大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年10月08日 | 万葉の花

<766> 万葉の花 (110) ももよぐさ (母々余具佐) = キク (菊)

       野菊咲く 遠き昔を 思はせて

  父母が殿の後方(しりへ)の百代草(ももよぐさ)百代いでませわが来たるまで               巻二十 (4326)  生玉部足國

  この歌は、巻二十に登場する防人の歌で、原文では「父母我 等能々志利弊乃 母々余具佐 母々与伊弖麻勢 和我伎多流麻弖 」と表記されている。題詞によれば、天平勝宝七年(七五五年)に防人の交代が行なわれ、このとき交代要員の防人に歌を作らせ、提出された中のものである。

  これは、『万葉集』を手がけた大伴家持が前年の天平勝宝六年に防人を取り仕切る兵部少輔に任ぜられたことによるもので、歌の左注によれば、遠江国(静岡県)佐野郡(さやぐん)の生玉部足國(いくたまへのたりくに・未詳)によって詠まれたもので、二月六日に遠江国の担当役人によりまとめて奏上された十八首中の採用七首の中の一首である。

 歌意は「家の裏の百代草ではないが、お父さんもお母さんもどうか百代までも長生きしてください。私が防人から帰って来るまで」というもので、防人の厳しさが垣間見られる歌であるが、歌は遠江の佐野郡(静岡県掛川市付近)での出発に際しての歌ということになる。「ももよぐさ」(母々余具佐)は百代草のことで、その後に続く「百代」を導く詞として用いられているのがわかる。

                                                                     

  『万葉集』に「ももよぐさ」が見える歌はこの防人の一首だけで、如何なる植物か、キク、ヨモギ、ムカシヨモギ、ツユクサ、マツなどの諸説が見られる。これだけの名があげられていることは、「ももよぐさ」が如何なる植物か定かでない証であるが、この歌から考えると、候補として一番近いのはキクということになる。キクには「ももよぐさ」の別名があり、歌の内容にもぴったり来るところがある。

 だが、イエギクと呼ばれる栽培ギクは中国からの渡来で、万葉時代にはまだ我が国に導入されていなかったようで、わずか『懐風藻』の漢詩の中にキクの馥郁たる香によって見られる程度に過ぎない。それも、これはキクの知識のみで詠まれたと考える向きもあり、実際キクに接して詠まれたものかどうかははっきりしない。ましてや、万葉のこの歌は遠江の田舎の事情にして詠んだものであるから、この栽培ギクというのは見解として当てはめ難しい面が覗える。

 ここで、昔から自生している野菊が思われる次第である。野菊には主に二系統があって、葉の細長いシオン属のノコンギクやヨメナの類と葉が円形に近く、深い切れ込みのあるキク属のリュウノウギクのようなキクに分けることが出来る。遠江の田舎に見られるとすれば、キクでも野菊が考えられるところで、「ももよぐさ」との関わりで見れば、シオン属の野菊は除かれ、ここでは自生分布の観点から、白い花を咲かせるリュウノウギクか黄色い花を咲かせるアワコガネギクが候補として考えられる次第である。

 しかし、これにしても「ももよぐさ」からすれば、推察の域を出るものではなく、はっきりしないということになる。写真は野菊。遠江国(静岡県)も分布域の白い花を咲かせるリュウノウギクと黄色い花のアワコガネギク(いずれも奈良県南部で)。

 

 


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2012年05月23日 | 万葉の花

<264> 万葉の花 (4)  あやめぐさ (安夜賣具左、安夜女具佐、菖蒲草、菖蒲)=ショウブ (菖蒲)

            愛されて 来しを思へり あやめぐさ

           霍公鳥(ほととぎす)待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日を未だ遠みか               巻 八  (1490)  大伴家持                  霍公鳥今来鳴き始(そ)む菖蒲 蘰(かづら)くまでに離(か)るる日あらめや          巻十九 (4175)  同 

 このあやめぐさ(菖蒲草・菖蒲)は美しい花を咲かせるアヤメ科のアヤメ(菖蒲・渓蓀)やハナショウブ(花菖蒲)のことではなく、サトイモ科のショウブ(菖蒲・白菖)のことで、ともに初夏の今の時期に花を咲かせるが、サトイモ科のショウブはセキショウ(石菖)に似た肉穂花序に淡緑黄色の小花をびっしりとつけ、同じ名とも思えないほど地味な花である。

    この地味な方がなぜよく採りあげられ、歌にも詠まれているのかということが思われるが、このショウブのあやめぐさを『万葉集』に見るとその疑問が解けて来るのがわかる。『万葉集』にショウブのあやめぐさが詠まれた歌は長短歌合わせて十二首あり、九首までが家持の歌で、上記一番目の歌に見えるように、一つには「玉に貫く」と詠まれているごとくショウブを薬玉にしたことによる。また今一つには二番目の歌に見られるごとく「蘰く」ことに用いられたからである。

 「蘰く」とは古語で、髪につけることを言う。この歌の場合は節供の五月五日(旧暦)の日に髪に飾って、厄除けをし長命を願ったということ。つまり、サトイモ科のショウブはこの時代から薬用にされ、長命を願い、その役を担って知られた植物だった。

                                                                      

 このように、『万葉集』に登場する植物を見てみると、花を愛でた歌は案外少なく、前にも述べたが、染料植物のようにその植物の特性によって後に続く言葉を導き起こすために用いられているケースが目につく。このショウブのあやめぐさにもそれが言え、花に関係なく、用いられ登場しているのがわかる。

 このショウブがあやめぐさと呼ばれたのは、葉が沢山集まって並び立つさまが文理、即ち文目に見えるからで、『万葉集』の成立ころはショウブと言わず、あやめぐさと呼ばれていた。平安時代になると、菖蒲を音読みにし、ショウブ(さうぶ)の名で呼ばれるようになり、現在に至っている。なお、菖蒲は本来セキショウ(石菖)の漢名で、ショウブは白菖が正しいと植物学者の牧野富太郎は指摘している。中国からその名が伝えられたとき混同し、誤認されたのだろう。また、アヤメ科のアヤメも菖蒲の字を用いるからややこしいが、これは花に関わらず、みな葉が似るからに相違ない。

 『枕草子』には「節は五月にしく月はなし。菖蒲(さうぶ)・蓬(よもぎ)などのかをりあひたる、いみじうをかし。九重の御殿の上をはじめて、いひしらぬ民のすみかまで、いかでわがもとにしげく葺かんと葺きわたしたる、なほいとめづらし」とあり、この時代のころから五月五日の端午の節供にこのショウブのあやめぐさを軒や屋根に配し、後には風呂にも入れる風習が生まれたようである。

 なお、上記の二首にも言えるが、このあやめぐさはホトトギスと抱き合わせに詠まれている特徴がある。その歌は十二首中十一首にまで及んでいる。これはウツギの卯の花にも言え、夏の到来を告げる。それもホトトギスはあの独特の鳴き声で登場するからおもしろい。  写真は左が花をつけたショウブ(奈良市の県新公会堂庭園で)。右は祠の屋根に揚げられたヨモギとショウブ。神前にはチマキやとれたての野菜が供えられている。(五月五日、御田植祭が行われた宇陀市大宇陀野依の白山神社で)。