちは、フィリピンの北サンフェルナンドにあった日本陸軍兵站基地にいったん収容されたあと、マニラにあった第31特別根拠地隊に仮入隊させられました。
 その人たちのうち一部は、ベトナム経由で海南島に向かうため、11月11日に杉山丸に乗ってマニラを出港しました。
 杉山丸は、カムラン湾でアメリカ合州国軍の潜水艦に攻撃され沈没しました。フィルム番号1217の「旧海軍軍人履歴原表」には、カムラン湾で後死亡した朝鮮人青年10人の個人記録が含まれています。10人のうち、2人が日本海軍海南警備府第15警備隊に、2人が第16警備隊に、2人が舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に、4人が横須賀鎮守府第4特別陸戦隊に「配属」されていました。                               佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 5

2012年01月07日 | 海南島史研究
■フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」 3
 朝鮮で「海軍特別志願兵令」(「勅令」第608号)が1943年8月1日に施行されてから2か月後、10月に最初の「志願者」1000人が鎮海の「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」に入所し,「訓練」のあと、1944年6月30日に「日本海軍鎮海海兵団」に入団し、アジア太平洋の各地に「配属」されました。このとき、数100人の朝鮮人青年が海南島に「配属」されました。そのさい、「配属」される部隊も決定されており、鎮海を出発するまでに、本人に部隊名を知らされていたようです。1943年春以後、「朝鮮報国隊」の隊員として朝鮮各地の刑務所からから海南島に送られた人たちは、行方を正式には知らされていませんでしたが。
 海南島に送られるときパシー海峡で死んだ朝鮮人青年の正確な人数は明確にされていませんが、フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」に記録があるのは128人です。そのうち、日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に「配属」されていた人は40人、第15警備隊に「配属」されていた人は20人、第16警備隊に「配属」されていた人は21人、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に「配属」されていた人は30人、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊に「配属」されていた人は9人、日本海軍254航空隊に「配属」されていた人は8人でした。
 海南島の日本軍飛行場はすべて海軍が管理し、黄流に黄流海軍航空隊が、海口に海口海軍航空隊が、三亜に三亜海軍航空隊と第254海軍航空隊がおかれていました。三亜飛行場では、1943年10月1日に、日本海軍の三亜航空隊と254航空隊が「開隊」しましたが、三亜航空隊は1944年5月1日に「解隊」し、その前後から、254航空隊は、北方の山地に疎開しはじめていました。254海軍航空隊は、1944年2月14日と4月5日に南寧を空爆していました。
 海南島の日本海軍三亜飛行場を基地とする254航空隊の隊員であった田川定男氏の証言については、このブログの2007年2月26日、27日の「日本海軍佐世保鎮守府」1、2、および2009年10月19日の 「パランオッ・藍色衣服・青い服 7」などをみてください。
                                         佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 4

2012年01月06日 | 海南島史研究
■フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」 2
 わたしたちは、これまで、朝鮮南部の釜山に近い鎮海におかれていた日本海軍鎮海警備府に特別志願兵として入り、日本兵として海南島に行った朴泰愚さん、鄭明出さん、河相祚さん、申載燮さん、崔永洙さん、金永振さん、李西根さん、金相律さん、金成文さんから韓国で話を聞かせてもらってきました(金靜美・佐藤正人「海南島の朝鮮人兵士」〈『海南島近現代史研究』第2号・第3号、2001年2月〉をみてください)。
 そのうち、日本海軍鎮海警備府の第1期特別志願兵であった朴泰愚さん、鄭明出さん、崔永洙さん、金永振さん、李西根さん、金成文さんは、すべて、釜山から海南島に向かう途中、乗っていた船が、台湾とフィリピンの間のバシー海峡でアメリカ合州国軍の潜水艦の攻撃をうけて沈没し、おおくの人が死んだと話しました。
 フィルム番号1217のマイクロフィルムに個人記録が掲載されている死亡した299人の朝鮮人のうち、バシー海峡で死亡した人は、128人です。この128人の記録紙には、すべて、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印が押されています。
                                        佐藤正人

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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 3

2012年01月05日 | 海南島史研究
■フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」 1
 フィルム番号1217(リール番号)のマイクロフィルムの冒頭につけられている「マイクロ写真撮影証明書」には、
   「件名:旧海軍軍人履歴原表。
    撮影場所:株式会社アジア・ビジネス・コンサルタント。
    このフィルムは……原資料から直接正写されたことを、証明します。
    依頼者:厚生省援護局業務第二課。
    撮影開始時間:1986年8月23日9:00時」
と書かれています。厚生省は、1986年ころ、日本軍の軍人・軍属とされていた朝鮮人の個人記録文書のマイクロフィルム化を開始したようです。
 フィルム番号1217のマイクロフィルムには、死亡した299人の朝鮮人の個人記録が収録されています。 
 この記録文書は整理されていません。日本海軍鎮海鎮守府からアジア太平洋各地に送られ死亡した朝鮮人の一人ひとりの記録文書が寄せ集められています。「原資料から直接正写された」とされていますから、「原資料」そのものがこのような構成になっているものと思われますが、どのような過程で、誰によって、何時ごろこの原資料が作成されたのかは、明らかではありません。
 わたしたちは、とりあえず、海南島にかかわった人たちの記録を探しだすことにしました。
                                       佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 2

2012年01月04日 | 海南島史研究
 たとえば、フィルム番号1217のマイクロフィルムの外箱には、「鎮守府:鎮海、兵種:水~衛、死没者/志願(水衛)・徴集。경남、경북、충남、충북、경기、강원、한남、함북、평북、평남、전남、전븍」と書かれてあります。これによって、このマイクロフィルムに記載されている人たちは、すべて「死没者」であることがわかります。
 また、たとえば、フィルム番号2020のマイクロフィルムの外箱には、「鎮守府:各鎮守府、兵種:水~主、復員者:鎮海~舞鶴、死没者:横須賀~鎮海」と書かれてあります。これによって、このマイクロフィルムに記載されているのは、「復員者」と「死没者」であることがわかります。
 フィルム番号2016のマイクロフィルムの外箱には、「死没者、海軍省(二復)、軍属・身上、韓1~4301」と書かれ、フィルム番号2018のマイクロフィルムの外箱には、「死没者。横.呉.鎭。軍属。身上(横)韓1~2504、朝1~107、不1、(呉)韓8221~9880、朝1087~1179、(鎭)鎭警関係1~9」と書かれ、フィルム番号2019のマイクロフィルムの外箱には、「死没者。佐.舞軍属.身上(佐)韓1~301-276646~77663、朝302~332、韓1~353、朝354~376-2、不377~381、朝1087~1179、(舞)韓3885~4054、朝1323~1333」と書かれています。
                                        佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 1

2012年01月03日 | 海南島史研究
 韓国の国家記録院では、日本政府が韓国政府にマイクロフィルム形式で渡した「旧海軍軍属身上調査表」と「旧海軍軍人履歴原表」が公開されています。このマイクロフィルムの撮影依頼者は、日本厚生省援護局業務第二課でした。このマイクロフィルムに記載されている人たちは、すべて朝鮮人です。
 韓国の国家記録院で公開されている「旧海軍軍属身上調査表」にも「旧海軍軍人履歴原表」にもフィルム番号がつけられていますが、この番号は日本政府が韓国政府にマイクロフィルムを渡すときにつけられていたリール番号と同じです。
 「旧海軍軍属身上調査表」のマイクロフィルムは21本(フィルム番号2001~2021)であり、「旧海軍軍人履歴原表」のマイクロフィルムは5本(フィルム番号1213~1217)です。
 韓国の国家記録院では、この総数26本のマイクロフィルムの内容の詳細なリストはつくられておらず、各マイクロフィルムの外箱に簡単な内容のメモが手書きで書かれているだけです。
 閲覧者は、この簡単なメモを手がかりに、マイクロフィルムの1頁、1頁をみていくことになります。
                                          佐藤正人
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