あの日、わたしは姉とフロに行った。正月がくるというので、大きなフロに行こうといって、初めてフロ屋に行った。それまではフロ屋に行ったことはなく、家で体を洗っていた。
フロを出て、姉の背におぶわれて家にもどる途中、ちょうど橋の上まで来たとき、ラッパの音が聞こえ、鉄砲の音が聞こえた。あたりはまだ暗くなりきっておらず、うす暗い感じだったような気がする。ラッパや鉄砲の音を聞いてわたしは、正月の行事がはじまったのかと思い、姉の背でよろこんで足をジタバタさせたことを覚えている。だが、すぐに、どこからか、
「朝鮮人はあぶないから、みんな逃げろ」
という声が聞こえた。
その晩は、姉と、お寺にかくれて夜を明かした。小さなお寺だったように思う。
次の朝、ひもじくなって、家にもどった。
住んでいたところは、メチャメチャになっていた。正月がくるというので作って、部屋につるしておいた細長い白いトックが、ちらばって、ふみにじられていた。家は大きなバラックだった。
事件があったのは、おおみそかだった、と思う。いままで、ずっと、一二月三一日を父の命日として、チェサ(祭祀)をしてきた。いまもそうだけど、あの当時も事件のことはかくされていて、ほんとうは一二月三一日なんだけど、かくしきれなくなって、一月三日に発表したのではないかと思う。事件が一月三日になっているということは、金靜美さんの手紙や、当時の新聞を見て、昨年(一九八八年)一一月にはじめて知った。だが、わたしは、いまでも、事件があったのは、ほんとうは一二月三一日だったのではないか、と思っている。正月とか、なにか特別なことでもなかったら、はじめてフロに行くということはなかったと思う。
それから二、三日あとに、オモニにつれられてお寺に行った。オモニが泣くのを見た。どうして泣くのかわからなかった。
そこで、白い服を着た人らが、セメントのタルにおしこまれていた死体をひっぱり出して、板の上にのせて、ガーゼで顔をふき、あっちこっち包丁で切ったりしていた。死体は固くなっていたので、切るまえにのばしていた。遠くのほうから顔はみたけど、知らない顔だった。そばには近づけなかった。
あとから考えると、わたしが長男だったから、立ち会わされたのではないかと思う。
当時はオモニもだれも、アボヂが日本人に殺されたことは教えてくれなかった。
オモニは、アボヂは現場長だった、と言っていた。
アボヂが殺されたときはなにも知らず泣かなかったが、オモニが死んだときは泣くだけ泣いた。一〇歳のときだった。姉は、わたしが七歳のときに死んだ。一三歳だった。オモニは三五歳で死んでしまった。オモニが死んだとき、わたしは他人の家にいた。オモニが死んだということを聞いて、走りとうして家に帰ったが、すでに埋葬されたあとで、ここが墓だといってつれていかれた。いまはもう、オモニの墓がどこにあるかわからない。知っている人もいなくなってしまった。
オモニはいつも、「うらみをはらして(원수 갚아라)」と言っていた。当時は、そのことの意味はわからなかったが……。オモニは、アボヂが殺されたときのことを、わたしがもっと大きくなってから話そうとしていたのだと思う。そのまえに、亡くなってしまったのだろう。叔父(相度氏の弟、三度氏)は、事件についてひとことも話さなかった。
姉の月淑は、栄養失調で、目が見えなくなって死んだ。姉もオモニもこころを痛めて死んだのだと思う。オモニは病気で死んだが、なんの病気かわからない。
アボヂも、オモニも、姉も、写真は一枚もない。当時は、写真をとる金はなかった。朝鮮人は米が食えなかった。朝鮮の米は、ぜんぶ日本に持っていかれた。
オモニが死んだあと何年かたって、かなり大きくなってから、しぜんと、アボヂが日本人に殺されたということがわかるようになった。そのことを知るのが遅くてよかった、といまは思っている。もっと早く知っていたら、日本人に憎しみをつのらせ、幼いときからもっと、もっと、苦しい思いをしたにちがいない。日本に墓石があるということは、去年(一九八八年)の一一月まで知らなかった。
わたしは、戸籍のうえでは大阪で生まれたことになっているが、ほんとうは、三重県のどこかで生まれたらしい。正確な場所はわからない。木本では、朝鮮人の子供は、わたしひとりだった。だから、ひとりで遊んだ。トンボをとったり、コオロギをとったり。ホタルもいた。魚つりもしたように思う。竹馬にものって遊んだ。いつもひとりだった。姉は学校へ行っていた。
一度、夏みかんを木からもいで食べたことがある。それをアボヂに見つかって、たたかれ、もう二度とするな、とひどくしかられた。アボヂのことで覚えているのはこれだけだ。顔は思いだせない。アボヂがいなくなってからいままで、こころの底から笑ったことは一度もない。
附記
相度さんは妻金而敬さんと子どもたち、月淑さん(一〇歳)、敬洪さん(四歳)、良淑さん(二歳)とともに木本で暮らしていました。「事件」後、木本の朝鮮人労働者とその家族は、木本を強制的に追い出され、父を殺された相度さんの家族も釜山に帰りました。
「事件」から六三年がたった一九八九年の四月、敬洪さんは、「事件」後はじめて木本を訪れました。ここに掲載した文章は、木本に入る前、敬洪さんがキムチョンミに話してくれた「事件」当時の、そして「事件」後の家族の記憶を日本語に訳したものです。
キムチョンミ記 1989年4月
フロを出て、姉の背におぶわれて家にもどる途中、ちょうど橋の上まで来たとき、ラッパの音が聞こえ、鉄砲の音が聞こえた。あたりはまだ暗くなりきっておらず、うす暗い感じだったような気がする。ラッパや鉄砲の音を聞いてわたしは、正月の行事がはじまったのかと思い、姉の背でよろこんで足をジタバタさせたことを覚えている。だが、すぐに、どこからか、
「朝鮮人はあぶないから、みんな逃げろ」
という声が聞こえた。
その晩は、姉と、お寺にかくれて夜を明かした。小さなお寺だったように思う。
次の朝、ひもじくなって、家にもどった。
住んでいたところは、メチャメチャになっていた。正月がくるというので作って、部屋につるしておいた細長い白いトックが、ちらばって、ふみにじられていた。家は大きなバラックだった。
事件があったのは、おおみそかだった、と思う。いままで、ずっと、一二月三一日を父の命日として、チェサ(祭祀)をしてきた。いまもそうだけど、あの当時も事件のことはかくされていて、ほんとうは一二月三一日なんだけど、かくしきれなくなって、一月三日に発表したのではないかと思う。事件が一月三日になっているということは、金靜美さんの手紙や、当時の新聞を見て、昨年(一九八八年)一一月にはじめて知った。だが、わたしは、いまでも、事件があったのは、ほんとうは一二月三一日だったのではないか、と思っている。正月とか、なにか特別なことでもなかったら、はじめてフロに行くということはなかったと思う。
それから二、三日あとに、オモニにつれられてお寺に行った。オモニが泣くのを見た。どうして泣くのかわからなかった。
そこで、白い服を着た人らが、セメントのタルにおしこまれていた死体をひっぱり出して、板の上にのせて、ガーゼで顔をふき、あっちこっち包丁で切ったりしていた。死体は固くなっていたので、切るまえにのばしていた。遠くのほうから顔はみたけど、知らない顔だった。そばには近づけなかった。
あとから考えると、わたしが長男だったから、立ち会わされたのではないかと思う。
当時はオモニもだれも、アボヂが日本人に殺されたことは教えてくれなかった。
オモニは、アボヂは現場長だった、と言っていた。
アボヂが殺されたときはなにも知らず泣かなかったが、オモニが死んだときは泣くだけ泣いた。一〇歳のときだった。姉は、わたしが七歳のときに死んだ。一三歳だった。オモニは三五歳で死んでしまった。オモニが死んだとき、わたしは他人の家にいた。オモニが死んだということを聞いて、走りとうして家に帰ったが、すでに埋葬されたあとで、ここが墓だといってつれていかれた。いまはもう、オモニの墓がどこにあるかわからない。知っている人もいなくなってしまった。
オモニはいつも、「うらみをはらして(원수 갚아라)」と言っていた。当時は、そのことの意味はわからなかったが……。オモニは、アボヂが殺されたときのことを、わたしがもっと大きくなってから話そうとしていたのだと思う。そのまえに、亡くなってしまったのだろう。叔父(相度氏の弟、三度氏)は、事件についてひとことも話さなかった。
姉の月淑は、栄養失調で、目が見えなくなって死んだ。姉もオモニもこころを痛めて死んだのだと思う。オモニは病気で死んだが、なんの病気かわからない。
アボヂも、オモニも、姉も、写真は一枚もない。当時は、写真をとる金はなかった。朝鮮人は米が食えなかった。朝鮮の米は、ぜんぶ日本に持っていかれた。
オモニが死んだあと何年かたって、かなり大きくなってから、しぜんと、アボヂが日本人に殺されたということがわかるようになった。そのことを知るのが遅くてよかった、といまは思っている。もっと早く知っていたら、日本人に憎しみをつのらせ、幼いときからもっと、もっと、苦しい思いをしたにちがいない。日本に墓石があるということは、去年(一九八八年)の一一月まで知らなかった。
わたしは、戸籍のうえでは大阪で生まれたことになっているが、ほんとうは、三重県のどこかで生まれたらしい。正確な場所はわからない。木本では、朝鮮人の子供は、わたしひとりだった。だから、ひとりで遊んだ。トンボをとったり、コオロギをとったり。ホタルもいた。魚つりもしたように思う。竹馬にものって遊んだ。いつもひとりだった。姉は学校へ行っていた。
一度、夏みかんを木からもいで食べたことがある。それをアボヂに見つかって、たたかれ、もう二度とするな、とひどくしかられた。アボヂのことで覚えているのはこれだけだ。顔は思いだせない。アボヂがいなくなってからいままで、こころの底から笑ったことは一度もない。
附記
相度さんは妻金而敬さんと子どもたち、月淑さん(一〇歳)、敬洪さん(四歳)、良淑さん(二歳)とともに木本で暮らしていました。「事件」後、木本の朝鮮人労働者とその家族は、木本を強制的に追い出され、父を殺された相度さんの家族も釜山に帰りました。
「事件」から六三年がたった一九八九年の四月、敬洪さんは、「事件」後はじめて木本を訪れました。ここに掲載した文章は、木本に入る前、敬洪さんがキムチョンミに話してくれた「事件」当時の、そして「事件」後の家族の記憶を日本語に訳したものです。
キムチョンミ記 1989年4月