大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月30日 | 万葉の花

<606> 万葉の花 (86) やまぶき (山振、山吹、夜麻夫伎、夜麻扶枳、夜麻夫枳、夜万夫吉、也麻夫伎)=ヤマブキ (山吹)

        山吹の 山路の花に 山の声

    山振(やまぶき)の立ち儀(よそ)ひたる山清水酌みに行かめど道の知らなく                     巻 二 ( 1 5 8 ) 高市皇子

   かはづ鳴く甘南備河にかげ見えて今か咲くらむ山振の花                                                巻 八  (1435)  厚 見 王

     山吹を屋戸に植ゑては見るごとに思ひは止まず恋こそ益(まさ)れ                              巻十九 (4186)  大伴家持

  ヤマブキ(山吹)はバラ科ヤマブキ属の落葉低木で、北海道南部以西の日本列島と中国に分布し、谷川沿いの崖地や傾斜地、林縁などによく生え、細くしなやかな緑色をした新枝に葉脈のよく目につく鋸歯のはっきりした長卵形の葉を互生し、四月から五月ごろにかけて新しく出た側枝ごとに鮮やかな黄色い花を連ね、花は垂れ下がり気味に咲く。

 大和でも各地に自生し、その花は極めてよく目につくが、庭などに植えられている園芸種に八重咲きが多いのに対し、自生するものは花が一重の特徴がある(写真左)。『万葉集』にヤマブキは十八首に見え、植えられたものを詠んだ歌もあるが、当時は八重咲きの花はなく、みな一重の花であったと思われる。

 まず、十八首のヤマブキを見てみると、山振の表記によるものが七首、山吹とあるものが四首、残りの七首は万葉仮名の当て字によっているのがわかる。山振と山吹はともに、枝がしなやかで、少しの風にも揺れることによる名で、揺(ゆ)りから来ているユリの名に発想を同じくしているが、確かにヤマブキのしなやかな枝の花はよく揺れる(写真右)。

                                                                                             

 次に、『万葉集』のヤマブキはどのように詠まれているのかを見てみると、ほとんどは家持の4186番の歌のように、春に咲く鮮やかな黄色の花に思いを重ねて詠んでいる手法の歌が多いのに気づく。ただ、厚見王の1435番の歌のように実景をして詠まれた歌も三首見られ、ヤマブキの存在感を示している。どちらにしても、ヤマブキは花を主体にして詠まれているのがわかる。これはツツジに似るところ、花が艶やかで、印象的だからに違いない。

 ところで、ヤマブキは昔から自生し、よく目にしていたはずであるが、記紀に登場がなく、初出は冒頭にあげた『万葉集』巻二の158番、高市皇子の歌だと言われるから不思議な気がする。この皇子の一首は時代の様相を語るものとして見ることが出来、ヤマブキにとってこの一首のみでも万葉歌に登場した意義というものが認められる貢献度の高い花だと言ってよいように思われる。

 この歌は十市皇女が亡くなったとき、皇子がその死を悲しんで詠んだ挽歌三首中の一首で、歌意は「ヤマブキが咲き装う山清水を汲みに行きたいと思うけれども、道がわからない」というもので、ヤマブキの花の黄色と清水の泉から亡くなった皇女がいる黄泉の国を連想させる歌であるのがわかる。つまり、歌の心は「あなたに逢いたいが、その方法がない」とヤマブキの花を持ち出して暗には言っていると知れる。

 高市皇子は天武天皇の皇子で、母は胸形君徳善の娘尼子娘。壬申の乱で功をなし、草壁皇子の没後、太政大臣となって、持統十年(六九六年)に亡くなった。十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王との間に生まれ、天智天皇の皇子弘文天皇(大友皇子)の妃となった。所謂、高市と十市は異母兄妹である。天智天皇が亡くなった後、皇位争奪の壬申の乱が起こり、大海人と大友の戦いになり、大海人軍が勝利したことはよく知られるが、その大海人軍を率いていたのが高市皇子だったのである。

 『日本書紀』によれば、十市皇女は天武七年(六七八年)、乱後数年を経て、未婚でない皇女が斎宮に立つために天皇が行幸しようとしたとき、出発間際に急死し、行幸は取り止めになるということになった。死因については自殺説があり、暗殺説があり、はっきりしていないが、夫(大友)が父(大海人)や兄(高市)と戦って命を落としたことに悩み苦しんでいた悲劇的死とされる見方は当然ながらあったであろう。高市皇子の挽歌によって、二人は恋仲にあったのではないかなどの推察もなされるという複雑な間柄にあった。。

 この皇女の死は当時の複雑な骨肉による政権争い、つまり、国づくりの陰でその犠牲になった一つの出来事だったのであるが、そこに生じた悲劇の一端を『万葉集』は挽歌という抒情詩の形によって後世に伝えたのである。そして、以後に登場を見る勅撰集には見られない当時の人間模様というものを浮き彫りにした。この点において、史実は言うまでもなく、文学的にもその価値が認められるところで、このヤマブキの一首はそうした意味において集中の歌の中でも大きい手柄をもってある歌だと言えるわけである。

 今一つ、ヤマブキの歌では『万葉集』の生みの親である大伴家持が思われる。家持は植物に関心を寄せた歌人で、『万葉集』に登場する歌人の中ではずば抜けて多くの草木をあげて詠んでいるが、草花ではナデシコ、花木ではこのヤマブキを(ほかにもあったろうと想像されるが)自邸の庭に植えて楽しんでいたほどである。植物に愛着を抱いていた家持の影響によって『万葉集』が植物の登場数の多い希有の詞華集になり、結果、当時における多くの植物が伝え得られたことが、このヤマブキの一首からは思われて来る。

 

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月29日 | 植物

<605> ワラビ考 余話

           詩歌は心の産物である

        関わる事象のすべてが

        繊細な心の網に掬われ

        その器に取り入れられ

        醸成されて言葉を紡ぐ

        この言葉に表わされる

      心のいわゆる産物こそ

        詩であり歌なのである

 この間、<554>の「万葉の花(78)わらび(話良妣)」の項で、『万葉集』巻八の冒頭に見える春の到来を歓ぶ志貴皇子の「石ばしる垂水の上のさ蕨(わらび)の萌えいづる春になりにけるかも」の歌の「さ蕨」について考察した。このさ蕨は山野に自生する羊歯植物のワラビであるが、この歌におけるさ蕨を羊歯植物のワラビとするには少々疑問に思われる点があるということで私見を述べた。今回はこのことについて今少し話しを進めてみようかと思う。

  私見というのは、大和の山野を隈なく歩いている私にして、未だ「垂水の上のさ蕨」なる自生のワラビの実景に出会ったことがないということに由来する。つまり、ワラビというのは自然においては「垂水の上」に生え出すことはまずなく、「垂水の上のさ蕨」という表現にはいささか自然の観点からして違和感があるからである。

  そこで、この歌は純然たる自生の実景を詠んだものではなく、自邸の庭に造られた小滝に関わる春の光景ということが想像されて来ることが言える。ワラビではなく、ゼンマイの類ではないかと指摘する研究者もいるが、自然の実際から考えると、ワラビよりも湿気を好むゼンマイやフキノトウ、或いはチャルメルソウといった植物の方が歌の状況に合致する。ということで、さ蕨と他植物を重ねたか、または混同して用いたかということも考えられる。しかし、ゼンマイとワラビを間違うことはなかろうから、やはり、自邸の庭に造られた小滝の上(傍)に植えているワラビではないかというのが妥当なように思われる。歌の内容から毎年春になると見られる光景である点をしても自邸の庭というのはピッタリである。

                       

  詩歌を作る場合、現場に足を運んで、それを十分に観察し、或いは写生して、その通りに写して作るというやり方もあるが、足を運ぶにしても、写生の通りに描写して、作り上げるということよりも、写生を基にイメージを膨らませ、それに心を通わせて作品に仕上げるということもある。詩歌においてはどちらもあり得ることであるが、作品は作者の心を通過して言葉上に構築され発せられるものであることを理解する必要がある。言わば、自邸の庭から山野の自然にイメージを膨らませるということは詩歌においてはあり得る。

  で、心の網に掬われ、その心の器の中で醸成された詩歌がその心の関わりによって個性のある産物になるわけである。言わば、歌人斎藤茂吉の言う「実相観入」論などもこの辺りを斟酌しなければ十分でないと言えるわけで、歌の良し悪しなどにも繋がることが思われて来る。だが、そこをも跳びぬけた世界というものが心と言葉の絡む詩歌にはあるもので、カラスを黒いとは言わず、非現実に走って、白いと表現することも可能なわけで、これをして幻想と言ったりするが、そこまでは行かないまでも、作者が自分の心持ちを重視するとき、往々にして事実と異なることもその作詩、作歌においては展開されることになる。

  これが文芸作品というもので、抒情詩としてある短歌という詩形にも当てはめられると言える。だから、先人も述べている。心と言葉のどちらに重きを置くかにおいて文芸作品では心に重きを置くことになる。例えば、『古今和歌集』の仮名序で紀貫之が言っているところの「やまとうたは、ひとつのこころを種として、よろづのことの葉とぞなれりける」というがごとくである。

  しかし、突き詰めて考える鳥や植物の研究をしている学術学研の徒には納得がいかないことになるケースも生じる。これが文芸と学術学研との違いで、抒情に重きを置く文芸側はこの抒情をもって主張し、世の共感を得る。だが、理屈を盾にする学術学研側はその理屈を盾に論を曲げないところがあるからその見方は噛み合わないところが生じて来たりすることになる。

  こういう場合、問われるのはむしろ作者ではなく、その作品の鑑賞者であって、教科書なんかでは、こういう仕儀に至ると、よく教育上問題があるとして、直ぐさま当該作品を排除してかかり、臭いものに蓋をするようなやり方で掲載を見送ったりするのであるが、これは決してよいやり方とは言えない。教育では生徒を適切な鑑賞者に導くことが求められるのであるから、指摘される疑問点にも目を向け、それをも含めて作品を総合的に鑑賞するという姿勢が望まれる。時と場合にもよるが、作品に多少の瑕瑾があっても、感動に値するものであれば、作品は成立する。  写真は左からワラビ、フキノトウ、ゼンマイ、オオチャルメルソウ。

 

 


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2013年04月28日 | 写詩・写歌・写俳

<604> 田端義夫の逝去に思う

         時は私たちに変質をもたらす

       良しにつけ 悪しきにつけ

       その変質は見え隠れしつつ

       私たちに納得と妥協を強い

       納得出来ないものの抵抗をも

       呑み込んでゆく

       私たちはこれらの影響と

          新しい時の素地とによって

       また一つの時代を生んでゆく

       懐かしさという感傷を

          常ながら まといつつ

 この四月二十五日、歌手の田端義夫が亡くなった。九十四歳だった。彼の歌声に懐かしさを覚えるのは私たちの世代を含め、高齢な人たちではないかと思われる。私には、昭和二十一年(一九四六年)世に出た「かえり船」(清水みのる作詞、倉若晴生作曲)があげられる。この歌は、終戦にともない、外地から引き揚げて来る人たちの心情を歌ったもので、ヒットし、よく歌われた。

                                   (一)                               (二)                               (三)     

                          波の背の背に 揺られて揺れて          捨てた未練が 未練となって              熱い涙も 故国に着けば                                    月の潮路の かえり船                      今も昔の 切なさよ                        うれし涙に 変るだろ                              霞む故国よ 小島の沖じゃ                瞼合せりゃ 瞼に浮ぶ                    かもめゆくなら 男のこころ                               夢もわびしく よみがえる                  霧の波止場の 銅鑼の音                せめてあの娘に つたえてよ

 これがその歌で、私は、子供のころ、母が縫物に用いていた針山の台に紐をつけてギター代わりに肩にかけ、よくこの歌を歌っていた。近くにギターを持っているお兄さんがいて、床の間に置いてあったのを触らせてもらったことがあった。微かではあるが、恐るおそる触ったのを覚えている。

                                            

 この歌が登場する終戦を挟んで、戦中戦後、社会情勢は大きく変わり、時代を映す歌にもその変化が見え、この「かえり船」を含む、戦争に関わる幾つかの歌にそれがうかがえた。例えば、私はまだ生れていなかったが、昭和十二年(一九三七年)に出た「勝ってくるぞと勇ましく」という歌い出しの「露営の歌」(薮内喜一郎作詞、古関裕而作曲)があり、終戦に至って登場する「かえり船」、更には、昭和二十三年(一九四八年)の「異国の丘」(増田幸治作詞、吉田正作曲)や昭和二十九年(一九五四年)の「岩壁の母」(藤田まさと作詞、平川浪竜作曲)となって来るわけである。

 私にとってこれらの歌には、感傷の気分が纏いついているが、この四つの歌を並べて見るとき、一つの教訓というものが脳裡に浮かんで来る。彼の逝去によって「かえり船」が思い出され、その教訓も思われたのであった。もちろん歌は残る。けれども、彼の死は戦後を生きた貴重な証言者の一人を失うような気にさせる。折しも、政治の状況は憲法を変えて戦争のしやすいように国民を誘導しにかかっている。改憲には自衛隊を軍隊にし、戦地の殺し合いに出させることを可能にするという意向が見える。果たして、このようになれば、自衛隊とは異なり、軍隊に入る意志を持つものは少なくなろう。挙句の果ては、強制力によって軍隊に入らなくてはならない徴兵制が敷かれるようになって行く。

 そのようになれば、今の男の子たちは軍に入れられ、運悪くば自分の意志に関わらず戦地に赴き、殺し合いをしなくてはならなくなる。こういうことになると、また、その指揮を高めるために、「勝ってくるぞと勇ましく」と歌った「露営の歌」なども復活することになるのだろう。戦争などというのは、勝っても負けても当事者には大いに傷つき、悲劇を生むことは必定である。軍隊を持てるようにする改憲はこのことを覚悟してかからなくてはならない。言わば、「かえり船」の歌のように帰れた人はまだ幸せな部類だったのであることを肝に銘じて置かなくてはならない。

 とにかく、この「かえり船」が世に出て以来、日本という国は、一度も戦争をせず、平和に過して来た国である。言わば、「バタやん」こと田端義夫はこの日本が平和にあった時代に活躍した歌手だった。実に日本的である「かえり船」を口ずさみながら、天寿を全うした九十四歳のまずは冥福を祈りたいと思う。 写真はイメージによる。

 


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2013年04月27日 | 写詩・写歌・写俳

<603> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (15)

       [碑文]      草臥て 宿かる比や 藤の花                                                       松尾芭蕉 (はせを)

 フジの花が咲く季節がやって来た。で、またも芭蕉であるが、紹介する碑はフジの花を詠んだこの句碑になった。この句は『笈の小文』に見えるもので、吉野で花見をした後に「旅の具多きは道障りなりと、物皆払ひ捨てたれども、夜の料にと紙衣(かみこ)一つ、合羽やうの物、硯・筆・紙・薬等、昼笥なんど物に包みて、後に背負ひたれば、いとど脛弱く力なき身の、後ざまに控ふるやうにて、道猶進まず、ただ物憂き事のみ多し」という一文を前書にした形で置かれ、長谷寺参籠の「春の夜や籠り人ゆかし堂の隅」の初瀬の句へと続く。この句は過酷であった旅の様子に触れるところとなり、『猿蓑』、『蕉翁句集』、『泊船集』などにも収められ、人口に膾炙するところとなった。

 句は藤の花が季語で春ということになるが、ここには少し経緯がある。それは以下に示すところ、即ち、貞享五年(一六八九年)四月二十五日付で知友の惣七宛てに送られた書簡によると、石の上の在原寺や石上神宮に参詣した後、桃尾の滝に足を延ばし、丹波市(たんばいち・現天理市)、八木(現桜井市八木か、位置的に違うが)というところ、耳成山の東に当たる地に泊まったということで、書簡には「ほととぎす 宿かる比の 藤の花」という句が添えられていた。

                                                                      

 この書簡によって、最初はホトトギスが来鳴く夏の句として詠まれ、これを「ほととぎす」から「草臥(くたびれ)て」に変更し、「草臥て宿かる比や藤の花」と春の句にしたため、『笈の小文』では、旅程春の吉野(吉野山)と初瀬(長谷寺)の間に挿入したのではないかと言われることになった。これは季語を約束事にしている俳句と日月を辿る紀行文の事情によるものであろう。初案のほととぎすの句ではほととぎすの夏と藤の花の春が同居する気分を割く句になる。これは拙く、後日これに気づいた芭蕉はこれを嫌って『笈の小文』の句に改作したのではなかろうか。

 当時は都から初瀬や吉野に向かう場合、丹波市、三輪という街道沿いの宿場町に旅宿したに違いなく、芭蕉は伊賀上野の郷里で越年し、伊勢神宮に参詣した後、伊勢街道(初瀬街道)を逆に辿って大和に入ったわけで、『笈の小文』の旅はそのような順になっている。句碑が丹波市の一角に当たる天理市三昧田のJR桜井線(万葉まほろば線)長柄駅北東の地に建てられているのは、この書簡の信憑性によるものであろう、『笈の小文』の旅程から見ると不思議に思えるが、この経緯はそこに鍵がある。

 碑の説明によると、句碑は、文化十一年(一八一四年)、芭蕉の信奉者、あるいはフアンであろう、三輪山下芝邨風来庵雪酔なる人物によって建てられたということで、江戸時代後期のものであるが、手入れがよいからか、苔など付着せず、年代を感じさせない綺麗な碑である。碑の傍には藤棚が設けられ、今、藤色の花を咲かせている。右端の写真は天理市内の山の辺の道沿いの池畔で見かけたフジの花であるが、池ではブラックバスを釣る人の姿が見られた。   ブラックバス 釣る人の背に 藤の花


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2013年04月26日 | 植物

<602> シロバナウンゼンツツジ (白花雲仙躑躅)

          白い小さなかわいい花だ

        風が渡ってゆくたびに

        花はやさしく撫でられて

        ゆり籠みたいに揺れている

        小川の水はさらさらと

        白い小さなかわいい花は

        流れの音を汲むように

        止むことなしに揺れている

        揺れていよいよ春の中

        春は日長の心地よさ

 また、生駒市のくろんど池に出かけた。シロバナウンゼンツツジの花を撮影したいため。二年越しで探しているが、これまで数回、見つけることが出来ずにいた。今日は場所を変えて少し範囲を広げて歩いてみた。結果、やっと見つけることが出来た。普通のツツジよりも花が小振りで、固まって咲かず、一つ一つ花がつく特徴がある。葉もほかのツツジに比べて小さく、シロバナウンゼンツツジに間違いない。近畿の分布は生駒山系のこの辺り一帯に限られ、ここより東には分布しない暖地型の落葉低木で、林縁等の明るいところに生えるようである。

 『万葉集』には九首にツツジが登場するが、その中に「白つつじ」で見える歌が三首ある。三首とも「美保の浦」、「鷺坂山」、「佐紀野」と場所が特定された歌で、これを素直に見ると、美保の浦は和歌山県日高郡美浜町美尾付近、鷺坂山は京都府城陽市久世、佐紀野は奈良市佐紀町付近と考えられ、ほぼ同じ東経に位置するのがわかる。

                      

 ここで万葉の白つつじが如何なる種類のツツジかということが問われることになるが、これにはこれまであまり触れられていない。思うに、園芸種を除いて、大和に白い花を咲かせる白つつじはゴヨウツツジのシロヤシオとシロバナウンゼンツツジしか見られない。この植生の自然分布の観点から、シロヤシオは紀伊山地の深山に生育するもので、歌の場所には当てはめられず、園芸種も当時は見られなかったから、三首に登場可能なのはこのシロバナウンゼンツツジのみということになる。

 このツツジは個体数の減少で、現在、奈良県では希少種にあげられているが、大阪側では少し多く見られるようで、場所的には東経を同じくする歌の三箇所に一致することが指摘出来る。現状は厳しい個体であるが、万葉当時にはもう少し数も多く、広範囲に見られたということも考えられるから、万葉の白つつじは、このシロバナウンゼンツツジではないかと思われて来るわけである。 初めて実物に出会ったが、想像以上に可愛らしい花であった。 写真は左がそのシロバナウンゼンツツジ、右はシロヤシオ。