三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 7

2018年01月14日 | 海南島近現代史研究会
 中共海南島省党史研究室編『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』(中共党史出版社発行)は,2011年6月の初版も2015年8月の増訂版も、中共海南島省党史研究室が、抗日戦争期の海南島の民衆史を史実に基づいて実証的に科学的に叙述しようとしていなかったことを示す書物です。もし、この書物を編集した中共海南島省党史研究室と執筆した歴史研究者たちが、歴史研究の原則である実証性をゆるがせにしない機関や研究者たちであったならば、このような非科学的な非歴史的な書物が生み出されてしまうようなことはなかったでしょう。
 このブログに連載した「『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』について」にも書きましたが、同書で海南省委党史研究室と執筆者たちは、日本占領期に日本政府・日本軍・日本企業によって海南島で殺されたり傷つけられたりした犠牲者の人数を、組織的に具体的に海南島全域で「調査」していなかったにもかかわらず、「傷亡」者の総数を一桁単位まで示しています。
 しかし、日本の侵略犯罪で犠牲になった死傷者の人数を一桁単位まで確認・確定することは、個別の村という比較的狭い地域ではできても、海南島全域の全ての村や都市を訪ねて綿密に組織的に「調査」したとしても、難しいことです。
 『〇〇省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』と題する書物は、中国各省の政府機関によって編集され中共党史出版社から発行されています。「傷亡」という用語は、科学的な歴史研究においては慎重に使われなければならない用語だと思います。基本的には、 「傷」(負傷者)と「亡」(死者)とを別個に示すべきです。
 負傷にはさまざまな程度があります。重傷者・軽傷者の総数を確定するのは簡単ではありません。
 
 わたしたちは、20年間、海南島の村や都市で、犠牲者の名をできるだけ記録しようするとともにその人数を知ろうとしてきました(南海出版公司編写組編『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』〈南海出版公司、2015年〉の第二章第七節「“确认每个死难者的姓名很重要!”」をみてください)。しかし、個々の村や都市で、日本軍や日本企業が殺害あるいは死に至らしめた犠牲者の人数を確認することはできませんでした。犠牲者の人数を確認できる文書が残されている村や都市はほとんどありませんでした。また、個々の村や都市で、犠牲者の人数を一桁単位まで証言する人はほとんどいませんでした。それは、当然のことだと思います。幼児を含む家族全員が虐殺された村で、死者と負傷者の正確な人数を、その数10年後に正確に確認することはできることではありません。
 日本軍が侵入して住民を子どもも老人も女性も無差別に虐殺した村を、わたしたちはいくつも訪ねました。 たまたまその村に来ていたよその村の人たちが殺されたという証言を、聞きました。そのとき殺害されたよその村の村人の名も人数もはっきりしないことがおおかったです。日本軍が襲ってとき逃げた村人のなかには、再び村に戻ってこなかった人もいました。その人たちの生死は、その後わかっていません。
 ところが、2011年6月版『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』で編者や筆者は、日本軍・日本企業が海南島を去ってから60数年後に、明確な証拠を示すことなく、憶測の証拠すら曖昧にしたまま、「総計海南抗戦時期人口傷亡565177人」とし、2015年版では、997人増やして「566174人」としています。
 日本政府・日本軍・日本企業が海南島で殺傷した人びとが何人であったのかを一桁単位まで明らかにするのが不可能だということは、短時日であっても、日本軍が襲った村や都市を数十か所だけでも訪ねて証言を聞かせてもらうならば、すぐに解ることです。
 日本の侵略犯罪を「調査」しようとするなら、その文書資料を可能な限り探索・収集するとともに、その現場を訪ねることは当然のことです。
 海南省の政府機関・海南島の近現代史研究者のほとんどは、綿密な「現地調査」をこれまで実行していません。
 20年間に、わたしたちは、歴史研究を職業としていないが、丹念に持続的に日本の侵略犯罪の歴史を追究し、自らが住んでいる地域の犠牲者の名を明らかにし、被害の実態を記録している人たちと出会い、おおくのことを学ばせてもらってきました。万寧市月塘村で、澄邁県沙土(聖眼村、欽帝村、福留村……)で、瓊海市長仙聯村で、文昌市秀田村で、文昌市昌文村で、文昌市白石嶺村で、文昌市排田村で、文昌市石馬村で、文昌市林林村で、文昌市昌美村で、瓊海市北岸村で、定安県大河村で、陵水黎族自治県后石村で、陵水黎族自治県九尾村で、東方市八所村で、東方市旦場村で、東方市新街村で…………。
                                          佐藤正人
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