【 2006 年の清水灯ろう流し】

【 2006 年の清水灯ろう流し】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 16 日の日記再掲

実家片付けを続けているうちに、また清水灯ろう流しがやってきた。

幼いころから灯ろうに「大瀬大明神」と書く家庭と「尾瀬大明神」と書く家庭があるのが不思議で、伯父は「大瀬大明神」と書く人だったが、声に出して読むとなぜか「おせだいみょうじん」と読んでいた。

今でもやっぱり不思議であり、それでも幼い頃海水浴に行った西伊豆大瀬崎の大瀬神社を思い出しつつ筆ペンで「大瀬大明神」と書いたら間違えて「大潮大明神」と書いてしまった。何度もなぞって「潮」が「瀬」に見えるように修正したらひどい表書きになってしまい、両脇の面に
「家族がみんなそろって健康でありますように」
と書き、大潮大明神と書いた裏側に
「正しい漢字が書けるようになりますように」
と書いておいた。そうしておけば子どもが書いたと思うに違いないという姑息なやりくちである。

こんなひどい灯ろうを下げて明るい道を歩けないなと思い、午後 7 時が近づいて暗くなるのを待って外出する。

渋谷酒店の大奥さんが門口で送り火を焚いておられたので、立ち話をしていたらお孫さんが近づいてきて
「なんて書いてあるの?」
と灯ろうを覗き込んでいるので慌てて側面を見せて
「家族がみんなそろって健康でありますようにって書いてあるんだよ」
と答えたら首をかしげてけげんな顔をしていた。

■稚児橋からの灯ろう流し。
RICOH Caplio GX 

■たくさんの霊が帰って行く。
RICOH Caplio GX 

この日、静岡市では平年を 5 度も上回る最高気温 34.5 度を記録し、それは海上から湿った南風が激しく吹き込んだからだった。

夜になっても風は強く、昨年と同じく稚児橋たもと楠楼前から灯ろうを流していただいたが、強風にあおられてろうそくの火が燃え移って炎上する灯ろうや転覆する灯ろうまであり、昨年は「(さすが巴川。灯ろうもゆっくり流れていくなぁ)」と思っていたが、今年はなんと海からの風をはらんで川上に遡って行くのには笑ってしまった。

■萬世橋からはこんな風に灯ろうを流す。
RICOH Caplio GX 

■川上に巴川を遡っていく灯ろうというのも非常に味わい深い。
RICOH Caplio GX 

ふと昨日の夜に見た萬世橋(よろずよばし)からの灯ろう流しが気になって川沿いを歩いて行ってみた。僕が旭町から清水市立第二中学へ 3 年間通学した橋であり、母は息子が東京の大学に入って卒業するまでの間、店に近い上町にアパートを借りてひとり暮らししていたこともあり、わが親子が最も多く渡った橋が萬世橋だったかもしれない。
 
萬世橋からの灯ろう流しは橋上からかぎ針のついた紐でつるして灯ろうを水面に下ろすのであり、着水した灯ろうがここでもまた川上に流れていく不思議な光景が見られた。来年は萬世橋から魂(たま)送りをしてみようかな、と思う。

■萬世橋橋上。橋の上というのは会えなくなった人とすれ違えそうな気がする不思議な空間である。
RICOH Caplio GX 

■八雲神社前を遡っていく灯ろうたち。
RICOH Caplio GX 

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【東海運送株式会社の東海便】

【東海運送株式会社の東海便】

横浜市に住む伯父を訪ねたら義理の伯母は結婚前清水真砂町に住んでいたと言い、なぜかというと「父が清水駅前の“まるつう”に勤めてたので…」と言っていた。

よかった! 僕は子どもの頃 “○に通の字” の運送会社は “まるつう” と読むと思っており、最近みんな “○に通の字” を “にっつう” と読むので、「(僕だけの思い違いかな)」と思っていたのだった。

“○に通の字” を “まるつう” と読んだ時代があったのだ。



山桃娘からのいただき物第四弾。毎度有難たう御座います。

「とうかいべん」ではなく「とうかいびん」と読む。
旧東海道沿いでご商売されていた当時の商品送り状である。

「東京より全線直通毎日二・三回往復」

昭和28年3月6日の日付がある。
当然東名高速道路などないので清水入江町で荷物を積んだ東海便は箱根の山越えをするか 246 号線を迂回して東京方面をめざしたのだろうが、時間と燃費を考慮するとどちらを選んだのだろうか。

一枚の送り状から日本の大動脈東海道の、往時の姿が思い浮かんだりしてしみじみ。

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【栄寿座の 『ベーブルース物語』 特別試寫會】

【栄寿座の 『ベーブルース物語』 特別試寫會】

山桃娘からのいただき物第三弾。

なんと山桃娘のとうさんは栄寿座での松竹配給『ベーブルース物語』特別試寫會(ししゃかい)に招待されている。
日時昭和二十五年十一月十九日。

左下の三角の欠損は山桃とうさんが見に行った証拠である……と思いきや、応募して見に行ったのは山桃じいさんらしい。


この年昭和 5 年生まれの山桃とうさんは 20 歳で県立清水中学を卒業後、横浜市立大学に入学して

野球部に所属していた

のである。

この年のチーム編成表では 6 番キャッチャーで「投手も可」と書き添えられている(@_@)

入江三丁目の野球小僧は万能だったのだ!すごい……

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【旧清水市役所跡のシバタ大サーカス】

【旧清水市役所跡のシバタ大サーカス】

山桃娘からのいただき物第二弾。

なんと三丁目の夕日のシバタ大サーカスが清水に来ていた。

映画で御馴染のサーカス王
シバタが本部と支部大合同の上
サーカス界の精鋭を網羅して堂々登場!!



「清水市舊市役所跡廣場(しみずしきゅうしやくしょあとひろば)」

とあるけど清水市旧市役所跡広場ってどこだったのだろう。

現清水区役所の場所が当時は空き地だったのだろうか?

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【銀座一丁目柳屋の大ホームラン】

【銀座一丁目柳屋の大ホームラン】

山桃娘が旧東海道沿いにある実家でお父さんの荷物の片付けを手伝っていたら、こんなチラシが出てきたというので写真の詰め合わせが届いた。


どうやら他の写真から類推するに昭和二十年代半ばだと思う。清水銀座 1 丁目柳家本店の電話番号は局番なしの3桁。

「日本で始めて(ママ)の興味ある大奉仕!!」とは何か?
チラシを読むと、たとえば売り出し期間中に2,000円の買い物をしたら、2,000 円の買い物をしたという証明書をくれた上で抽選ができ
その結果、指定された日にその証明書を持って買い物に行くと記載された額の買い物が無料でできるという。

よく考えたら単なる5割引なのだけれど、こういう手順の興味ある大奉仕は「日本で始めて(ママ)」だったのかもしれない。

柳家本店ってどこにあったのだろう?

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▼横浜駅

久しぶりに横浜駅に降り立ったら激しく工事中である。
 
秋葉原駅も新宿駅も、僕が住んでいる地域のちいさな駒込駅まで激しく工事中で、
JRの駅というのは激しく工事中の必要がある時期にさしかかっているのかもしれない。

東海道本線ホームで上り電車を待っていたら
保守職員らしき人がふたりやって来て地面にかがみ込み、何か真剣に話し合っている。


    撮影日: 06.7.11 3:11:31 PM
   OLYMPUS CORPORATION
    C755UZ
    露出時間:10/1000
   F値: 3.7

別にホーム上に図面を広げたりしているわけではなく
点字ブロックや「黄色い線までお下がりください」とか書かれたプレートとかがある
その辺りの地面に巻き尺を当てて計測しながらしきりに何か話し合っている。

昔は街の中で、他人では容易に推測ができそうにない不思議なことに
真剣に取り組んでいる大人の姿が当たり前のように見られ、
そういう真剣な大人の姿を遠くから
飽くことなく見つめているのが好きな子ども時代があった。

そういう意味で「大人の背中を見て育ったなぁ」と思いつつ
いい年になってもやっぱり飽くことなく見つめていたりする。

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【焼酎はひとりで飲むな】

【焼酎はひとりで飲むな】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 11 日の日記再掲

大学は貧乏学生が多い国立校だったのでコンパと称して教室に安酒を買って集まり、深夜まで飲んで騒ぎ、そのまま泊まってしまうことも多かった。いたってずぼらな管理で自由な気風の大学だったと懐かしく思い出す。

そういう大学を卒業した先輩が創業した会社に就職したら、そういう大学をひと足早く卒業した先輩が働いており、そういう大学を卒業した人間は男も女(わが妻)もなぜかみんな大酒飲みなので、夜は連れだってそういう気風を引きずり、未明まで飲んで騒いでいた。思うにその大学は酒飲み養成機関を兼ねていたのかもしれなくて、とくに自分の専攻には大酒飲みが多い。先輩たちはみな大酒を飲み、居酒屋に関する著書の多い太田和彦さんもそんな中のひとりだ。
 
新卒の安月給でよく毎晩そんなに酒を飲めるもんだと母が呆れるので、安い店を探して一番安いつまみで焼酎ばかり飲んでいると言ったら、
「焼酎は眼をやられるからよせ!」
と言う。戦後の闇市を知っている世代なので、メチルアルコールの恐怖が忘れられなかったのだろう。

焼酎ブームになって自分の店にも焼酎を置くようになってからは、さすがに焼酎なんか飲むと眼をやられるとは言わなくなったけれど、
「焼酎は腰をとられるからよせ!」
とはよく言っていた。焼酎を飲んで腰が抜けて帰れなくなった客の世話が本当に大変だったからだ。

■ほろ酔い加減で通りかかったら妖しいムードの漂う一角があったので白日のもとで訪ねてみた。藁葺き屋根の民家前に赤いポストがあり磁器のニワトリが餌をついばんでいる。清水万世町にて。
OLYMPUS C755UZ

■藁葺き屋根の向かいにアート工房があり鉄製のカラスが鳴いていた。
OLYMPUS C755UZ

焼酎を飲み過ぎると意識ははっきりしているつもりでも、腰が抜けたようになって立っていられなくなるというのだけれど、自分はそういう腰をとられて情けない状態になったことはない……と半ば誇らしく思っていた。

東京でも郷里清水でも自転車で飲み会に現れる友人たちがおり、そういうことをいまだかつてしたことがないので、一人になったのを良いことに清水でやってみようとしたらまともに自転車が操作できない。びっくりした。危ない。歩いていても友人から見ると少し千鳥足らしい。帰りの自転車は押して帰るに決まってると笑われた。

そして最近は清水で飲むと、焼酎を飲んだ夜に限って、どうやって勘定を済まし、どうやって実家に帰ったか記憶がないし、実家の思いがけない場所に寝ていて翌朝びっくりすることもある。

ひとりのときはビールで通すことにした。

■高校生の頃、お水神さん脇の公衆トイレもまたアートだったが、いまはすっかり綺麗になって管理が行き届いている。清水富士見町にて。
OLYMPUS C755UZ

■お水神さん脇の公衆トイレ脇を通り、八千代橋を渡り、巴川の川面を吹き渡る川風にはたはたと吹かれ、中年夫婦が記念塔方向をめざして歩いていく。
OLYMPUS C755UZ

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【行く行くベルサイユ】

【行く行くベルサイユ】

ベルサイユ宮殿で連合国とドイツとの講和条約が調印されたのは 1919 年だった。

ドイツの領土割譲、海外植民地の放棄、賠償支払いなどと並んで、軍備制限が定められ、うろ覚えだが飛行機も作れなくなり、それでも復興した軍事技術を誇るために飛行船 Hindenburg 号を作り、それは確か 1937 年に爆発する前、日本にやってきて清水上空も通過したと聞いた気がするが定かではない。



清水銀座の七夕飾り、『ふとんの松永』さんの作品に「祝100」とありその下に「 SINCE 1919 」とある。

おかしいな、1919 年からではまだ 90 年弱なのであり計算違いなのではないかと思ったら
「 SINCE 1919 」は『ふとんの松永』創業年なのであり、
清水港が海港100周年らしい。
…と書いたら二の丸さんがファックスで資料を送ってくださった。

清水が開港場と指定されて直接海外貿易が可能になったのが1899(明治32)年。
よって1999(平成11)年が開港100周年。
開港7年目に海野孝三郎や五代鈴木与平の努力の甲斐あって初の外国船である日本郵船「神奈川丸」が清水港に寄港して製茶3,472箱を積みアメリカに向けて船出していったのが1906(明治39)年5月13日で、よって今年は「外国船初寄港」「製茶直輸出」100周年なのだそうだ。

いただいた資料によると1908(明治41)年には鷹匠町(新静岡)―江尻新道(新清水)―波止場を結ぶ軽便鉄道が敷設されて
製茶を清水港に、製茶工場の燃料用石炭を静岡に輸送し始めたそうなので再来年は「静鉄静岡清水線100周年」ということになるのだろう。

二の丸さん、迅速なる資料送付、お手々のしわとしわを合わせてしあわせナマステ!

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【犬とダラダラする】

【犬とダラダラする】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 10 日の日記再掲

 

犬と一緒にいて最もしあわせと感じるひとときは、だらしのない無為の時間をともに過ごすときであり、犬とふたりきりになる機会があると、ごろっと横になって寝たふりをする。足音が聞こえ、近くにやってきて、髪の毛の中に鼻先を突っ込んで匂いを嗅いだり、額や耳の後ろに湿った鼻をくっつけたりする。「フンフン」鼻息が聞こえ、「ゴクリ」と喉が鳴り、ため息をついたりする。人のため息は口をついて出るけれど、犬のため息は鼻からやるせなく出る。

■浜田。ラーメン屋と常連客の愛犬。
RICOH Caplio GX

■「だるまさんがころんだ!」と声をかけると制止する一発芸を持っている。
RICOH Caplio GX
 
   ***
 
山で野宿した人の体験記。
山で枯れ葉の上に横になって行き倒れたように寝ていたら、ふと動物が自分の匂いを嗅いでいるのに気づいて目が覚める。野生の動物なのだろう、ひどくケモノ臭くて、熊だったりしたら思わず声を上げてしまいそうで、怖くて目が開けられない。そのケモノはしばらく彼の匂いを嗅いだ後、辺りの枯れ葉を集めて彼にかぶせて去って行ったという。動物が何を意図していたのかはわからない。
 
   ***
 
ごろりと横になって寝たふりをし、しばらく犬に匂いを嗅がせていると「ファウウッ……」と微かな声がするので薄目を開けて見るとあくびをしており、また「フンッ……」と鼻のため息をつき「ドサッ!」と横になって、一緒にごろ寝をする。だが人間が起きあがる気配があったらいち早く自分も起きあがれるよう、身体がちょっとだけ人間の身体に触れている。そのちょっとだけ人間の身体に触れているものが犬の腰から尻にかけてだとケモノ臭い。

■大手三丁目、杉山医院のノウゼンカズラが咲いていた。
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【 2006 年、天の川散歩】

【 2006 年、天の川散歩】 

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 8 日の日記再掲

清水七夕祭りを歩く。

友人がオーディオショップ『あかほり』が長いことシャッターを降ろしたままなのでご主人がどうされているか気にしていたのを思い出した。

確たる根拠もないけれど、七夕の夕くらい少しだけシャッターを上げていたりしそうな気もして、期待して前を通り過ぎたけれど、シャッターは下りたままだった。

■固定資産税を払い出かけた清水区役所にて。
OLYMPUS C755UZ

斜め向かい『お菓子の見城』ご主人と目が合ったので会釈し、見城さんに『あかほり』ご主人の事を聞けば詳しい話が聞けるに違いないと一瞬思ったけれど、ためらわれたので通り過ぎた。

■帽子のマルハナ前のテレビ中継。
RICOH Caplio GX 

■清水駅前銀座にて。
RICOH Caplio GX 

『リビングハウスこまつ』を訪ねて野口さんとしばらく話し込み、帰りに再び『みなとマーケット』前を通り過ぎたらいよいよ再開発のための取り壊しが始まるようでサヨナラセールをしていた。

東京でおしゃぶり昆布を買ったら糖分が添加されたしつこい味だったのに懲り、みなとマーケットの『松尾商店』で完全無添加のやつを買いたかったのだけど一年近く我慢した。母はこの店のおばちゃんが自分の店の常連だった事もあって非常に懇意だったのであり、きっとおばちゃんと顔を合わせれば
「おかあちゃんはどうした?」
と聞かれるに違いないからだ。聞くのも辛いが聞かれるのが辛いこともある。

■ミナトマーケット内の見納め。
RICOH Caplio GX 

■ミナトマーケット前にて。
RICOH Caplio GX 

『松尾商店』のおしゃぶり昆布には色違いがあり、
「色が黒っぽいのと茶色っぽいのはどうちがうの?」
と聞くと茶色っぽいのは旨み成分添加、黒っぽいのは無添加だと言うので黒っぽいのを二袋買う。いよいよ取り壊しなので安くしてくれると言うので、いつ新装開店かと聞くと二年後だという。じゃあそれまではどうするのかと聞くと近くの仮店舗で営業すると言い
「これが地図だよ。おかあちゃんに渡しといて!」
と言う。やっぱり……。
「母は昨年 8 月に他界しました」
と答えたらしばしの沈黙があって、その沈黙の時間の中にこみあげるものが有る。それが辛くて足が遠のいていたのだった。

■オオギヤ前にて。
RICOH Caplio GX 

■清水橋下にて。
RICOH Caplio GX 

母の墓参りをし、寺の住職と相談して一周忌の法要を 7 月 30 日と決め、 実家に戻ると何人か来客があったとご近所の方が言う。新盆の客であり、まだ実家が取り壊し前なのだからやはり清水で新盆をやった方がいいのではないかと近所の人々に言われ、寺の住職と相談して 8 月の月遅れの盆に一週間弱の帰郷をして住み慣れた実家で新盆をすることにした。

本町石野源七商店の治子さんが留守中に訪ねてくれたとのことなのでお詫びと月遅れの盆の話をしに訪ねることにする。

昼時にかかりそうなので昼食を済ませて行くことにし、『山下天どん店』の店名になっている天どんをまだ一度も食べたことがないのを思い出して寄って見ようと思ったら満員だった。

ふと、さつき通り沿いにある『みどり寿司万世町店』のことを思い出して何年振かでのれんをくぐってみる。

この店のご主人はたいそう高齢になってからも二人の娘さんに支えられて寿司をにぎられており、ガラスケースに並んだ豊富なネタを眺めながら注文して食べるようなスタイルではないけれど、お決まりをおまかせで食べると良いネタが出てきて、僕は何よりもご主人が握る昔ながらの大ぶりなシャリの寿司が大好きで、それは祖父と食べた昭和三十年代半ば頃の、みどり寿司本店の味を思い出させるのだった。

年老いても寿司を握り続けるのが生きがいだった父親を支える娘さんの姿もまた好もしく、母はよく
「おじいちゃんの寿司でも食べに行くか」
と嬉しそうに言ったものだった。そしておじいちゃんが調子の悪い日は横で手伝っていた娘さんがかわって寿司を握ることもあった。

もう十年近くこの店に来ていないんじゃないだろうかとのれんをくぐると、顔に見覚えのある娘さんが寿司をにぎられていた。

母の足がこの店から遠のいたのは、食が細り始め、歯が悪くなり、大ぶりなにぎり寿司が苦手になったからだった。

娘さんの握る寿司はシャリが小ぶりになり、ネタに対してシャリの小さい寿司をたくさん食べる今のスタイルになっていた。シャリの大きな寿司をたくさん食べたい(要するに大食いだ)ので、またひとつ懐かしい昔ながらの寿司が消えたことを寂しく思う。

■さつき通りにて。
OLYMPUS C755UZ

お決まりを一通り食べ終えて勘定を支払う段になったら客が自分一人になったので、意を決して聞きにくいことを聞いてみた。
「失礼ですがお父さんは」
「父は 5 年前に他界しました」
沈黙があると胸が詰まるので慌てて言葉を探したら、
「僕はお父さんのにぎるでっかいシャリの寿司が大好きでした!」
という奇妙な弔辞ともつかない言葉がが口をついて出た。
娘さんは笑われて、
「そうでしたね、今でもシャリは大きい方がいいという方には大きくにぎるんですよ」
と懐かしそうに答えた。

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▼オルトフォン

僕はそもそも熱心なオーディオファンではなく、大学を卒業して勤めた会社で、
キャンペーンの賞品用として用意されたSONYの初代ウォークマンを手にし、
なんと軽薄な音質なのだろう、でもこんな小さな携帯用機器から
これだけの音が出せるのだなあと複雑な思いでひどく感動した。

もしかしたら自分の身の丈にあったオーディオというのはこんな物で十分なのではないかと思い、
給料で初代ウォークマンとテクニクスのジャケットサイズレシーバー型カセットデッキと
同じくジャケットサイズでフロントローディングの
アイワのレコードプレーヤーを買って大げさなオーディオ機器を処分したのだった。



文京区湯島2丁目。
「イノチシラズ印」の半纏屋前を通り過ぎふと空を見上げたら
「オルトフォンジャパン」がそこにあった。

思えば僕が最後に買ったレコードカートリッジというのがオルトフォン製で
なんとアイワの安いレコードプレーヤーは
オルトフォンのコンコルドという極小カートリッジを採用していたのだった。

きっと簡便な音楽プレーヤーが主流になり、
レコードカートリッジなど安価に手に入らなくなる時代が来るに違いないという予感があり、
ストックとして買い置いたオルトフォンのカートリッジは引き出しにあるがプレイヤーは壊れてしまった。

ortofonってどういう意味なのだろうとネットで調べたら

> ギリシャ語の 「真正な」「正統な」を意味する「orto」と
> 「音」を意味する「fon」の2つを組み合わせた造語

なのだそうだ。

真正な音を支持する人たちに支えられているようで良かったなあと思う。

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▼イノチシラズ印

東京都文京区本郷3丁目。
制服、作業服製造販売の株式会社平井康之商店の看板には
創業100年の文字が見える。

創業時まで遡ると各種半纏を作られていたようで
この店の屋号らしい「山に平の字」を染め抜いた
半纏がショーウィンドゥに飾られている。


    撮影日: 06.7.4 2:10:26 PM
     OLYMPUS CORPORATION
    C755UZ
     露出時間:10/600
     F値: 3.2

いいなぁと思えて笑顔になるのは
この店で作った製品は「イノチシラズ印」というブランドになるらしい。
ネット上で調べると、かつて火消し(江戸弁では「しけし」)半纏を作られていたそうで
「イノチシラズ印のしけし半纏」というのは
なかなかの縁起物かもしれない。

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【港橋水管橋崩落! 】

【港橋水管橋崩落! 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 4 日の日記再掲

 

7月4日の朝、郷里静岡県清水の友人からメールが届き、なんと!港橋脇にあった水管橋が崩落したという。

■昨年11月に撮影した港橋水管橋在りし日の姿。

静岡新聞によれば崩落時刻は午前 4 時半頃とのことなので、友人が撮影した5時半は事故発生の 1 時間後ということになる。港橋水管橋の配水対象は辻地区など 1 万 5557 世帯に向けた上水なのだけれど、流速が変わったためか巴川に流れ落ちる水が赤茶色く濁っているのがわかる。

■美濃輪町の友人が早朝 5 時半に撮影した現場風景。

■美濃輪町の友人が早朝 5 時半に撮影した現場風景。

■美濃輪町の友人の奥さんが携帯電話内蔵カメラで撮影した現場風景。

■ H.N. 二の丸さんが送ってくれた写真。

■ H.N. 二の丸さんが送ってくれた写真。

この水管橋ができたのは昭和 6 年だそうで、昭和 5 年生まれで昨年 8 月に他界した母と、奇しくも同じ年月だけ頑張ったことになる。合掌。

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【虹の彼方に】

【虹の彼方に】

最近は子どもの数が少ないから縁日の香具師も大変なのかもしれない。
あの手この手で「お子様」が喜びそうな工夫をしており、何軒かあったかき氷の店はすべて「シロップかけほうだい!」になっていた。

僕が子どもの頃は少しでもシロップを多くかけてくれる気前の良いかき氷屋を探し、貴重なシロップが全体に行き渡るように、よーくかき混ぜてちまちまと食べたものだった。



今の子どもと来たら蛇口にとりついて豪快にシロップをどんどんかけて、「ええーっ」というような味の混合をしていたりする。

そういえば高校時代、静岡県清水市三保の裏通りにおでんとかき氷の店があり、一番高いかき氷がそうやって手当たり次第にシロップをぶっかけたやつで名前は「レインボー」だった。

虹のように綺麗なのは最初だけだったし、味はアメリカ西部開拓時代のインチキ薬売りが調合した飲み物(飲んだことはないけど)みたいな味だった。

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▼羊をめぐる冒険

緬羊(めんよう)というと高橋留美子のマンガ『うる星やつら』で
錯乱坊がつぶやく「うっ……これは面妖な」を思い出してしまう。

東京都文京区湯島二丁目。
「緬羊会館」という名前を見ただけで面妖だが
かつてここではなんとジンギスカン鍋も食べさせていた。

前を通りかかるたびに
「うっ……これは面妖な」
と思っているうちにジンギスカン鍋は食べそこねてしまった。



僕は村上春樹『羊をめぐる冒険』は読んでいないが
作中に「いるかホテル(旧北海道緬羊会館)」というのが出てくるらしい。
「いるかホテル(旧北海道緬羊会館)」というのは実在するのだろうか。

ネットで検索すると千葉県成田市小菅に今も緬羊会館があり、
成田市大清水にもかつて緬羊会館があったらしい。

湯島の緬羊会館と、成田市小菅に今もある緬羊会館と、成田市大清水にかつてあった緬羊会館と、
村上春樹の小説に出てくるという緬羊会館に関係はあるのだろうか。

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