大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年11月30日 | 写詩・写歌・写俳

<89> 黄 落 期
      黄落期 終にして見ゆ ダンデイズム
    ここで言う終(つひ)とは人生の終わり、つまり、死を迎えるときのことである。この間、落語家の立川談志が亡くなったとき、彼のダンデイズムのことが語られていた。彼はものをはっきり ずばずば言う異色のキャラクターとして世に通っていたが、 これは噺家としての才能に裏打ちされていたのではないかと思われる。 内面にはやさしいところがあったという。
    才能のある者はときとして奔放になって、それが傲慢に見られたりするものであるが、その才能が社会制度の上に成り立っている人間関係の常識と噛み合わず、厄介者にされたり、疎んじられたりすることが往々にしてある。
    ところが、そういう場合でも、才能に自信を持っている当人は平気でその社会における人間関係の中でやり取りする。 談志もこういうタイプの人ではなかったかと思われるが、 当人はいたって真面目で、 一つの志向にあり、 ダンデイズムの持ち主だったことがうかが
える。歯に衣を着せない言葉の端々に見え隠れする理念のようなものがダンデイズムを思わせるところで、テレビの映像にも垣間見られた。

 突き詰めて言えば、 彼の美学は「太く短く」ではなかったか。つまり、みっともないような延命を求めないというのが心がけとしてあったように思われる。これは反俗物主義に通じるもので、その精神は言葉に似つかわしくなく真面目で、ダンデイズムと言われてよいような気がする。
   ダンデイズムは英語のダンデイ(Dandy)から来ている言葉で、『広辞苑』には「伊達ごのみ。おしゃれ」とあるが、根本的には美意識を言うものであり、 広義には人生の送り方にも当て嵌められ、思想的あるいは哲学的意味合いをも含んでいると言ってよかろう。だから、普段はなかなか言えず、死に際して言われたりするのである。
  黄落というのは「木の葉または果実の黄ばんで落ちること」(『広辞苑』)で、黄落期はその時期を言うものと知れる。 そのイメージは 殊にイチョウの黄葉に通うところがあるが、そのイチョウの落葉は半端ではなく、 その葉をつけた枝振りと葉の舞い落ちるさまは絢爛豪華で美しい。
  また、散り敷く葉は黄色い絨毯を敷き詰めたように見え、終章を飾るにこれ以上のものはない光景を見せる。これを人の生に例えれば、サクラの花が典型であるが、イチョウの葉も「散り際の美しさ」が ダンデイズムとして私たちの生きざまに通うところがある。 冒頭に掲げた句はこの黄落期と立川談志(七五歳)の死が私のイメージの中で重なって来たところによる。

                
  写真は奈良公園で、 写真には公園の名物であるシカの登場を願ったが、 神鹿とは言え、句の趣旨からすれば、シカは常識に倣った俗物ということになるかも知れない。

                                                          


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年11月29日 | 写詩・写歌・写俳

<88> 長 谷 寺 紅 葉
        観音の 大悲の山の 紅葉かな
  「いくたびも まゐるこころは はつせでら やまもちかひも ふかきたにがは」と御詠歌に詠われ、 「初瀬(はせ)の観音さん」 で親しまれている桜井市初瀬の長谷寺は真言宗豊山(ぶざん)派の総本山で、朱鳥元年(六八六年)天武天皇のために道明上人によって開基されたと言われ、 神亀四年(七二七年)に徳道上人が聖武天皇の勅命により十一面観世音菩薩を祀ったことから観音信仰の根本霊場になった。
  本尊は度重なる災禍により失われたが、 その都度作り直され、現在の十一面観世音菩薩立像は室町時代の作で、高さが 一〇.一八メートルにも及ぶ見上げるほどの大きさを誇り、木造では我が国最大の仏像として知られ、右に錫杖、左に水瓶を手にする長谷寺様式の観音像として重要文化財に指定されている。
  長谷寺は 西国三十三観音霊場八番札所で、 サクラやボタンの 名所としても 名高く、「花の御寺」とも称せられ、四季を通じて花を欠かさないお寺であるが、春から夏にかけてのサクラやボタンの時期は殊に華やかで、境内は満員の盛況を見せる。このように、長谷寺は花の御寺としても親しまれているが、秋は紅葉がよく、大和では紅葉(もみじ)の名所にもなっている。 殊に本堂から五重塔を望む眺めは春の花に負けないほどの彩りを見せ、みごとである。

                    
  これは記紀、万葉の時代から「隠口(こもりく)の泊瀬山」 と枕言葉にも示され、御詠歌にも見えるように、深山幽谷の地として、当時から初瀬が紅葉の適地であったことを覗わせるものである。 写真は本堂の舞台から五重塔に向かって撮影したもの。

                               


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2011年11月28日 | 写詩・写歌・写俳

<87> 新 池 紅 葉
      紅葉を 辿り行きゆく 期待感
   奈良市の春日山は都市に隣接する原生林として知られ、 一帯は照葉樹林に被われて年中青々と 葉を茂らせているが、その一角に落葉樹による紅葉の素晴らしいところがある。極めて狭い範囲ではあるが、知る人は知っている奈良では紅葉の穴場と言ってよいところである。
  その場所は、高畑町から石仏の点在する古道で名高い柳生の里に向かう柳生街道の滝坂の道を二十分ほど登り、 春日山石窟仏のある奈良奥山ドライブウエイに合流する少し手前の辺り、 その地点に周囲が 五百メートルほどの池がある。地獄谷・新池と呼ばれる溜池であるが、この池の背景がコナラやカエデ類などの落葉樹が茂る小高い山になっていて、整備され、晩秋から初冬の時期になると、紅葉が池に映り込んで美しく見える。
  水面の紅葉は水面が鏡のようになることが条件で、天気のよい風のない午前中に撮影するのが好適である。 老婆心ながら、三脚と偏光フィルターが必携である。 撮影後は、 そこからドライブウエイを左に取って春日山の中を歩き、 若草山に出て、 若草山の草原を下るのもよく、 ドライブウエイを越えて、 柳生方面を目指し、忍辱山町の円成寺まで歩くのもカメラを持っての歩きにはよいように思われる。とにかく、地獄谷・新池は奈良の紅葉の地の一つとしてお薦め出来る。 時期がよければ、紅葉との感動の出会いがある。

                                              


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2011年11月27日 | 写詩・写歌・写俳

<86> 正暦寺紅葉
        紅葉に 染められ 声のする方へ                        
    紅葉というのは 葉の一つ一つの美しさが 全体に及び彩りをな
すもので、 よく見れば、その一つ一つは千差万別で、それぞれに似て非なるオンリーワンの存在であるのがわかる。 しかし、 それらは決して一つが独立にあるのではなく、 多数をもって構成され、そこに一大景観をなしてい るのがわかる。 紅葉とは、音楽で言えば、合唱か交響楽のようなもので、その感動はそこにあると言える。そして、 紅葉は光によってその彩りが一段と冴えるので、観賞するには陽光を必要とする。これは写真撮影に当たればよくわかることで、紅葉を見るには陽光が重要なファクターとなる。なので、紅葉の撮影に出かける場合は天候を見極めることが大切になる。
                                          

  写真は奈良市の南部に当たる菩提山町の正暦寺参道で撮影したものである。 正暦寺は正暦三年(九九二年)、一条天皇の勅命によって僧正兼俊によって創建され、当初は多数の僧坊からなる大寺院であったが、治承四年(一一八〇年)、平重衡の南都焼き討ちの際、 類焼して全山消失し、廃墟になった。その後、建保六年(一二一八年)に再興したが、明治時代に入り、廃仏毀釈によって衰亡し、福寿院のみを残すに至り、 ひっそりとした感じがある。

 現在は真言宗仁和寺派に属し、本尊は白鳳仏の薬師如来倚像で、 台座に腰かけ、 踏割蓮華に足を置く倚像形式の金銅仏として重要文化財に指定されている。この像は秘仏で、毎年春季の四月十八日から五月八日と秋季の十一月一日から三十日まで、それに、 十二月二十二日に開扉して一般に公開されている。この薬師如来により、難を転ずるということで、私はこの本尊を「難転薬師」と呼んでいる。で、厄除けの人形供養でも知られ、境内地にナンテンの多いお寺でも知られる。紅葉は大和屈指の名所である。では、今一句。     紅葉の ひとひらごとの 美しさ


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2011年11月26日 | 写詩・写歌・写俳

<85> りんご

    りんごの歌がありました
   戦後間もないころのこと
   白いお米もままならぬ
   ものの足りないころでした
  
 
   姉さん唄っていましたね
   りんごに寄せるその歌を
   母さんみんなで聞いたよね
   耳を澄まして聞いたよね

   りんごが実る北国は
   晴れたお空の雪の国
   りんごは箱に詰められて
   夜汽車に揺られてやって来た

   真っ赤なりんごのその色は
   私の頬に似てました
   母さん剥いてくれたよね
   私はじっと待ちました

   戦後間もないころのこと
   りんごの歌のそのりんご
   みんなで分けて食べました
   とてもおいしく食べました

   父さん母さんいまはなく
   遥か昔のことですが
   私はいまも姉さんの
   りんごの歌を思い出す

  この間、妻の姪に次女が生まれ、お祝いをしたところ、お返しにリンゴが送られて来た。否、正確に言えば、返礼用のカタログが送られて来て、その中からこちらがリンゴを指定して送ってもらった次第である。そのリンゴがこのほど届いたのであったが、リンゴというのは懐かしい果物で、ミカンやカキと同様、昔が思い出される。
                           
  リンゴは今や大和でも作っているところがあるが、私が子供のころは青森と決まっていた。暫くして、信州も産地として登場したが、青森がまずあって、そのイメージは雪の北国であった。今はトラック輸送に負うが、 昔は木の箱に籾殻とともに詰められ、夜汽車でやって来た。
  また、私たちの世代にとって、リンゴのイメージは、昭和十五年に世に出た武内俊子作詞、河村光陽作曲の童謡 『りんごのひとりごと』 に負うところがある。瀬戸内海に面した暖かな地方で子供のころを過ごした私には、
「お国は寒い 北の国 りんご畑の 晴れた日に」という歌詞とともに、リンゴという果物が 雪の国の晴れ渡った空の下で実る情景が想像された。 今もそのイメージに変わりはない。
  なお、私たちの世代には、もうひとつリンゴの歌がある。戦後間もない昭和二十一年に映画の主題歌として登場したサトウハチロー作詞、 万城目正作曲の『リンゴの唄』である。 並木路子の歌で知られ、希望のほの見える青春の歌の感じがあり、国民の心情に添うところがあって大ヒットした。で、リンゴが送られて来たことで、このリンゴを思うところとなり、嘗て、 女の子になって作った上記の詩を思い出し、 ここに紹介することにした次第である。