<847> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (53)
[碑文] しずやしず 賤のおだまき くり返し むかしをいまに なすよしもがな 『吾妻鏡』 『義経記』 静御前
この歌は、源平合戦の後、源義経の愛妾静御前が捕えられて鶴岡八幡宮の廻廊で、義経の兄源頼朝に請われて舞ったときに詠ったもので、大和高田市の大中公園に建てられた静御前記念碑の中に見えるものである。『吾妻鏡』や『義経記』には「しづやしづ」と出て来る歌で、『平家物語』等を加えて見るに、概ね次のような経緯によって詠まれた歌であるのがわかる。
天下を分ける源平の合戦で平氏に勝利した源氏は兄弟が対立するところとなり、院宣を得た頼朝は弟の義経を逆族として追捕にかかり、追われる身になった義経は郎党を引き連れて逃げ、一時、吉野山に隠れた。静は義経を慕って吉野山に赴いたが、義経は衆徒の蜂起による危機を危く逃れ、静を残して行方をくらました。静は吉野山でさまよっているとき、衆徒に捕まり、追っ手の北条方に引き渡され、京に置かれた後、鎌倉の頼朝のもとに送られた。
『吾妻鏡』によると、文治二年(一一八六年)三月のことで、静は詮議の後、世に知られた白拍子舞いの名手であったため、頼朝に強いられ、四月八日、鶴岡八幡宮の廻廊で、頼朝や政子らを前に、その舞いを披露した。まず、「吉野山 峯のしら雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき」と詠って舞った後、静御前記念碑に見える「しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」の歌を詠って舞ったのであった。
吉野山の歌は、雪深い山に分け入った義経が恋しくてたまらないと言っている歌であり、「しづやしづ」の歌は、頼朝の世である今を義経が活躍した二人の仲がよかった昔に返したいという願いを詠ったもので、ともに義経を慕う歌になっているのがわかる。後の方の歌は『伊勢物語』の三十二段に出て来る「いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな」の「いにしへの」を「しづやしづ」に変えた歌として知られるもので、頼朝の怒りを買うことになったのである。
つまり、祝いの舞いが見られるものと期待していた頼朝は合戦で活躍した義経を持ち上げ慕う舞いを見せられ激怒した次第である。だが、政子が「私が当人であってもこのように舞ったでしょう」と取りなしたため、ことなきを得たと『吾妻鏡』は伝えている。静はお腹に義経の子を宿していたため、その後も預かりの身として鎌倉に留め置かれた。
生まれる子が女子であれば咎めなし、男子であれば即刻死を与えるという頼朝の命が下されていたことにより、閏七月二十九日に出産した子が男子であったため、その子は即刻母の静から引き離され、命名されることもなく、鎌倉の由比浦に投げ捨てられたという。その後、九月に至り、静は母の磯野禅師とともに放免され京へ向ったとある。
各書に見える静に関わる物語は以上のごとくで、磯野禅師も静御前も実在の人物であると見られているが、それ以後、二人に関する記述はどの書にもなく、その後二人がどのような人生を送ったかは不明とされている。しかし、その後の話は全国各地に民話として伝承され、義経の後を追って旅をし、旅先で亡くなったというものが多く見られ、墓も奈良、兵庫、埼玉、山口、福島、新潟など各地に見られるという具合である。
後世の人々には、悲話の人である静に、その後の物語を加えたい欲求が働いたのだろう。各地にその後の消息が語られ、判官びいきの思い入れがそこには見て取れるように思われる。中には静を祀る神社も存在するというから、その思い入れは一入でないものが感じられる。
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このような静に関わる多くの伝承地がある中で、もっとも穏やかなのは大和高田市における伝承であろう。傷心衰弱した身で京に戻った母娘は磯野禅師の生まれ故郷である大和高田の磯野村に戻り、そこで余生を送り、生涯を閉じたというものである。ほかの伝承地と異なり、大和高田市には、静に所縁の場所が多く、現在では点在する市内の所縁の場所を結ぶ「静御前めぐり」のコースも設定され、「夢咲塾」という街づくりグループによる静御前をテーマにした町おこしなども行なわれている。
なお、『徒然草』や大和高田の伝承等によれば、磯野禅師(磯野禅尼)は大和高田の長者の娘で、京にのぼり、通憲入道によって編み出されたと言われる水干、鞘巻、烏帽子姿で舞う男舞いの「白拍子舞い」を学び、これを娘の静に伝授したと言われる。静は容姿端麗で、ある年、旱魃に見舞われたとき、雨乞いの祈願の舞いを行ない、雨を降らせたことによって白拍子の名手として一躍有名になり、義経とも出会って相思相愛の間柄になったと言われる。
写真の左は、大和高田市内の大中公園に建てられている静御前の記念歌碑。次は、市内に点在する静所縁の場所を示した「静御前めぐり」の案内板。次は、病気平癒のため祈願に通っていた笠神明神社への道で静が衣を掛けたという松の伝承地に当たるとされる高田高校の正門近くに見られる松とこの松を詠んだ森田湖月の「色かえぬ松に縁の古墳かな」の句碑。古墳は静のとも言われる。
写真右は、市内の春日神社境内に見られる民話で知られる義経の七つ石。逃亡を余儀なくされた義経一行、静、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、駿河の次郎、伊勢の三郎、亀井六郎、片岡経春、佐藤忠信、荷物持ちの喜三太の総勢十人がこの地に差しかかり、思案の結果、伊勢の三郎が吉野へ物見に向かい、静を母の磯野禅尼のもとに送り届けるため、片岡経春が静に同道、義経主従七人がここに留まって待ったという伝承地で、七つの大きな石が据えられている。 思ひみる 雪の吉野も 吉野なり