大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年12月31日 | 写詩・写歌・写俳

<850> 晦 日 蕎 麦

       一年の プラマイ思ひ 晦日蕎麦

 人生というのは、自分にプラスになることやマイナスになることを積み重ねて行く営為ではないかと思えるときがある。例えば、今日など。思えば、大晦日というのは一年の終わりに当たる節目の日、で、このことが言える日ではないかと思われて来る。もちろん、プラスにも、マイナスにも大小があり、どちらにも該当しないものも私たちの諸事にはある。該当しないものについては無関心で、思考にも上って来ない。で、プラスとマイナスの部分が意識されることになる。

 そのプラマイは私たちの基準によってあるから、プラスをマイナスと評価したり、マイナスをプラスと評価することもあって、人によってプラス思考とかマイナス思考とかということも言われるわけである。例えば、昨日触れた特定秘密保護法などにも当てはめて言えることで、この法に肯定的な御仁がいるかと思えば、否定的な御仁もいるという次第で、ニュースなどでもうかがい知ることが出来るわけである。

 これは基準の違いによるもので、ここには個人的な違いが反映される。言ってみれば、このプラマイには個人差が大きく関わる。だが、基準はさておき、どちらにしても、プラスがあればマイナスもあるのが人生であれば、一年には一年の間に幾らかのプラマイが生じるわけで、それが意識され、思われるという次第である。

                                                       

 で、一年を振り返って思うに、私の今年で言えば、プラスよりもマイナスの方に自分の思いというものが傾斜して来たように思われる。そして、何故かとも思われるところがある。で、これは自分にマイナス思考の傾向があるからか、それとも年齢によるものか、そこのところは定かでないが、これがこの一年の私の印象の傾向ということになる。では、今一句。 知己逝きし 年にしてあり 晦日蕎麦  諸兄諸氏にはよい年を――。 写真は今年の晦日蕎麦。憂いはこの蕎麦で断ち切るのが世の人の気分。私にも多少その気分がある大晦日ではある。


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2013年12月30日 | 写詩・写歌・写俳

<849> 2013年 巳年 回顧

       一年の 回顧常なる 年の暮

 巳年の今年は蛇に縁のある桜井市三輪の大神神社で新年を迎えた。年越しの祭りで名高い恒例の繞道祭を見るためであった。あれから一年、今年も残すところ一日である。今日は随分と冷え込んで、氷が張り、霜柱が立った。どうも新春寒波の先がけのようである。

  ところで、一年を振り返ってみると、いろいろあったが、私生活では奥歯に入れ歯をしたことと十一年間乗った車を買い換えたことくらいか。奥歯は相当前から悪く、抜くことを勧められていたが、愛しさがあって今まで抜くことが出来ずにいた。車の方は十一万キロ超に及ぶ走行距離とボディーの傷みが激しいこともあってそろそろ買い替えなくてはと思っていたところへ消費税の話が出て来たため、踏ん切りがついた次第である。

      

  ほかにも、細々とあったけれど、概ね無難に過せた一年であったように思われる。来年は果たしてどうなるのだろうか。高齢者には年金の減額に始まり、消費税のアップ、物価の上昇と、いいニュースは少しもない。この状況は少子高齢化にあって、いい世の中の流れとは言えなかろう。そういう意味においては、高齢者には気になる一年であった。

  その世の中の動きで、最も関心が持たれたものと言えば、私には特定秘密保護法案が可決されたことである。この法案の可決は、日本の方針を大きく変えるきっかけになる法案で、国民には覚悟が必要なことが思われるところがある。来年以降、この法にリンクする出来事が見られるであろうことが察せられるが、そこのところを私たちは見据えて行かなくてはならないだろう。

  今一点思われたのは、今年、国の借金が一千兆円を越えたということである。どんな政策を立てようとも、借金がこれ以上増えるような政策では将来に希望の持てるものではないことが言える。希望の持てない政策では、一時を凌いでも、将来に繋がらない。このことは誰が何と言おうと確かなことである。果たして来年の午年はどういうことになるのだろうか。

  旧車はディーラーの担当者に持って帰ってもらったが、その後ろ姿には言い知れない愛しさが感じられた。車は単なる物であるけれども、十一年間十一万キロの走行距離というのは、私と妻の行動範囲と行動時間並びに行動距離を示すもので、私たち自身の十一年間を物語るものでもあれば、別れに愛しさが募るのも当然と言えるだろう。「ありがとう。さようなら」で、来年を迎える。 写真は今日出来た氷と霜柱。それに、旧車が記録した総走行距離「118674」の数字。

 


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2013年12月29日 | 祭り

<848> 薬師寺のお身拭い行事

        新しき 年に向かひて お身拭ひ

 二十九日、奈良市西ノ京の薬師寺で恒例のお身拭いが行なわれた。お身拭いはすす払いと同じで、仏像に溜まった一年の埃を拭って新しい年を迎えるもの。午後一時から大きな注連縄飾りが掲げられた白鳳伽藍の金堂(本堂)で、本尊の薬師三尊像(国宝)の魂を抜く法要が営まれ、その後、僧侶や全国から参加した薬師寺青年衆のボランティア約五十人が鏡餅を搗くとき用いたお湯を使って、薬師如来像と脇侍の日光、月光の両菩薩像の埃を一斉に拭った。その後、大講堂や東院堂などでも諸仏像のお身拭いが順次行なわれていった。

     

 この日は、法要の後、普段はお目にかかれない我が国最古の彩色画で知られる福徳円満の吉祥天女画像(国宝)が納められた厨子が金堂の正面、薬師如来像の前に置かれ、開扉された。これも迎春準備のためで、一旦閉じられ、三十一日の深夜に行なわれる吉祥天悔過法要で再び開扉され、一月十五日まで開かれる。薬師三尊像のお身拭いのときは堂内が参拝者でいっぱいになった。

 写真は左から金堂に掲げられた大注連縄のお飾り。本尊薬師如来像のお身拭いとお身拭いの後の薬師如来像の尊顔(ともに金堂で)。彌勒如来像など諸仏像のお身拭いと青年衆によるお身拭い(ともに大講堂で)。


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2013年12月28日 | 写詩・写歌・写俳

<847> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (53)

     [碑文]  しずやしず 賤のおだまき くり返し むかしをいまに なすよしもがな              『吾妻鏡』 『義経記』   静御前

 この歌は、源平合戦の後、源義経の愛妾静御前が捕えられて鶴岡八幡宮の廻廊で、義経の兄源頼朝に請われて舞ったときに詠ったもので、大和高田市の大中公園に建てられた静御前記念碑の中に見えるものである。『吾妻鏡』や『義経記』には「しづやしづ」と出て来る歌で、『平家物語』等を加えて見るに、概ね次のような経緯によって詠まれた歌であるのがわかる。

 天下を分ける源平の合戦で平氏に勝利した源氏は兄弟が対立するところとなり、院宣を得た頼朝は弟の義経を逆族として追捕にかかり、追われる身になった義経は郎党を引き連れて逃げ、一時、吉野山に隠れた。静は義経を慕って吉野山に赴いたが、義経は衆徒の蜂起による危機を危く逃れ、静を残して行方をくらました。静は吉野山でさまよっているとき、衆徒に捕まり、追っ手の北条方に引き渡され、京に置かれた後、鎌倉の頼朝のもとに送られた。

 『吾妻鏡』によると、文治二年(一一八六年)三月のことで、静は詮議の後、世に知られた白拍子舞いの名手であったため、頼朝に強いられ、四月八日、鶴岡八幡宮の廻廊で、頼朝や政子らを前に、その舞いを披露した。まず、「吉野山 峯のしら雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき」と詠って舞った後、静御前記念碑に見える「しづやしづ  しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」の歌を詠って舞ったのであった。

 吉野山の歌は、雪深い山に分け入った義経が恋しくてたまらないと言っている歌であり、「しづやしづ」の歌は、頼朝の世である今を義経が活躍した二人の仲がよかった昔に返したいという願いを詠ったもので、ともに義経を慕う歌になっているのがわかる。後の方の歌は『伊勢物語』の三十二段に出て来る「いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな」の「いにしへの」を「しづやしづ」に変えた歌として知られるもので、頼朝の怒りを買うことになったのである。

 つまり、祝いの舞いが見られるものと期待していた頼朝は合戦で活躍した義経を持ち上げ慕う舞いを見せられ激怒した次第である。だが、政子が「私が当人であってもこのように舞ったでしょう」と取りなしたため、ことなきを得たと『吾妻鏡』は伝えている。静はお腹に義経の子を宿していたため、その後も預かりの身として鎌倉に留め置かれた。

  生まれる子が女子であれば咎めなし、男子であれば即刻死を与えるという頼朝の命が下されていたことにより、閏七月二十九日に出産した子が男子であったため、その子は即刻母の静から引き離され、命名されることもなく、鎌倉の由比浦に投げ捨てられたという。その後、九月に至り、静は母の磯野禅師とともに放免され京へ向ったとある。

 各書に見える静に関わる物語は以上のごとくで、磯野禅師も静御前も実在の人物であると見られているが、それ以後、二人に関する記述はどの書にもなく、その後二人がどのような人生を送ったかは不明とされている。しかし、その後の話は全国各地に民話として伝承され、義経の後を追って旅をし、旅先で亡くなったというものが多く見られ、墓も奈良、兵庫、埼玉、山口、福島、新潟など各地に見られるという具合である。

  後世の人々には、悲話の人である静に、その後の物語を加えたい欲求が働いたのだろう。各地にその後の消息が語られ、判官びいきの思い入れがそこには見て取れるように思われる。中には静を祀る神社も存在するというから、その思い入れは一入でないものが感じられる。

    

 このような静に関わる多くの伝承地がある中で、もっとも穏やかなのは大和高田市における伝承であろう。傷心衰弱した身で京に戻った母娘は磯野禅師の生まれ故郷である大和高田の磯野村に戻り、そこで余生を送り、生涯を閉じたというものである。ほかの伝承地と異なり、大和高田市には、静に所縁の場所が多く、現在では点在する市内の所縁の場所を結ぶ「静御前めぐり」のコースも設定され、「夢咲塾」という街づくりグループによる静御前をテーマにした町おこしなども行なわれている。

 なお、『徒然草』や大和高田の伝承等によれば、磯野禅師(磯野禅尼)は大和高田の長者の娘で、京にのぼり、通憲入道によって編み出されたと言われる水干、鞘巻、烏帽子姿で舞う男舞いの「白拍子舞い」を学び、これを娘の静に伝授したと言われる。静は容姿端麗で、ある年、旱魃に見舞われたとき、雨乞いの祈願の舞いを行ない、雨を降らせたことによって白拍子の名手として一躍有名になり、義経とも出会って相思相愛の間柄になったと言われる。

 写真の左は、大和高田市内の大中公園に建てられている静御前の記念歌碑。次は、市内に点在する静所縁の場所を示した「静御前めぐり」の案内板。次は、病気平癒のため祈願に通っていた笠神明神社への道で静が衣を掛けたという松の伝承地に当たるとされる高田高校の正門近くに見られる松とこの松を詠んだ森田湖月の「色かえぬ松に縁の古墳かな」の句碑。古墳は静のとも言われる。

  写真右は、市内の春日神社境内に見られる民話で知られる義経の七つ石。逃亡を余儀なくされた義経一行、静、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、駿河の次郎、伊勢の三郎、亀井六郎、片岡経春、佐藤忠信、荷物持ちの喜三太の総勢十人がこの地に差しかかり、思案の結果、伊勢の三郎が吉野へ物見に向かい、静を母の磯野禅尼のもとに送り届けるため、片岡経春が静に同道、義経主従七人がここに留まって待ったという伝承地で、七つの大きな石が据えられている。  思ひみる 雪の吉野も 吉野なり

 


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2013年12月27日 | 写詩・写歌・写俳

<846> 神 仏

          一日過ぎ また一日過ぎ 一年の 過ぎしを重ね 古稀を迎へぬ

 いよいよ今年も残すところわずかになった。今日は神棚と仏壇の掃除をし、ささやかながら迎春の準備を済ませた。昔はどこの家でもほとんどの家に神棚と仏壇があって、この時期になると、煤祓いをし、新年を迎える用意をした。大家族制であった昔は家長を中心にして家が重んじられ、家の存続することが願われ、男の子がいない家では養子をもらって家を継いで行くというような風があった。このため、各家にはその家を守る神さまを祀る神棚があり、先祖代々の位牌が納められた仏壇があった。

 それが、戦後、欧米化による個人主義への傾斜と経済優先の政策による産業構造の変革にともなう人口の都市集中によって、核家族化がなされ、大家族制の家の崩壊が進み、神仏を大切にして来たそれまでの精神は徐々に薄れ、家から神棚や仏壇が消えて行くということになった。殊に人口が集中する都会地でその傾向が強く現われるに至った。

                                              

 この傾向は昨今いよいよ進み、家族の崩壊すらも見え始めている。言わば、家、即ち、家族とともに自分の人生というものがあった昔は、その人間関係において絆というものがそこには確立されていた。そして、そういう大家族の家が何軒か集まって集落をつくり、そこでも一つのまとまりが生まれ、家単位の絆というものが自然に見られた。

 これらが、家の崩壊によって失われて行き、現在に及んでいるわけである。最近の事情を見ていると、一人暮らしで亡くなって行く人が増えている。これは人生を自助努力によって生きなければならないことを示すもので、大家族制の時代には考えられなかった状況と言ってよい。この状況は、殊に戦後の人口移動の際、田舎から都会地に出て来て、欧米化の波に飲み込まれていった人たちに多く見られるように思われる。

 私などもその一人かも知れないと言ってよいが、どのように対策すればよいか。七十代は、日々の生活もさることながら、テーマは難題を含んでいるように思われる。この問題は、神棚と仏壇の光景に繋がるところで、掃除をしながら思われたことではあった。どちらにしても、昔の大家族制の時代と違い、今は自助努力が求められる時代である。写真は迎春準備が整った我が家の神棚と仏壇。