大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年01月28日 | 祭り

<148> 奈良・若草山の山焼き
       山焼きや 写真撮る人 列をなす
  一月の第四土曜日に当たる二十八日夜、恒例の奈良・若草山の山焼きが行われた。 松明の聖火行列と安全祈願の神事が行われた後、午後六時過ぎから花火が打ち上げられ、同六時三十分ごろに点火され、一時間ほどをかけて、山腹約三十三ヘクタールの約七割が焼かれた。焼け残った部分は二月の昼間に焼くという。今年は東日本大震災や台風十二号の被災地復興を祈願してハートマークや笑い顔、シカなどを模った六百発の花火が打ち上げられ、例年になく豪華だった。
  山焼きの起源は、江戸時代に若草山における東大寺と春日社興福寺の領地争いを奉行が仲裁したとき境界をはっきりさせないのがよいとして始められたというのが一般的な見解であったが、最近、両社寺から、 古文書に山焼きが領地争いに由来するという記述がないことからこの由来説に不服が申し立てられ反論が出た。反論は、領地争いによるものではなく、山頂の古墳に幽霊が出て、山を焼いて霊を慰めないと祟りが及ぶという迷信があって、そのため通行人が火を放ったのが始まりであるという。 しかし、この社寺側の反論も実証がないことから山焼きの由来説については今もはっきりしたことはわからないことになっている。
  山焼きは江戸時代のころ始められたようで、 中断もあったが、 明治十一年に復活し、最初は昼間に行なわれ、同三十三年から夜間に移った。 戦後の昭和二十五年からは一月十五日の成人の日に行なわれるようになったが、現在は休日法の関係で一月の第四土曜日に移行され、この日の夜に行なわれるに至っている。
                                                 
  若草山は、古くは葛尾山(つづらおやま)と呼ばれ、山頂には鶯塚古墳(鶯陵)と呼ばれる五世紀ごろの前方後円墳があることでも知られるように、背後の春日山が斧鉞を入れない原始林で被われているのに対し、昔から人の立ち入りが盛んにあって、庶民の間でも山に入る者が多く、ススキを中心とする草原の山が出来て、以後、その草原を維持するために山焼きも行なわれたのであろう。また、山全体が火山によって出来た安山岩の山で、土砂崩れなどの起き難い土質にあることも若草山が草原である大きな要素としてあり、山焼きなどもこの条件下になされるようになったことがわかる。これに領地争いや幽霊などのエピソードが加えられ、その由来が説話的に語られるようになったのではなかろうか。
  どちらにしても、 若草山の山焼きは大和の冬の風物詩として定着し、 全国的に知られるところとなり、多くの見物人を集めるに至っている。山焼きは順次焼かれ、全山が一時に燃え上がるわけではないので、 肉眼では帯になって燃えるのが見える程度で、 長時間露光による写真のように全山が炎に包まれているようには見えない。このため、山焼きは写真の独壇場と言ってよく、 カメラマンは三脚でカメラを固定して撮るので、よいアングルポイントにはカメラマンが群れをなすことになる。   写真の塔は興福寺の五重塔で、この写真のみ以前の撮影による。