ことし1月31日に、江原道麟蹄郡麒麟面の自宅で聞かせていただいた丁炳碩さん(丁榮さんの子)の証言です。丁榮さん(1917年9月生)は、1944年11月9日に紀州鉱山に連行され、「運搬夫」として働かされました。麒麟面の自宅で1999年陰暦3月27日に亡くなりました。
わたしが7歳のとき、アボヂが日本に連れていかれ、解放後に戻ってきた。
アボヂがいない間、オモニは、ハラボニムと農業をしながら、ありとあらゆる苦労をした。
アボヂが連れて行されたとき、区長がさきに捕まり、それから村人が順に連行された。
日本人が里長に指示して、一か所に集め、連れていった。アボヂが行くのを家で見送った。そのときのことは覚えている。日本のどこかはわからないが、日本に〝労務者〝として行くとわかっていた。
そのころ、家には子どもが7人いて、苦しい生活をしていたが、それでも捕まえていった。
アボヂは漢文にたけ、手先が器用だった。それで、日本では、手紙などを代筆したりしたと聞いた。三重県では、鉱山での労働がとても厳しかったと話していた。
わたしが7歳のとき、アボヂが日本に連れていかれ、解放後に戻ってきた。
アボヂがいない間、オモニは、ハラボニムと農業をしながら、ありとあらゆる苦労をした。
アボヂが連れて行されたとき、区長がさきに捕まり、それから村人が順に連行された。
日本人が里長に指示して、一か所に集め、連れていった。アボヂが行くのを家で見送った。そのときのことは覚えている。日本のどこかはわからないが、日本に〝労務者〝として行くとわかっていた。
そのころ、家には子どもが7人いて、苦しい生活をしていたが、それでも捕まえていった。
アボヂは漢文にたけ、手先が器用だった。それで、日本では、手紙などを代筆したりしたと聞いた。三重県では、鉱山での労働がとても厳しかったと話していた。