大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年08月31日 | 写詩・写歌・写俳

<3152> 余聞 余話 「新型コロナウイルスが生んだ新語を考える」

     コロナ禍やスキンシップはどこ行った

 三密、ソーシャルディスタンス(フィジカルディスタンス)、ウイズコロナ、アベノマスク、自粛警察(マスク警察、帰省警察)、GoToキャンペーン(GoToトラベル、GoToイート)、コロナQRなど思い浮かぶものだけでも新型コロナウイルスが生んだ新語が次々。もちろん、新型コロナウイルス自体が新語に当たる。

   加えて他にも、このウイルスに関連してよく耳にするようになった用語というか、言葉がある。例えば、PCR検査(抗原検査、抗体検査)、クラスター、パンデミック(エンデミック、エビデミック)、アウトブレイク、オンラインシステム、テレワーク、エクモ、不要不急、自粛などが思い浮かぶ。

 二〇二〇年度の新語・流行語大賞は、上にあげた新型コロナウイルスによる新語並びに流行語が上位を独占するのではなかというほどの数に及ぶ。私が選ぶとすれば、新型コロナウイルス自体ということになろう。この新語によって世界中が大騒動になっているのだから。次は三蜜か。

   三密は新型コロナウイルスに脅えた二〇二〇年の世相をよく反映している言葉で、個人的見解としてはこの言葉も新語にふさわしい気がする。ほかには、ソーシャルディスタンス、自粛警察(マスク警察)、GoToキャンペーン(GoToトラベル)なども候補にあげられよう。

 それはさて置き、新型コロナウイルスによって生み出されたこれらの言葉やよく耳にし、目にする用語を見てみると、二つの特徴があるのに気づく。一つはPCR検査、クラスター、パンデミック(エンデミック、エビデミック、アウトブレイク)のようにウイルスに関連した専門用語としての言葉が頻出していること。これは当然と言えよう。今一つは新型コロナウイルスが人間から人間へ感染し、感染力が強く、社会を混乱に陥れるという意味において現代の人間関係や社会に因む言葉が目立つことである。

 よく登場するこれら関連の言葉を拾い上げてみると、感染症を引き起こす新型コロナウイルスの脅威が感染自体以上に私たち人間の心理に食い込んで刺さり、恐怖を蔓延させている実際に気づく。この恐怖の心理はこれまで慣れ親しんで来た社会の生活並びに文化の様式から社会の構造や体制まで、その心理的迫力によって私たちに見直すことを強い、私たちの生活に迫っていることがうかがえるのである。

                               

   そして、ものの考え方、即ち、価値観や生活の趣までも強制するがごとく影響していることを示していると見て取れるところがある。つまり、新型コロナウイルスは、私たちに日ごろにおける今まで普通に行なっていた行動の見直しを強い、思想や体制までも無言の心理的圧力によって変革すべく襲いかかっていることがうかがえるという次第である。

 こうした新語や用語を見ていると、原因たるものを取り除けば、ことは畢るという南方熊楠の箴言の言葉を思い起こすが、取り除くことが出来そうにない特質の持ち主である新型コロナウイルスへの対処にはウイズコロナで、知恵を働かさなくてはならず、その方法として、治療薬や予防措置のワクチンの開発が待たれるということになる。長期政権を誇った安倍一強をも撃ち倒した新型コロナウイルスの威力は、今後どのように私たちへ及んで来るのだだろうか。 写真はコロナウイルス禍の影響で、ソーシャルディスタンスに配慮した記者の配置による官房長官の記者会見(テレビの映像による)。

 三密―――集団感染のリスクが高くなる環境。密閉、密集、密接。

 ソーシャルディスタンス(フィジカルディスタンス)―――感染防止としての社会的距離(身体的距離)。

 ウイズコロナ―――ウイズはwidth。ウイルスとの共存、共生の道。

 アベノマスク―――マスクの不足を補う企画として一家庭二枚のマスクを安倍首相から全国に配布した。配 布の遅延、サイズの小ささで不評。

 自粛警察(マスク警察、帰省警察)―――感染の恐怖心による自警的取り締まり。行き過ぎが問題視されるに至った。

 コロナQR―――スマホのQRコードを利用したコロナウイルス追跡システム。

   GoToキャンペーン―――国民の行動を促す国土交通省が企図したサービス事業。GoToトラベルサービスが実施されている。

 PCR検査(抗原検査、抗体検査)―――ウイルスの検査方法の一つで、PCR検査は遺伝子の有無により判定。

 クラスター―――集団感染。五人以上に及んだ場合か。

 パンデミック(エンデミック、エビデミック)―――世界全体への感染拡大状況(地域的感染状況、国内または数か国に及ぶ感染状況)。

 アウトブレイク―――予想以上の頻度で病原が広がり増える状況。

 オンラインシステム―――コンピューターネットワークを利用するサービス。オンライン授業、オンライン診療など。

 テレワーク―――teleは離れた場所。workは働く意で、在宅勤務、モバイルワーク、リモートワーク。

 エクモ―――ECMO、体外式膜型人工心肺装置。

 不要不急―――用事がなく、急ぐ必要がないこと。

 自粛―――自分から率先して行動を控えること。これが疎かになるとき自粛警察が現象が起きる。


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2020年08月30日 | 創作

<3151>  作歌ノート  悲願と祈願 (十)

              ときは来ぬ渡りの群が空をゆく祈願の心もってあるべし

  <私たちは悲願と祈願の縁者である>

   岡倉天心は『茶の本』(村岡博訳)の中で「神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊して来たが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚く「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている」と言っている。

   これは廃仏毀釈の時代の謂いであるが、つまり、私たちは、自分の胸のうちに「おのれ」という祭壇を秘め、この祭壇においてことあるごとに至高の神へ香を焚き、祈りを捧げるのである。私たちは、自らが己の欲するところにあって、その願いを叶えたいとしてある存在で、或るはそれを煩悩と呼んだりするが、そうした生の存在は己の利に神をも巧み、「おのれ」という祭壇を密かに有するということをする。

 これは、私たちが自分を一番大切に思っている証にほかならないが、私たちが一様に弱い存在であることをも示すものと言ってよく、ここに悲願と祈願の思いが生じることになるわけである。悲願は未来への望みであり、祈願はその望みを叶えたいとする気持ちの現れにほかならない。

   明日がどうであろうかと思い巡らすとき、私たちはその状況が自分にとって良好なものになることを願う。その願いは「おのれ」のうちでなされ、みなそれぞれに自らの胸の中にある祭壇において、至高の神へ香を焚き、祈りを捧げるのである。

   他人には決してわからないその秘められた「おのれ」の胸の中の祭壇は、悲願と祈願の意味においてみな等しいものと言えるが、祭壇に捧げる思いは個々それぞれであり、千差万別であると言える。では、ここで至高の神へ香を焚き、祈りを込めて詠んだ歌を二、三首あげてみたいと思う。例えば、次のような歌がある。

  時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ                                  源 実朝

  腕に神をたのみて網打てば朝日子ほのぼのかかりけるかも  腕(ただむき)               松本敏郎

  われのみの山の祠の初幣はわが掌にささぐ雪を踏みつつ   掌(て)                  辰川弘温

 八大龍王に対する実朝の祈願は民のためのものであるが、政治を任された為政者たる自分のために祈りは捧げられたものである。私たちは個々のうちに秘めたる神を持つ存在で、自分を軸にした悲願と祈願の持ち主であることがわかる。その典型が天心の言う「おのれ」という祭壇に向かい至高の神へ香を焚いて祈りを奉げる神である。

                                 

   京都は賀茂川。出町柳の辺り。高空を北に向かって往く鴨の一群があった。棲み処を変える北帰行の旅であろう。その旅は鴨にとっての悲願であり、その悲願の旅を成就せしめんがための自からなる祈願がそこには顕現する。

   その鴨の一群にその悲願と祈願が、見上げるものたちに感じられるのは、折に触れて「おのれ」という祭壇で至高の神へ香を焚き、祈りを捧げる同じ位相の生きとし生けるものの理解者として私たちがあるからにほかならない。

  衣手に僧も見上げし群の数すべては悲願の縁者に通ふ

  北を指す渡りよ旅よはるかなれ行くからはみな悲願を遂げよ

  眼には悲願と祈願 旅立ちの渡りの群が空高くゆく           眼(まなこ)  

   つまり、衣手に見上げた僧も自転車を止めて眼差しを上げた職人風の男も、私もみな長い旅の途につく鴨の群に思いを通わせる同じ気持ちの悲願と祈願の縁者であり、喜びも悲しみも楽しさも苦しさもみな承知し、それらを分かち合って来たものたち、生あるものであるからこそ熱いものが感じられ、言葉少なに、じっと往くものたちに目をやり、見送ったのである。 写真はイメージで、飛翔する鴨の群。

 


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2020年08月29日 | 写詩・写歌・写俳

<3150>  余聞 余話 「安倍首相辞任表明の夜」

      虫鳴けり非情の時を身に負ひて

 厳しい残暑が続く日々にあるが、この間から夜になると戸外の闇に虫の音を聞くようになった。時の移ろいの一端であるが、二十八日、潰瘍性大腸炎の持病悪化により、国政を担って行くことが困難になったとして安倍首相が辞任を表明し、長期政権に終止符を打つことになった。この辞任表明と虫の音に移ろう非情の時が思われた。

 首相にはこの間から自身の身のこなしに何んとなく生気がないように見られ、病院への出入りが報じられていたこともあって持病の悪化が憶測され、政局に動きがあるのではないかという感があったが、まさかの辞任表明で、世上を驚かせることになった。

 と同時に、一強多弱と言われて来た揺るぎない長期政権もあっけない幕切れとなった感。新型コロナウイルスの脅威が政権にも及んだということになるか。それに違いなかろう。その脅威が首相のダメージになったことが改めて思われた。政敵はことごとく排除して堅牢な城郭を築いていたかにあったが、見えざる敵は新型コロナウイルスだったということか。否、獅子身中の潰瘍性大腸炎の難病だったとニュースは伝える。

          

   歴代首相の在任期間の記録を塗り替えたばかりで、首相にはどこまで続けるのかという話題で尽きなかった。だが、一回目と同様、持病の弱点が浮上し、あっさり白旗を上げた。そんな感じの記者会見ではあった。政局においては他を寄せつけない一強の七年八ヶ月に及ぶ長期政権を維持して来た。この間にはかなりの我がままが押し通され、非難の集中砲火を浴びて来た。

   その長期は必然のごとく功罪を大きくすることになり、問われることも多々あった。政権などというものは誰が担っても功罪が生じ、長期になればなるほどそれが大きくなって現れる。という意味において言えば、政権に自信が持てなくなった安倍首相の辞任はよいかも知れないということになる。しかし、引継ぎをしないまま突然の辞任表明がなされたという点において言えば、この政変の事態は深刻であると言わざるを得ない。

 次期政権は誰に託されるのか、内々には決められているのかも知れないが、国政における諸課題が山積しているという点において見ると、誰でもよいとはならず、後継の難しさが指摘される。安倍首相にはアベノミクスなる経済成長を一番の柱にしたデフレ脱却を目指し、これを株価に反映させるべく行なって来た政策が思われる。

   だが、令和の新時代に入り、この経済政策に大きく立ちはだかったのがこのところの新型コロナウイルスによる感染症の猛威だった。中国に端を発し、世界に拡大し、未だ終息が見られず、日本にも大きく影響を及ぼし、政権のお題目であるアベノミクスの経済活動にも大打撃を及ぼし、首相を辞任にまで追い込んだということなのだろう。

   このコロナ禍の見通せない現状にあって、国民の社会生活と経済活動の両立をどう調整して行くのか。これに加え、諸課題が山と積まれている。この現状をどのようにリードしてまとめ、治めて行くのか、後継の重責が改めて思われる次第。万事宜しくことが運んで行けばよいのであるが、内外に厳しい情勢が待ち受けている。

   それにしても、冒頭で触れたごとく、時の移ろいの非情が改めて思われるところ。如何なる権力者も、この時の非情に打ち勝てるものはいない。これは生の事情に等しく、安倍首相の突然の辞任表明にも思われることではある。そして、端倪を許さない時は何も知らぬげに、後継者の政治に与し、そして、以前と同じように移ろい行き、そして、また、その末に総括を導くということになる。「時の非情」とはよく言ったものである。 写真は安倍首相辞任表明の二十九日朝刊一面の見出しと記者会に臨む安倍首相(テレビの映像による)。        虫の声暑さの峠越えたるか


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2020年08月28日 | 写詩・写歌・写俳

<3149>  余聞 余話 「雲海に寄せて」

       雲海は自然の恵みの典型にしてあり草木の繁れる緑

 大和(奈良県)の地に草木の花を求め、写真に収めて二十余年になる。後半の十年ほどは紀伊山地の山々に出向くことが多く、ほとんどが日帰りで、まだ明け切らない午前四時ごろ自宅を出発し、三時間ほど車を走らせ、午前七時前後に登山口に着き、歩き始めるのが常だった。

   夏場の早朝は涼しく、煩わしい虫も少ないので歩きやすい。そして、ときに雲海が見られることもあった。コースにもよるが、山頂には正午前に着き、一服した後、周辺を見て回った。つまり、このようなスケジュールによって深山、山岳への花の撮影行に当たった。そして、午後二時スタートの下山を目安に、花への時間を費やした。

       

 紀伊山地に雲海が多く見られるのは、褶曲による高い山脈と深い渓谷の連なりによる地形的特徴と多雨地帯で知られる地表湿度の高い気象的条件が揃っているからだろう。言わば、紀伊山地にはどの季節においても霧や雲が発生しやすく、その霧や雲が地表近くに集まる条件が整っているからに違いない。

 この条件は水分を必要とする地表の草木にとって極めて重要なことで、早朝に山歩きをするとこのことがよく理解出来る。晴天の夏山で早朝の笹原や草地を歩くと、ズボンの裾がびしょりと濡れる。これは霧や雲と同じように空中湿度が高く、昼夜の気温差による夜間の冷え込む条件下に生じる露のためである。

   しとどの露は日差しを受けてほぼ午前中に消える。だが、草木の根元にはまだ水気が残っていて、午後になるとその水気もすっかり消えるが、そうするうちに夕方を迎え、また、晴れの日の夜には露が降り、霧が出て、草木に水分を補給する。これが山における自然のサイクルで、草木は緑溢れる枝葉を保ち、山はいつも青々と茂っているということになる。

            

 近畿地方で最も高い紀伊山地のほぼ中央を南北に連なる大峰山脈の標高二〇〇〇メートルに近い山岳高所の岩場や草地に生えるオオミネコザクラ、サンカヨウ、ツバメオモト、ツマトリソウ、オノエランといった寒温帯域の草花がその生存を可能にしている最も大きい要因は、夏の晴れた暑い日でも水分の補給が出来る露や霧の発生する自然の仕組みがそこに整っているからである。

 早朝の山歩きではこの露や霧の恩恵に与る草木のことが自然に感じられ、教えられる。そして、その露や霧の現れる気象的現象の典型が雲海であり、雲海の効用のことも理解出来ることになる。雲海が現れる日は晴天になるのが通例で、雲海より上空は晴れ渡っている。ということで、登りに向かって雲海を突き抜けると眼下に雲海が広がっている風景に出会えるわけである。

   雲海は日差しによって暖められると、消え去り、地上も晴れ渡る。濃霧で歩く先が覚束ないような朝の山歩きも気象の心配をする必要はないことになる。そして、ある一定の標高に達すると、眼下に雲海が広がる風景が見て取れるということになる。紀伊山地に草木の乏しい禿山がほとんど見られないのは、雲海が象徴するように水分が豊富なためである。

   雨量が極めて少なく、地表の乾燥が進んでいるアメリカの西海岸やオーストラリアではよく落雷による山火事が起きる。近年、地球温暖化が言われ、このところ山火事が多発し、大規模に及んでいるが、紀伊山地のように山に水分量の多い日本ではこういう自然現象による山火事はほとんど起きない。これは水のありがたさであり、水を確保出来る自然の仕組みが成り立っているからと見なせる。そのことを雲海は示すもので、早朝の山歩きでズボンの裾がずぶ濡れになることも然り、山岳の岩場に生える草花が枯れることなく訪れる私たちの目を楽しませてくれることにも繋がっている。

   もちろん、これは紀伊山地に限ったことではなく、言わば、日本が生命に欠かせない水の豊富な列島の国であるということを物語る事例にほかならない。しかし、最近の地球環境は、温暖化の影響であろう、地球の一方で雨の降らない乾燥地の状況が酷くなる半面、一方では過ぎたる豪雨による水の被害が続発するという災害が起き、憂慮の対象として、対策が叫ばれるようになっている。

   言わば、紀伊山地によく見られる雲海の現象は、こうした地球上の異変の中にあって、まだ、穏やかさが保たれていると言えるが、この紀伊山地のような自然に恵まれた山塊においても地球温暖化は容赦なく押し寄せ、豪雨被害をもたらすということが起き、私たちに警告し、考えさせている。 上段の写真は十津川村の釈迦ヶ岳登山道標高一四〇〇メートル付近から見た雲海。下段の写真は野迫川村の標高一〇〇〇メートル付近から見た雲海(左)と大台ヶ原ドライブウエイの標高一四〇〇メートル付近から見た雲海(右)。

 


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2020年08月26日 | 植物

<3147>  大和の花 (1098) オガルカヤ (雄刈萱)                                   イネ科 オガルカヤ属

                       

 丘陵地や河川の土手などに生える多年草で、根茎は短く、地上茎は細く、平滑で硬く、無毛にして叢生し、高さが40センチから1メートルほどになる。葉は長さが15センチから40センチほどの線形で、縁がやや巻く。

 花期は8月から11月ごろで、茎の上部に多数の花序をつける。花序は舟形の苞の先に2個の枝を左右に開き、小穂を数個ずつつける。実は長さが3ミリ前後の長楕円形で、褐色を帯びる。

   カルカヤ(刈萱)は刈った草の意で、オガルカヤ(雄刈萱)はメガルカヤ(雌刈萱)に対してつけられた名で、別名のスズメカルカヤ(雀刈萱)は花序がスズメのとまっているように見えることによるという。

 本州、四国、九州、沖縄に分布し、朝鮮半島、中国、台湾にも見られるという。大和(奈良県)では川岸や高原で見かける。 写真はオガルカヤ(細い茎が叢生する。右端の写真は果期)。  辟易の残暑も平気かキリギリス

<3148>  大和の花 (1099) メリケンカルカヤ (米利堅刈萱)                       イネ科 ウシグサ属

                                                

 北アメリカ原産の多年草で、アジアやオーストラリアなどに広く帰化し、日本にも戦後渡来して現在は関東地方以西で野生化している。日当たりのよいところを好み、田畑の畦や道端などで群生するのを見かけるが、都市部でも見られ、屋根の上にも生えているのを見かけたことがある。

 草丈は50センチから1メートルほどになり、茎は基部がやや扁平で、叢生する。葉は長さが3センチから20センチの線形。花期は9月から11月ごろで、葉腋に花序をつけ、2個から4個の小穂を散形状に出す。小穂は2花からなり、1花は不稔性で、柄だけがつく。稔性の1花には2センチから3センチの白毛が密生する。  写真は群生するメリケンカルカヤ(左)と長い白毛が輝く果期の姿(右)。   湧き上がる雲の峰々夏大和