大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年02月17日 | 吾輩は猫

<168> 吾輩は猫 (1) 
  今回より『吾輩は猫』という短編を、断続的になるけれども、ネタの乏しい日に二十回ほど掲載してみたいと思う。写真は「吾輩」の同じ写真になろうかと思うが、この点については御了承願いたい。前置きが長くなってもいけないので、早速始めることにする。 その都度冒頭に短歌を置いて記したいと思う。 
                          *              *                 *                   
  吾輩は猫 猫ゆゑにあるこの身 すなはち猫を 生きゐるところ
 吾輩は猫である。 自分を指して言うとき、漱石先生の猫が述べたごとく「吾輩」という言い方が一番であると思い、 真似ることにした。 「小生」というような言い方もあるが、「吾輩」という方が何か矍鑠とした心持ちになる。 よって、先生の猫には失礼かと思うが、自分を称して「吾輩」と呼ぶことにした。なかなかの気分である。
 「頭を以て活動すべき天命を受けて此娑婆に出現した程の古今来の猫であれば、 非常に大事な身体である」と、 教師の家に身を寄せることを自負する先生の猫に比べれば天と地ほどの違いはあるけれども、 この世に生を受けて生きている次第を考えるに、吾輩は吾輩、先生の猫とは自ずと異なり、吾輩なりの思いというものがある。
 生きものはみな時と所の産物であって、このことは人間にも通じれば、 犬にも猫にも通じる。先生の猫は二十世紀の猫を自認して已まないが、 それならば吾輩は二十一世紀の猫である。 パソコンは言うに及ばず、漫画本一つを思い巡らしてみても傍らには進化の形跡がうかがえる。もちろん、これは人間世界のことで、 猫には関わりのないように思われるが、人間に関わって生きている身においては決して猫に無関係とは言えない。
 良し悪しは別にして、人間の文明は猫にも及ぶ。 で、 進化の途に身を置くものとして思えば、先生の猫に比して、吾輩の立場は後発ながら、後発は後発の利にあり、 温故知新をもって自ずと進化していることが自認出来る。 能力というような遺伝的あるいは運命的とも言える個の違い、つまり、個々に見られる差異というものは致し方のないものながら、要は時と所の産物たる前提の上にすべての生きものがあるということで、頭脳の良し悪しなどに関わりなく、後発の利は当然のこととして認められる。
 この時と所を思うに、 この世に生を受けて存在している次第においては、生きとし生けるものはみな同じ位相にあることが言え、人間は人間なりに、犬は犬なりに、そして、猫は猫なりに、その時と所において存在し、生きていることに相違なく、この点は大方今も昔も変わりない。 では、 こんなところで、 吾輩二十一世紀猫の思いというか、 心の内を生まれてこの方よりの経緯とともにお話したいと思う。 (以下は次に続く)