三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本で

2006年08月06日 | 紀州鉱山
2.日本で
 
 名古屋に住む許氏から話を聞いた(一九九六年一一月および一九九七年五月)。
 許氏は、一九一五年に朝鮮金海に生まれ、一九四〇年秋から一九四六年春まで紀州鉱山で朝鮮人労働者の「監督」をしていた。当時の名は「中山圭」であった。
 許氏はつぎのように話した。

  「四歳ころ、アボヂといっしょに日本にきた。一九三六年ころ、東邦商業をでて、四日市の家にもどって、家の仕事をしていたとき、尊敬していた上野出身の代議士が矯風会の仕事をしていたので、矯風会のしごとを手伝うようになった。この人は石原産業のしごともしていた。紀州鉱山で働いていた朝鮮人が逃げて、熊野川で流されて死んだことがあった。矯風会と警察から、いって調査してこいといわれて、いってきて、報告書をだした。その後、会社から、朝鮮人のことを、責任もってやってくれといわれて、朝鮮人を徴用、管理するために、労務担当社員として入社した。日本人は、応召で労働者はすくないので、労働者を朝鮮からつのろうということだった。
 労働者を徴用するため、江華島、三陟、陽平、永川などに行った。
 連れてくる労働者の人数をきめるのは会社。今回は一〇〇人、とすると、大阪の鉱山局に申請する。どこそこの道、どこそこの郡から、何人、という許可証をもらって、それをもって、朝鮮に行く。朝鮮では、朝鮮総督府、道庁、警察などにあいさつにいって、金をわたした。釜山水上警察には、石原から一〇〇円、三井、三菱などからは三〇〇円がわたされていた。鐘路警察署長だけ朝鮮人だったが、あとはみな日本人だった。一人で朝鮮にいったのではない。助手として、日本人の労務課員と朝鮮人を連れていった。その朝鮮人は、前に連れてきた人だった。医者も連れていった。
 郡警察で、石原産業への徴用者をひきわたされた。郡から、指定列車で釜山へいき、釜山で船にのり下関へ。下関から列車にのり、大阪を経由して阿田和まで行き、そこからトラックで紀州鉱山へつれてきた。わたしは引率の責任者だった。郡の警察から、朝鮮人の名前、住所、年齢の書かれた名簿をもらった。
 シンガポールにいた支店長大藪は、紀州鉱山に捕虜を連れてくる計画をもって、捕虜の管理責任者、労務課長として転勤してきた。会社から、朝鮮同胞は許さんに権限をあたえる、といわれた。
 わたしのしごとは、徴用朝鮮人の監督だった。鉱山の労務係は一五、六人いたが、うち、朝鮮人はわたしたち兄弟二人だけだった。
 朝鮮人を収容するための八紘寮が完成したのは、わたしが徴用に出かけているときだった。寮長に大阪本社の警備隊長がなった。かれは反感をもたれて殴られけんかになった。殴った朝鮮人が警察に引っ張られる事件になった。わたしは朝鮮から帰ると、この寮長をやめさせた。 朝鮮人と捕虜とのなかは、よかった。
 戦争がおわった八月一五日の翌日、大阪の本社によばれた。捕虜と朝鮮人労働者、あわせて約八〇〇人を、どうするか、様子はどうかという話しだった。本社は、朝鮮人の徴用者が火薬庫を襲撃するのでは、とおそれていた。
 捕虜の管理責任者だった大藪は、シンガポールでは軍政官だったとき、ピストルや軍刀でおどしてイギリス兵から物資をうばったりしたようで、わたしに、朝鮮に逃がしてくれといってきた。このひとは、戦犯容疑で連れていかれたが、二回自殺未遂をして、青山墓地で自殺した。
わたしがいるあいだに、死んだ朝鮮人は三人だった。ひとりはハッパで、ひとりは坑口からトロッコといっしょに落ちて、ひとりは病気で。朝鮮人の墓は紀州鉱山にはない。遺骨にして、本籍地にもっていった。
 まかないは、日本人の女の子や、徴用できたが年取って働けない朝鮮人がした。
 戦争がおわるすこしまえのことだと思うが、 「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と坑道の入口にカンテラの火で焼きつけた文字があった。この落書きが問題になり、憲兵がきてしごとが中止になった。朝鮮人を並べて、だれが書いたのかと調べた。
 落書きをみて、ようやった、まったく、そのとおりだと思った。一、二日で、この落書きは消された」。

 一九四三年から一九四四年一一月まで、紀州鉱山で「学徒勤労動員報国隊」の隊員として坑内で働いていた日本人A氏はつぎのようにのべている。
  「ある日惣房の請願(警察)の裏の座敷で、特高警察3名により取調べを受けた。最初は何で調べられているのか判からなかったが、その内に朝鮮人労働者の暴動に関与していると言う容疑である事が判かった。……確実な事は不明であるが、どうも・朝鮮が独立するのは今だ、二〇年後の朝鮮を見よと言う様な落書があり、これを書いた容疑の様であった」。
コメント
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