大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月01日 | 吾輩は猫

<181> 吾輩は猫 (8)   ~<180>よりの続き~
         ふと思ふ 人間(ひと)は住みよく 生きゐるか 隣家の高塀 ぽいと越えつつ
 猫一同は人間の愛玩動物として人間の暮らしの中でともに生き、人間のこころを癒すに足りる存在であり、その自負において、猫は人間に欠くべからざる生きものであると自認している。 これは犬にも言えることであるが、その証はお国の統計にもよく現われている。 国民のペットに費やす経費をみると、 お国全体で年に何兆円かだという。 この状況は人間がどれほど犬や猫に心を寄せ、どれほど犬や猫に必要性を感じ、求めて来たかということをいうものである。
 にもかかわらず、そんなことは棚に上げて、何か不都合が生じ、猫でも犬でも不要と見なせば、 命あるものなのに物を捨ててかかるように簡単に捨て置き、後は知らぬ存ぜぬで、挙げ句の果てはこのような理不尽な申し合わせの始末である。 これは人間の勝手な状況を示すものと言わざるを得ない。人間は自分たちの都合によってほかへの迷惑など省みず、何でも押し通してゆく。挙げ句の果ての皺寄せが今回の回覧の一件にはうかがえる。猫一同からすれば到底得心のゆくものではない。
 この理不尽とも言える人間の勝手主義は人間同士の間でも見られるようで、不況に際して労働者の首切りをいとも簡単に行なうというようなことが制度を盾とした合理的企業の論理の上になされる。これは一つの例であるが、こんなふうに世の中がこのところつとに殺伐として感じられるのは、猫の吾輩だけが抱く心持ちではないはずである。 これは人間社会が進めて来たものの考え方が根本にはあるように思われる。例えば、自由という美名を盾にした個人主義的利己主義の過ぎたるにより、他に対する思いやりの心持ちというようなものが失われて来た結果ではないかということが考えられる。
 これについては、漱石先生も「自覚」という言葉を用いて述べている。昔は自己を捨てることを美徳として教えたが、 近年は自己を自覚して、 自分をよりよく保つことをもってよしとする気分が 行き渡っているというのである。 つまり、 自分が一番大切であるという自己中心の考えが今の世の中を支配しているという。 自由主義の論理は第一番に自分に向かう。 しかしながら、このような考えが行き渡り、このような考えの持ち主ばかりになると、互いに自分が第一番であるから、他者への思いやりがなくなって、互いに自分の言い分を通そうとするような関係に思いが働き、そこには必然的に対立が生じ、社会の状況をぎくしゃくさせることになるというわけである。
 なるほど、自由と民主主義は万民の望むところで、 封建主義的な身分制度の時代にはこの望みは新しかったけれども、したたかな人間の知恵は理想のそれすらも姑息に賢く利用してかかる。 政官財の癒着というような利権に絡む問題などもこの点において見れば、その様相の展開もわかって来る。 (以下は次回に続く)