<89> 黄 落 期
黄落期 終にして見ゆ ダンデイズム
ここで言う終(つひ)とは人生の終わり、つまり、死を迎えるときのことである。この間、落語家の立川談志が亡くなったとき、彼のダンデイズムのことが語られていた。彼はものをはっきり ずばずば言う異色のキャラクターとして世に通っていたが、 これは噺家としての才能に裏打ちされていたのではないかと思われる。 内面にはやさしいところがあったという。
才能のある者はときとして奔放になって、それが傲慢に見られたりするものであるが、その才能が社会制度の上に成り立っている人間関係の常識と噛み合わず、厄介者にされたり、疎んじられたりすることが往々にしてある。
ところが、そういう場合でも、才能に自信を持っている当人は平気でその社会における人間関係の中でやり取りする。 談志もこういうタイプの人ではなかったかと思われるが、 当人はいたって真面目で、 一つの志向にあり、 ダンデイズムの持ち主だったことがうかがえる。歯に衣を着せない言葉の端々に見え隠れする理念のようなものがダンデイズムを思わせるところで、テレビの映像にも垣間見られた。
突き詰めて言えば、 彼の美学は「太く短く」ではなかったか。つまり、みっともないような延命を求めないというのが心がけとしてあったように思われる。これは反俗物主義に通じるもので、その精神は言葉に似つかわしくなく真面目で、ダンデイズムと言われてよいような気がする。
ダンデイズムは英語のダンデイ(Dandy)から来ている言葉で、『広辞苑』には「伊達ごのみ。おしゃれ」とあるが、根本的には美意識を言うものであり、 広義には人生の送り方にも当て嵌められ、思想的あるいは哲学的意味合いをも含んでいると言ってよかろう。だから、普段はなかなか言えず、死に際して言われたりするのである。
黄落というのは「木の葉または果実の黄ばんで落ちること」(『広辞苑』)で、黄落期はその時期を言うものと知れる。 そのイメージは 殊にイチョウの黄葉に通うところがあるが、そのイチョウの落葉は半端ではなく、 その葉をつけた枝振りと葉の舞い落ちるさまは絢爛豪華で美しい。
また、散り敷く葉は黄色い絨毯を敷き詰めたように見え、終章を飾るにこれ以上のものはない光景を見せる。これを人の生に例えれば、サクラの花が典型であるが、イチョウの葉も「散り際の美しさ」が ダンデイズムとして私たちの生きざまに通うところがある。 冒頭に掲げた句はこの黄落期と立川談志(七五歳)の死が私のイメージの中で重なって来たところによる。
写真は奈良公園で、 写真には公園の名物であるシカの登場を願ったが、 神鹿とは言え、句の趣旨からすれば、シカは常識に倣った俗物ということになるかも知れない。