<606> 万葉の花 (86) やまぶき (山振、山吹、夜麻夫伎、夜麻扶枳、夜麻夫枳、夜万夫吉、也麻夫伎)=ヤマブキ (山吹)
山吹の 山路の花に 山の声
山振(やまぶき)の立ち儀(よそ)ひたる山清水酌みに行かめど道の知らなく 巻 二 ( 1 5 8 ) 高市皇子
かはづ鳴く甘南備河にかげ見えて今か咲くらむ山振の花 巻 八 (1435) 厚 見 王
山吹を屋戸に植ゑては見るごとに思ひは止まず恋こそ益(まさ)れ 巻十九 (4186) 大伴家持
ヤマブキ(山吹)はバラ科ヤマブキ属の落葉低木で、北海道南部以西の日本列島と中国に分布し、谷川沿いの崖地や傾斜地、林縁などによく生え、細くしなやかな緑色をした新枝に葉脈のよく目につく鋸歯のはっきりした長卵形の葉を互生し、四月から五月ごろにかけて新しく出た側枝ごとに鮮やかな黄色い花を連ね、花は垂れ下がり気味に咲く。
大和でも各地に自生し、その花は極めてよく目につくが、庭などに植えられている園芸種に八重咲きが多いのに対し、自生するものは花が一重の特徴がある(写真左)。『万葉集』にヤマブキは十八首に見え、植えられたものを詠んだ歌もあるが、当時は八重咲きの花はなく、みな一重の花であったと思われる。
まず、十八首のヤマブキを見てみると、山振の表記によるものが七首、山吹とあるものが四首、残りの七首は万葉仮名の当て字によっているのがわかる。山振と山吹はともに、枝がしなやかで、少しの風にも揺れることによる名で、揺(ゆ)りから来ているユリの名に発想を同じくしているが、確かにヤマブキのしなやかな枝の花はよく揺れる(写真右)。
次に、『万葉集』のヤマブキはどのように詠まれているのかを見てみると、ほとんどは家持の4186番の歌のように、春に咲く鮮やかな黄色の花に思いを重ねて詠んでいる手法の歌が多いのに気づく。ただ、厚見王の1435番の歌のように実景をして詠まれた歌も三首見られ、ヤマブキの存在感を示している。どちらにしても、ヤマブキは花を主体にして詠まれているのがわかる。これはツツジに似るところ、花が艶やかで、印象的だからに違いない。
ところで、ヤマブキは昔から自生し、よく目にしていたはずであるが、記紀に登場がなく、初出は冒頭にあげた『万葉集』巻二の158番、高市皇子の歌だと言われるから不思議な気がする。この皇子の一首は時代の様相を語るものとして見ることが出来、ヤマブキにとってこの一首のみでも万葉歌に登場した意義というものが認められる貢献度の高い花だと言ってよいように思われる。
この歌は十市皇女が亡くなったとき、皇子がその死を悲しんで詠んだ挽歌三首中の一首で、歌意は「ヤマブキが咲き装う山清水を汲みに行きたいと思うけれども、道がわからない」というもので、ヤマブキの花の黄色と清水の泉から亡くなった皇女がいる黄泉の国を連想させる歌であるのがわかる。つまり、歌の心は「あなたに逢いたいが、その方法がない」とヤマブキの花を持ち出して暗には言っていると知れる。
高市皇子は天武天皇の皇子で、母は胸形君徳善の娘尼子娘。壬申の乱で功をなし、草壁皇子の没後、太政大臣となって、持統十年(六九六年)に亡くなった。十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王との間に生まれ、天智天皇の皇子弘文天皇(大友皇子)の妃となった。所謂、高市と十市は異母兄妹である。天智天皇が亡くなった後、皇位争奪の壬申の乱が起こり、大海人と大友の戦いになり、大海人軍が勝利したことはよく知られるが、その大海人軍を率いていたのが高市皇子だったのである。
『日本書紀』によれば、十市皇女は天武七年(六七八年)、乱後数年を経て、未婚でない皇女が斎宮に立つために天皇が行幸しようとしたとき、出発間際に急死し、行幸は取り止めになるということになった。死因については自殺説があり、暗殺説があり、はっきりしていないが、夫(大友)が父(大海人)や兄(高市)と戦って命を落としたことに悩み苦しんでいた悲劇的死とされる見方は当然ながらあったであろう。高市皇子の挽歌によって、二人は恋仲にあったのではないかなどの推察もなされるという複雑な間柄にあった。。
この皇女の死は当時の複雑な骨肉による政権争い、つまり、国づくりの陰でその犠牲になった一つの出来事だったのであるが、そこに生じた悲劇の一端を『万葉集』は挽歌という抒情詩の形によって後世に伝えたのである。そして、以後に登場を見る勅撰集には見られない当時の人間模様というものを浮き彫りにした。この点において、史実は言うまでもなく、文学的にもその価値が認められるところで、このヤマブキの一首はそうした意味において集中の歌の中でも大きい手柄をもってある歌だと言えるわけである。
今一つ、ヤマブキの歌では『万葉集』の生みの親である大伴家持が思われる。家持は植物に関心を寄せた歌人で、『万葉集』に登場する歌人の中ではずば抜けて多くの草木をあげて詠んでいるが、草花ではナデシコ、花木ではこのヤマブキを(ほかにもあったろうと想像されるが)自邸の庭に植えて楽しんでいたほどである。植物に愛着を抱いていた家持の影響によって『万葉集』が植物の登場数の多い希有の詞華集になり、結果、当時における多くの植物が伝え得られたことが、このヤマブキの一首からは思われて来る。