【白髭神社】

【白髭神社】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 27 日の日記再掲

実家の片付けをしていたら偶然出てきた『入江の史跡めぐり』という小冊子を片手に、生まれた地域の散歩をしてみようと思い立ったものの、静岡県清水元城町にある「白髭神社」にさしかかったら立ち往生してしまった。生家がある地域の氏神様でもあるこの神社のことを調べ始めると非常に奥が深いのである。

 創立の時期は不明です。初め、この所に神功皇后を祀り、大渡里(おおわたり)明神と号して祀られておりましたが後に武内宿禰命を文治五年(一一九〇)福岡県三井郡(現在の久留米市)に鎮座する、高良神社より勧請して今日に至りました。(中略)神社は昔から入江一円の氏神様として広くあがめられております。(入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』より)

 

■実家のある清水入江南町から入江二丁目『魚虎』脇を通り元城町白髭神社に向かう道。
RICOH Caplio GX 

清水では神社を「さん」付けで呼び、「あきわさん」「おしばさん」「おすいじんさん」「おいべっさん」「はちまんさん」のように白髭神社も「しらひげさん」と呼ばれている。この白髭神社、実は旧清水市で最も数の多い神社なのだ。

 白髭神社は八幡神社とともに、県内とくに駿河に多い。郷土では両河内を最高として広がっている。(中略)また埼玉県入間郡高麗(こま)村に高麗大宮大明神が祭られ、また、この辺一帯に白髭神社があり、そして霊亀二年(七一六)駿河国から高麗人(こまじん)がこの地に移住したという記録のあることから高麗人の長、福徳王(好太王の子孫だと伝えられている)を祭ったとも伝えられている。この王は年老えて白髭をたくわえていた。そうすると、駒越が高麗(こま)を意味することから、郷土の白髭信仰は、朝鮮の帰化人が信仰していたことから伝わったと思われる。(鈴木繁三著『わが郷土清水』戸田書店より)

調べてみたら中日新聞にこんな記事もあった。

「巨木を訪ねて安倍川流域を歩いたとき、有東木、中平、平野、横山、中沢、俵沢の神社はすべて白髭神社でした。白髭神社は七世紀前後、大陸の先進的な技術をもたらした朝鮮半島からの渡来人が信仰した神と言われています」

どうして興津川上流や安倍川流域に白髭さんが多いかという理由に、海を渡って日本に渡来した人びとが、さらに船で川を遡ったからなどとネット上に書かれていたりするのだけど、安倍川はともかく興津川を船で両河内まで遡るのは現実的ではないように思う。

■白髭神社全景。
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なんで川沿いに山へ向かって白髭さんを心の支えとする人びとが分け入って行ったかというと、帰化人の持っていた鉄鉱石や砂鉄をあつかえるという文化の力を行使するには、地中のものを掘り出して海へと流れ下るその源である上流域を目指す必要があったのではないか。

そういうことについて書かれた研究が本になっていないかしらと思って本郷の古本屋をのぞいたら『山の民・川の民――日本中世の生活と信仰』という本があった。新潟大学人文学部教授だった井上鋭夫(いのうえとしお)の研究に井上進と田中圭一が解説を加えたものである。

北越後荒川沿いに伝わる伝承を元に丹念な現地調査をした論文なのだけれど、井上氏の解説を引用してみる。

 奥山に入って採取された鉱産物を運び出すのに、もっとも主要な交通路は、やはり河川であったろう。荒川流域で、河川に沿った船着場のなかには、鉱山の神である大山祗神をまつった例がある。鉱山の採掘と、そこにつながる河川の航行とは、密接な関係がある。それ故に中世において金掘りはまた、舟をあやつる川の民でもあったろうと考えられるのである。近世のはじめに、この地方のはなやかな鉱山経営が終わりを告げたあと、金掘りたちは山を去って、以前から関係深かった河川に沿った地に住みつき、箕作り・塩木流し・筏流しに生きる人々となった。(井上鋭夫『山の民・川の民――日本中世の生活と信仰』平凡社選書69、石井進の解説より)

北越後のこの地域では、金掘りの山の民を「タイシ」、輸送を生業とした川の民を「ワタリ」と呼んだという。清水元城町にある白髭さんの縁起には、相殿(あいどの=同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること)として荒神社(火、カマドの神)、金山社(鉄工業鉱業の神)が、末社として大渡里神社(ワタリ!)のほか伊勢大神社、津島神、左宮司神社、金力比羅社がまつられており、このあたりが山と川と海の結節点であったことがわかる。

古くからの船着場であった海船川河口にどうして白髭さんがあるのかの理由もわかりやすい。

ワタリ・タイシの人びとは、ともにほとんど農地ももたず、河川や海のほとりの船着場や港などに住みついた川の民ともいうべき存在であったが、それ故に村々に定住した農業民からのいわれなき差別をしのばねばならなかったのである。(井上鋭夫『山の民・川の民――日本中世の生活と信仰』平凡社選書69、石井進の解説より)

白髭さんが教えるものは地域の成り立ちを少しでも知るものにとってはとてつもなく深くて、書かなくてはならないことがまだ山ほどありそうなのだけれど、所詮は小さな散歩の日記なので、後ろ髪を引かれながら先に進むことにする。

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