・瓊中県湾嶺鎮嶺門で
黎母山の10キロほど西にある碑碣嶺の山頂からは、360度を見渡すことができる。日本軍は碑碣嶺と南方の登高嶺に軍事拠点をつくった。
わたしたちは、碑碣嶺ふもとの村、嶺門(リンメン)に住む張○○さん(1951年生)に案内されて、碑碣嶺山頂に行った。碑碣嶺の日本軍要塞も、深い濠と塀に囲まれていた。濠跡、コンクリート塊、たくさんの瓦片などが残っていた。小高くなっているところに炮楼があったと張○○さんが教えてくれた。
‘労工’としてここの工事をさせられた祖父や両親は、張○○さんに、当時のことをつぎのように話していたという。
「労工は、付近の村から集められた。良民証を労働に出る人はみんな持たされていた。もらったのはおにぎりだけ。70人くらいの軍人がいた。大きな木があって、そこで日本軍は何人もの人を刺し殺した。共産党だといって」。
嶺門小学校の校庭に、日本軍の不発弾があった。3個あったが、村びとがこわして今は1個だけが残っているという。
黎母山の10キロほど西にある碑碣嶺の山頂からは、360度を見渡すことができる。日本軍は碑碣嶺と南方の登高嶺に軍事拠点をつくった。
わたしたちは、碑碣嶺ふもとの村、嶺門(リンメン)に住む張○○さん(1951年生)に案内されて、碑碣嶺山頂に行った。碑碣嶺の日本軍要塞も、深い濠と塀に囲まれていた。濠跡、コンクリート塊、たくさんの瓦片などが残っていた。小高くなっているところに炮楼があったと張○○さんが教えてくれた。
‘労工’としてここの工事をさせられた祖父や両親は、張○○さんに、当時のことをつぎのように話していたという。
「労工は、付近の村から集められた。良民証を労働に出る人はみんな持たされていた。もらったのはおにぎりだけ。70人くらいの軍人がいた。大きな木があって、そこで日本軍は何人もの人を刺し殺した。共産党だといって」。
嶺門小学校の校庭に、日本軍の不発弾があった。3個あったが、村びとがこわして今は1個だけが残っているという。