大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年12月31日 | 写詩・写歌・写俳

<1463> 二〇一五年・晦 日 蕎 麦

         逝きし人 思ひ出しつつ 晦日蕎麦

                                             

 今年は親戚筋に不幸が相次いだ。みな八十歳以上の高齢者で、ほぼ天寿と言って差し支えない歿年齢であったから、悲しみは悲しみに違いないけれども、納得の享年ではないかと思える。しかし、長い付き合いであった人であれば、やはり、淋しさがある。年越しの晦日蕎麦を食べながら、それとなく、この一年を振り返ったことではあった。来年が如何なる仕儀の年になるかは誰にもわからない。願わくは、心穏やかに暮らせること。これに尽きると言えよう。諸兄、諸氏にはよい年を。 写真は我が家の晦日蕎麦。   レクイエムの今年も晦日蕎麦に過ぐ

 


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2015年12月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1462> 干支の引き継ぎ

         墓碑銘は 戦後七十年を負ひ来たりし人の日々に重なる

 各地で今年の未(ひつじ・羊)から来年の申(さる・猿)へ、干支の引き継ぎが行なわれているが、我が家でも猿の置物が登場し、羊の置物と顔合わせをし、引き継ぎを行なった。未(ひつじ・羊)年の今年は戦後七十年の節目の年で、安保法制の関連法が成立し、集団的自衛権の行使を可能にし、戦争の出来る国にした年になった。そして、戦争体験者の漫画家水木しげる、作家野坂昭如が亡くなったのも今年だった。

  ほかにもマイナンバー制の導入やTPP(環太平洋パートナーズシップ協定)の合意など重要な出来事があった。世界を見ると、各地で戦火やテロが頻発し、日本人の犠牲者も出るといった具合で、予断を許さない混沌とした状況は出口の見られない状態で、申(さる・猿)年の来年へと引き継がれる様相である。

                              

 その申(さる・猿)の来年は、選挙の年で、国内では参院選が夏に行なわれる。十八歳に選挙権が引き下げられて初めての国政選挙になる予定で、政権政党の意向によっては衆院を解散してW選挙になる可能性もあるとの予測も出ている。国外では、世界が関心を抱いている米国の大統領選が十一月に行なわれる。

  オバマ大統領は二期に及んでいるので、出馬出来ず、新しい大統領が生まれる。果たして誰が選ばれるのか、米国追随の日本にとっても注視されるところである。事件や事故はそれなりに起きるだろう。災害も。ということで、来年はどうなるのだろうと思ったりする。そこで猿への頼みということになるわけで、干支の引き継ぎなども行なわれるわけである。 写真は去って行く羊と「知らぬが仏」という教訓である聞かざる猿の置物。


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2015年12月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1461> 新年を前にする路傍の石仏たち

        道の辺の 仏にも来る お正月

 今年は戦後七十年の節目の年だったが、この七十年の間、日本は一貫して欧米化の道を辿り、精神、文化から暮しに至るまで、その影響を受け、よしにつけ悪しきにつけ変化を来たし、今に至っている。七十年と言えば、人ひとりのほぼ一生の歳月に等しい。戦後間もないときに子供だった私たちの年代は七十歳代の年齢にある。

 それ以前に生まれた人たちは第二次世界大戦の時代を経験し、世の中の大きな変化にも立ち会って来たから、その人生は時代的に言ってもっと辛辣で厳しかったと言えよう。そのような時代の体験者が徐々に姿を消しているのが昨今であるが、私のように戦後が子供の時代人にとっても、最近の世の中の成り行きは、欧米化した物質文明に飲み込まれている世の中の実感というものがひしひしと感じられて来る。

 物質文明では金銭がものの値打ちを決めてかかる所謂お金がものを言うところから、世の中がみな一様に拝金主義に向かい、お金を稼ぐことが人生の目的になり、そこに成長を感じ、お金を儲けることに走ることが価値の大きいことになった。世界もこの欧米の物質文明に傾斜し、これに基づく拝金主義が押し進められ、これが最も現代的な価値観のスタイルとして見られるに至った。その先端にあるのが市場原理主義で、これが今や世界の趨勢になって大きく影響しているのがわかる。欧米の物質文明はこうした状況をつくり上げて来たが、その特徴は科学技術と相まって、豊かさと利便を押し進め、なお、突き進んでいると言ってよい。

 こうした状況下、一方では拝金主義がもたらす社会的な弊害として、当然のこと現れて来たのが格差の問題である。その格差が極みに達しつつあるのが現在だと言えるが、格差は個々人から国家間まで各層に及び、その不満とか苛立ちが世界各地に噴出しているのが現在の実情である。この例は、地球のいたるところに見られ、いろんな形に現われている。内戦然り、国家間の紛争然り、過激派のテロ然り、難民しかり、飢餓や貧困に苦しむ子供たち然りである。そして、それは欧米文化の拡大とともにグローバル化に向かい、今や、イスラム過激派組織のような国を越えた形のテロ集団も現れるといった具合になって来ているのである。

 このような時代状況にあって、ふと、身近な生活エリアの中で、こうした拝金主義などに関わりのない冒頭の句のような石仏の光景に触れると、みな貧しい生活ながらも等しく懸命に寄り添いながら暮らし、一種平和な時代にあった戦後の昭和の時代に思いが回帰してホッとさせられるのである。今日はそういう光景に出会い、このブログも書く気にもなった次第である。

                      

 奈良大和は古い歴史に彩られたところで、いたるところに各年代の趣が感じられ、そのことだけでも何か時流に翻弄されない芯になるものが見受けられるが、路傍の石仏に花を供えて新たな年を迎えようとする近隣住民の心と言うか、生活の姿が、欧米化した合理主義的拝金主義の世の中にあって今も引き継がれ、道行く人の目にも触れて来る何か懐古的な思いにさせられるよさというものが心に通って来るのである。

 欧米化の流れが行き場を見失い、拝金主義の泥沼に国自体が陥り、にっちもさっちも行かず、とうとう国民の大多数が望みもしないマイナンバー制の導入に踏み切り、その拝金の結果たる国の大借金の手当てにしようとする役人の浅知恵がまかり通ってしまった今年ではあったと言える。

 言わば、こうした国民の気持ちを抑圧するような管理社会もやはり突き詰めて言えば、物質文明の拝金主義の行き詰まりによる弊害的現れと見てよいように思われる。大借金はもとよりのこと、市場原理主義に基づくこの拝金主義的動向をどうにかしないでは格差は納まらず、真の豊かな国にはなれないと言ってよかろう。

 このような御時世にあって、昭和年代の懐古的光景として残る路傍の石仏のこうした一景は心を和ませてくれるものと言える。最近の川柳に「ほっといてわたしゃ一億から抜ける」というのがあったが、これは庶民の感覚から来る国に対する思いで、世界の時流に翻弄される利己的な国政に巻き込まれる国民の不満を代弁しているものと受け止められる。

 言わば、この時事川柳の言葉も今日触れた路傍の石仏の一景に協和する同じ心から現れた言葉だということが出来る。私のような少々世の中を裏から見るような者には見えて来るところである。 写真は迎春のため、綺麗に掃除され、新しい花が供えられた石仏群(斑鳩の里で)。

 

 


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2015年12月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1460> 冬 薔 薇

       冬薔薇 ことの次第に 人生論

  バラはバラでも冬に咲くバラ。冬薔薇(ふゆそうび)という。言わば、バラと言っても一様ではない。これは人に当てても言えること。一様なる人生などはまずなかろう。だから人生論などは生まれる。そして、人生におけることの次第によって人生論などは語られる。

  一生は一様ならぬを常とする ことの次第に聞く人生論

               一

        薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。

        ナニゴトノ不思議ナケレド。

               二

        薔薇ノ花。

        ナニゴトノ不思議ナケレド。

        照リ極マレバ 木ヨリコボルル。

        光リコボルル。

                                                   

 これは北原白秋の「薔薇二曲」という詩である。この「薔薇」は象徴で、この詩は象徴詩と言えよう。バラにバラ、人に人の姿あり。何の不思議はないけれど、人にあれば、白秋のバラに等しく、人は即ち人を問われる。光り溢(こぼ)れるバラの花のようであれば、まずは人生、理想と言えるだろう。 写真は冬薔薇。

   薔薇に薔薇 人に人 いま冬蒼天

   


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2015年12月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1459> 温暖化によせて

        個々にある心の窓辺に共有の風景としてあるは昼月

 生きものは環境によって生き、環境が大切の第一であることは折りに触れて言って来たが、暖冬になっていることで、また、この環境のことについて考えた。環境にはいろいろあるが、どんな生きものにも共通して言える環境は自然環境である。この自然環境で言えば、地球環境が言える。地球生命は地球環境に適合して生き得ている。私たち人間もその地球生命の一員にほかならず、地球の環境下に生存している。

 しかし、地球は大きく、場所によって微妙にその環境を異にする。赤道付近と南極や北極では単純に言っても温度差があり、この温度差は環境の隔たりを示すものと言え、密林と砂漠でもその隔たりは言える。その隔たりも含め、地球生命は地球の総合するところの環境に順応したり、あるは適合して生きていることが言える。

  以上の点を踏まえ、少しこの環境のことについて、今冬の暖冬異変を例に考えてみたいと思う。立冬、小雪、大雪、冬至と、暦が告げる冬の深まりにもかかわらず、今年は暖かな日が続き、紅葉が遅れたことは以前に触れた。ツバメも遅くまで見られた。この間、奈良に出かけたら、奈良公園のアセビやシデコブシに花が見られた。郊外に出ると、田んぼの畦などの草地にはやたらタンポポの花が見られる。冬でも旺盛に花をつける外来のセイヨウタンポポではなく、在来の花である。

                              

  タンポポは例年冬にも花が見られるので、さほど驚かないが、アセビやシデコブシがこの時期に花を咲かせるのは初めてのことで、「びっくりぽん」だった。まあ、これだけだったらスケッチで終わり、考察には至らなかったと思うが、今冬はインフルエンザの流行がなく、ノロウイルスなどによる腸炎の方が多いという話を聞き、このブログにも書く気になった。「梅雨じゃーないのに」と医師も不思議がる現象が起きているという。

  医師はこれについて、暖冬が影響していると考えているようであるが、多分、インフルエンザの患者が少ないのは、その所為だと言ってよいのではないか。言わば、春の花が冬に咲くのも、インフルエンザのウイルスが活況を見せずにいるのも、冬がいつもの寒い冬でなく、環境が異変を来たしていることに起因していると考えられる。

  即ち、異変の花を咲かせる草木も、気温が高いと活発に活動出来ないインフルエンザのウイルスも、言ってみれば、私たちと同じ地球生命にほかならず、一定の環境を共有しながら、適応力の差によってその生きる姿を異にしていると考えられる。インフルエンザのウイルスが活発化しないのは、私たちにとってありがたく、喜ばしいことであるが、環境を共有して生きている関係にある私たちであれば、インフルエンザのウイルスを全否定してかかることは、私たちの生をも否定することに繋がりかねないわけであるから、決して、よいとは言い難い。

 ところで、話は変わるが、この環境のことで、上述の話から派生して考えられることがあるので、それを述べてみたいと思う。随分飛躍するが、それは、世界の国々の関わりにある。米ソによる冷戦時代が終わった後、米国一強による世界の支配体制の時代になり、米国の価値観が押し進められる状況に至り、その図式の中で、環境の相違によってある相手国や地域の文化の違いに対し、押し進める米国の価値観がそこの環境や文化に適合せず、よって、その相手国や地域による反発乃至は抵抗が起き、戦火にも及ぶという風に展開していることである。

 これは、自然環境や風土というものを無視した米国の価値観オンリー、即ち、自分が一番であるという奢りによることが言える。言わば、環境などはどんなにでも変えることが出来るというものの考え方、人間が一番とするものの考え方から来ているもので、随分な自信で、それを押し通している。果してこういうやり方が全人類に受け入れられるかどうかは甚だ疑問であるが、とにかく、そういう手法を米国は取っている。

  所謂、自然を神と尊び、人間は自然の一部に過ぎず、自然環境を大切に考える東洋的思想とは対極的な、自然は征服するものとする人間優先主義に基づき、豊かさは自分たちが作り上げるものとして、そのような物質文明を成し遂げて来たと自負するのが米国流のものの考え方で、中でも、米国人のやることがすべてだとするわけである。

  だが、前述の通り、このようなものの考え方が全人類に理解されるかどうかははなはだ覚束ない。それは、どこまで行っても環境によって生きるという生きものの宿命に突き当たるからである。米国一強の過程においては、豊かさは欲望に彩られ、欲望は豊かさのゆえにより大きくなり、その欲望を満たすために知恵や努力を傾けるのである。しかし、欲望が一面において諸悪の根源であれば、この物質文明も問われることになる。

 そして、思考は回帰するという風になり、人類は救われると思えるが、どうであろうか。その回帰は自然尊崇への回帰である。何となれば、人間も自然の中の一員であり、その環境下に生きてあるからである。現代人は物質的には豊かになり、欲しいものは何でも手に入れることの出来る金持ちになった者もいるが、その金を稼ぐのに不正を働いたり、権力を振り回したり、挙句の果ては武力をもってそれを果すということに繋がっている。そして、こういう側に対抗する者がそこには必然のごとく現れて、拮抗して来るという図式が出来て来る。こういう図式による状況が今のシリア等の中東に見られる紛争と言える。

   これは、所謂、環境を蔑にしている人間の奢りから来ているものにほかならない。ここで今一度念を押したいのは、環境は個々にあるものながら、生きとし生けるものすべてに共有してあるものでもあるということである。地球温暖化という問題などはそのよい例である。インフルエンザが流行らないと喜んでいるのも束の間のこととは言えることなのである。 写真は冬に咲く左からアセビ、シデコブシ、タンポポの異例の花々。