<197> 吾輩は猫 (14) ~<196>よりの続き~
人間の 丈にはとほく 及ばぬが 猫には猫の 呟きがある
ここで人間の価値観と猫の価値観に異なるところがあるであろうかということが思われるところで、少しこのことについて触れてみたいと思う。同じ生きとし生けるものであるから、そこに根本的な違いはなかろう。信義は大切で、美徳は麗しく、他を思いやる愛は欠くべからざるものである。 しかしながら、この世は正負入り乱れ、美徳の反対の悪徳も存在する。暴力で相手を傷つけること、徒党を組んで個人を排撃すること、 騙すこと、 盗むこと等々、まだほかにもいろいろとある。人間社会ではみな常ながら見られることで、テレビやラジオのニュースに耳を傾けていれば自ずとわかる。 そこで、悪徳の悪に対し、仏教にいうところの十の戒めがあるように、人間の社会ではこの負の難問に対し、 努力が求められている。 この間、 法事の席を覗いていたら、「弟子某甲 尽未来際」に続けて諸悪をあげ、席の者一同が和して十善戒というものを唱えていた。
人間に美徳があって猫に美徳のないはずはなく、人間に悪徳があるように猫にも悪徳があるであろうということが思われる。 で、悪徳とわかっていても自分の意に沿って動くところが生きものであって、 この厄介な心の中の代物を人間は「業」と名づけたりしている。猫の意(業)は単純であるけれども人間のそれには知恵というものが大いに働き、損得の思惑なども絡んだりして複雑極まりなく、単純には説明出来ないところがある。猫の能力と人間の能力ではその差に大きな開きがあり、その能力において人間の徳というものに猫のそれが及ぶものではなく、美徳にしても、 反面における悪徳にしてもそれが言える。これは鷗外先生の言葉に通じるところで、人間の長じてあるところ、 その差の大なるにあって、人間の行ないで、猫には理解出来ないということもままあることになる。で、猫においては理不尽極まりない自治会の処方、回覧のごときもなされるのであろうことが思われる。
このような人間に接して暮らしているからは、知恵の至らない猫一同ではあるが、猫は猫で、猫はやさしく、これを一番の徳目として人間に接しているのである。このやさしさは実によく心に通うもののようで、人間にとって猫は必要欠くべからざる生きものということが出来、吾輩などはこの自負を感謝の念とともに胸に秘めていると言ってよい。しかし、増えるのは困るということで、人間の側にはいろいろな見解が出る。 もちろん、これは常に人間の立場からのみなされる見解で、猫は一つの例にほかならず、その見解に対する論議は、つまり、強者のそれであって、 ほかにも事例をあげることが出来る。 例えば、増え続ける野生の鹿や逆に絶滅寸前にある鴇などにそれを見る。 増えれば減るように対処し、 少なくなって絶滅に瀕するようになれば増やすことを模索する。これが常套の手立てで、その対象にある当事者にはシリアス極まりない問題だということが猫の吾輩にはよく理解出来る。
増減は生きて行くものにはつきもので、 どの辺りで折り合いがなされるかであるが、 この問題を突き詰めていけば、生きものの本質のところにまで及ぶ。 「この世は焼きとり屋で矢がも救出を論じるような矛盾を引きずっている」 という人間社会をカリカチュア(戯画)と見る新聞の論評子の言葉からも見えるように、一を言えば、すべてに通じるかと言えば、そうはいかないのがこの世である。例えば、食うものと食われるものの間に立っては、 食わねば生きて行けないものと、食われてはたまらないものとの衝突がある。 生きるうえにはこのような問題にも直面するわけで、これはどのように考えても自分本位にしか決着し得ず、人間が考えれば人間の、 猫が考えれば猫の立場に立つということで、 悲しいかな、 すべてを満足させることなど出来ない話で、これはまこと、生の難題と言わざるを得ない。 (以下は次回に続く)