大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年02月26日 | 吾輩は猫

<177> 吾輩は猫 (6)    ~<174>よりの続き~
          猫は猫 猫の由来を長らひて今にあるなり 高塀の上
 ここで、顔立ちについて今少し述べてみたいと思う。 神さまはよくしたもので、千差万別、似たものはあっても、同じものは一つとなく、これは人間にも犬にも猫にも言えることで、それは顔立ちだけでなく、性情性格においても言える。これは人格、犬格、猫格それぞれがほかにないこの世に一つのかけがえのない命をもってある天命の存在であって、良かろうが、悪かろうが、表面的な器量などは別段問題にすることはなく、 今を生きている命という点においてはみな同じく貴重な存在であることが言える。このことが認識出来ていれば怖いものなど何もなく、吾輩は吾輩、つまり、吾輩のほかになく、かけがえのない存在で、 吾輩の自信もこの思いに裏づけられていると言える。猫は猫なり、吾輩は吾輩なりに、今こうして生きているのである。
 ところで、何処にもあることであるが、好き嫌いはつきもので、猫好きがいれば、猫嫌いもいる。 これが世の中というものである。先生の猫は、鼠も捕らず、盗人が入っても役に立たないと軽蔑され、人間の中には利害にはしこい者もいて、皮を剥いで三味線の用にし、味などは問題にせず、残りの肉はもったいないので食うのだと野蛮極まりない考えを言い立てるものも現れ、それを耳にして胆を冷やした次第であるが、 文明の進捗というものか、 現今では、 人家の中で鼠の姿などとんと見ることはなく、鼠の「ね」の字も感覚の上に触れて来ることがない。 で、 「鼠を捕らず」というような猫に対する非難の声が人間の側から発せられることは まずなくなった。ところが、最近、猫が鼠の立場になりかねないような聞き捨てならない質の悪い話が周囲に持ち上がっているのを耳にした。
 「猫には食べ物を与えないでください」とか、「飼い主は首輪か何か目印になるものをつけてください」とか、最近、自治会の方から回覧があったようである。猫嫌いの思惑が働いたに相違ない。猫を汚いものと蔑視し、排除しようという魂胆で、要は飼い猫以外はみな始末に及ぶという話である。 半野良暮らしの吾輩などもターゲットに違いない。 人間には無闇に思える猫の用を足す習性に対し、耐え難いという人間の側の気分もわからないではないが、人間においての公序良俗を猫の習性に向けて言い立てるのは、 糠に釘のようなもので、効用などないに決まっている。 以て、もとを断つという対策が生まれ、このような回覧がなされるに及んだのであろう。他所では猫を公害扱いして、餌を与えてはならないという罰則つきの条例まで制定しているところがあると聞く。
 しかし、飼い猫だってよほどの猫でなければ猫の習性に変わりはなく、他所の庭で用を足さないという保証はない。 こういうことであるからは、猫を皆無にしなければ、 猫に対する不平を断ち切ることなどまず不可能と言える。で、対策としての措置はなおエスカレートせざるを得ず、そのうち猫にも首輪に鑑札をつけ、 紐でもって柱にでも繋ぎ、外へ出歩くことが出来ないようにするという方策を人間の側が採らないとも限らない。いや、既にそのような猫もいるようである。とにかく、制度や規制を得意とする人間はうむを言わせず、十把一絡げに制度に基づく規制の網を被せるということを行なう。 (以下は次回に続く)